6月25日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4火曜日 旧暦  5月20日、赤口(庚申)、月齢 18.6 
グレゴリオ暦で年始から177日目、年末まであと189日。
誕生花 ヒルガオ(ピンク)。

船員デー(Day of the Seafarer)。
国際連合の専門機関である国際海事機関(IMO)が制定した国際デーの1つ。改正された「1978年の船員の訓練及び資格証明並びに当直の基準に関する国際条約(STCW条約)」を採択するための、フィリピンの首都マニラでの2010(平成22)年外交会議で採択された決議の中で制定され、世界中の船員が、国際的な海上貿易、世界経済、市民社会に貢献していることを認識する目的があり、政府、海運会社、企業、船主、その他の関係者全員に、この国際デーを正当、かつ適切に推進し、それを有意義に祝うための行動を起こすよう奨励する。この日を中心として、写真をSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス、インターネット上の交流を通して社会的ネットワークを構築するサービス)に投稿するキャンペーン等が実施される。
救癩の日。
1931(昭和6)年から1963(昭和38)年まで実施されていた記念日。癩病(らい病・ハンセン病)の予防と患者の救済に深い関心を寄せていた第123代天皇、大正天皇の后、貞明皇后の誕生日が、記念日の日付の由来となっている。貞明皇后は、大正天皇が病に陥って執務不全となった後は、天皇に代わり皇室を取仕切り、元老(天皇の輔弼[天皇の行為としてなされ、或いは、なされざるべきことについて進言すること]を行ない、内閣総理大臣の奏薦[天皇に推薦を行なうこと]等、国家の重要事項に関与した重臣)等と渡り合った。1926(大正15/昭和元)年12月25日、貞明皇后の手厚い看護も空しく、療養中の大正天皇が葉山御用邸(現在の神奈川県三浦郡葉山町に所在する、天皇や皇族の小規模の別荘)で崩御する。摂政を務めていた皇太子の裕仁親王(第124代天皇、昭和天皇)の皇位継承、及び皇太子妃良子の立后に伴ない、皇太后(先代の天皇の皇后であった者の称号)となる。1931(昭和6)年には、貞明皇太后からの下賜金を元に、「癩予防協会」が設立された。1964(昭和39)年からは、6月25日を含む1週間である「ハンセン病を正しく理解する週間」に移行した。元々は1931(昭和6)年に「らい予防ディ」と呼ばれ、ハンセン病患者の救済を名目に、無らい県運動と強制隔離政策を奨める、日本国政府のキャンペーンであった。1951(昭和26)年に貞明皇太后が崩御したことに伴なって、「救らいの日」になっていた。
住宅デー。
職人の腕と信用を広く世間にアピールしようと、東京都新宿区高田馬場に事務局を置く、全国の住宅を中心とした建設作業に従事している人々の団体、全国建設労働組合総連合(全建総連)が1978(昭和53)年に制定。スペインの建築家、アントニオ・ガウディの誕生日、1852(嘉永5)年6月25日を記念したもの。職人の腕と信用を地域の人達に再認識してもらう日とされる。制定当時は、1954(昭和29)年12月から1973(昭和48)年11月までの約19年間とされる、高度経済成長期(日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期)による住宅建設ブームで、職人を巡るトラブルも多発した。そのため、町の大工や左官屋等、職人の腕をPRするために制定された。アントニオ・ガウディは、19世紀から20世紀にかけてのモデルニスモ(19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動、アール・ヌーヴォーと類似した芸術様式)期のバルセロナ(スペイン北東部に所在)を中心に活動した。サグラダ・ファミリア(聖家族教会)やバルセロナの街が一望できるグエル公園、カサ・ミラ(バルセロナにある実業家の邸宅で