6月25日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

天覧試合の日。
1959(昭和34)年、第124代天皇、昭和天皇とその后、香淳皇后両陛下が、初めてプロ野球の試合を球場でご覧になった日。天覧試合とは、天皇が観戦する武道やスポーツ競技の試合のことである。相撲においては、神話の時代からの歴史がある。明治から昭和前期の第二次世界大戦以前にあっては、剣道や柔道の天覧試合が知られ、他の競技では1929(昭和4)年に、大学野球の早慶戦(早稲田大学と慶應義塾大学との対校戦で、硬式野球が「早慶戦」の起源となり、この早慶両校の野球チームの対抗は、現在のような各種野球大会・対抗戦・競技団体組織が未整備であった当時創成期の日本野球界や、さらにスポーツ界全体においても大変な人気を博し、その後の東京六大学野球連盟の結成、さらに、各地のアマチュア野球の形成・発展、そして、プロ野球の発足へと続く日本野球の発展に大きく貢献し、またその礎となった)が天覧試合として行なわれている。第二次世界大戦以後は、1947(昭和22)年に都市対抗野球大会、1950(昭和25)年に早慶戦で天覧試合が行なわれた。次いで、1959(昭和34)年に行なわれたプロ野球の試合が、歴史的イベントとして記憶されることとなる。プロ野球の天覧試合はこれが初めてであった。試合は、後楽園球場(東京都文京区後楽にあった野球場で、1987[昭和62]年に閉鎖)で行なわれた読売巨人軍(読売ジャイアンツ)対大阪タイガース(現:阪神タイガース)第11回戦。当日の後楽園球場では鳴り物応援が禁止されており、球場の雰囲気も、普段に比べとても静かであった。試合は白熱した展開が続き、4対4の同点で迎えた9回裏、読売巨人軍(読売ジャイアンツ)の長嶋茂雄が大阪タイガースの新人投手、村山実からサヨナラホームランを放ち、初の天覧試合は読売巨人軍(読売ジャイアンツ)の勝利で幕を閉じた。長嶋茂雄はこの試合を、選手として最も印象的な試合としている。昭和天皇香淳皇后両陛下は、試合結果を見届けた上で、球場を後にした。天皇の観戦は、プロ野球が日本を代表する人気プロスポーツとしての地位を得たことを示す契機と言える。ただ、これ以降、プロ野球公式戦では天覧試合は行なわれていない。闘志むき出しで全身を使った「ザトペック投法」で知られ、ルーキーイヤーとなった1959(昭和34)年には、18勝10敗、防御率1.19の活躍で、最優秀防御率のタイトルを獲得し、新人ながら沢村賞(日本のプロ野球創設期における伝説の大投手、沢村栄治を記念し、シーズンで最も優れた先発完投型の本格派投手に授与される賞)も受賞した村山実(新人王のタイトルは、新人新記録となる31本塁打を放ち、新人ながら本塁打王のタイトルを獲得した大洋ホエールズ[現:横浜DeNAベイスターズ]の桑田武に譲っており、新人で沢村賞を受賞しながら新人王に選ばれなかった投手は、現在も村山実だけである)は、長嶋茂雄に左翼ポール際へのサヨナラ本塁打を打たれたが、微妙な判定であったため、村山実は生涯「あれはファウルだった」と言っている。以来、村山実と長嶋茂雄とのライバル関係ができ上がった。村山実の長嶋茂雄への拘りは私生活にも現れ、初めて購入した自宅の電話番号の下四桁が「3279」、つまり、「3(長嶋茂雄の背番号)に泣く」と読める語呂合わせになっており、強く変更を望んだエピソードがある。当時は、電話を引くだけでも大変であった時代のため、しばらくは止む無く、この電話番号を使っていたという。村山実は、長嶋茂雄とは現役時代は口も利かなかったが、引退後は意気投合し、お互いに「チョーさん」「ムラさん」と呼び合う仲になった。 
指定自動車教習所の日。
東京都千代田区九段南に事務局を置く、指定自動車教習所で構成される業界団体、一般社団法人全日本指定自動車教習所協会連合会が制定。1960(昭和35)年6月25日、「道路交通取締法(昭和22年11月8日法律第130号)」が廃止されて「道路交通法(昭和35年6月25日法律第105号)」となり、指定自動車教習所制度が始まったことと、6月25日の「6」と「25」で、「無事故(む[6]じ[2]こ[5])」と読む語呂合わせから。教習所の1日開放等、地域の住民を対象とした交通安全イベント等を行なっている。1948(昭和23)年1月1日、「道路交通取締法」に基づいて指定自動車練習所が制度化される。都道府県の知事(後に公安委員会)の指定した自動車練習所が発行する証明書をもって運転免許試験を免除することとなる。技能試験のみではなく、筆記試験も免除であった。翌年、試験の免除は練習所卒業後1年以内と限定された。1960(昭和35)年12月20日に「道路交通法」が施行され、指定自動車教習所に制度変更となる。運転免許試験の内、技能試験のみが免除となるように変更された。施設、指導員、運営方法等、関わる詳細な設置基準が設けられ、全国統一的に運用されるようになる。自動車教習所は、運転免許を受けようとする者に対して、自動車の運転に関する道路交通法規等の知識、そして運転に関する技術を教習させる施設である。普通自動車免許に関する技能教習、学科教習、技能検定等が主な業務となるが、教習所によっては、大型自動車や中型自動車、大型自動二輪車、普通自動二輪車等の教習・検定も実施している。また、公安委員会(警察の民主的運営と政治的中立性を確保するため、警察を管理する機関)の委託を受けて、高齢者講習や運転免許取消処分者講習、運転免許取得時講習、初心運転者講習等を実施している。ペーパードライバー(自動車運転免許証を取得し、現に有効な免許を保有しているものの、普段運転することがない者や、運転する機会がない者)や高齢者、プロドライバー等、免許保有者に対して運転免許取得者認定教育を行なっている教習所もある。多くの自動車教習所では、普通自動車においては、約60時間程度の講習カリキュラムが組まれており、これらを数週間から数ヶ月の期間で習得させていく。そのため、在校生は自宅から教習所へ通っていく形を取るが、一部の自動車教習所では、寮やホテル、旅館といった宿泊施設に泊まり込みながら教習を行なう、合宿免許と呼ばれる合宿教習を行なっている所もある。18歳人口の減少(少子化)や若者の車離れが顕著になった1990年代末頃から、都市部を中心に各教習所間の競争が激化している。売上が減少していく中で、サービス・接遇に取組む教習所がある一方、料金のディスカウント(値下げ競争)も激しくなっている。地方部の不採算校では、合宿教習に取組むところも増えてきたが、宿泊施設等の管理や仲介業者への手数料負担が重く圧し掛かってくる。厳しい経営環境で回復の見込みが立たないこともあって、関連企業の意向や他業種への転換を狙っての廃業が、2000(平成12)年頃から目立っている。
サザンの日。
1978(昭和53)年6月25日、1980年代から2010年代まで、4つの年代でチャート1位という記録を持ち、幅広い世代に支持されているロックバンド『サザンオールスターズ』がシングル「勝手にシンドバッド」でメジャーデビューした。ファンは、このデビュー日を記念して、毎年6月25日を『サザンの日』と呼んでいる。『サザンオールスターズ』のメンバーは、青山学院大学の学生で結成され、1974(昭和49)年から断続的に活動が始まり、1979(昭和54)年に「いとしのエリー」が大ヒットする。『サザンオールスターズ』の大半の曲は、バンドリーダーである桑田佳祐が作詞・作曲・歌唱を担当している。『サザンオールスターズ』は、テレビの音楽番組における歌詞の字幕スーパー(テロップ)が流される端緒を作ったとされる。これは、桑田佳祐の早口の歌い方に、視聴者が「歌詞が判らない」と苦情を寄せたため、テレビ局が桑田佳祐の歌い方に対応するため、歌番組でのテロップ表示を行なったからである。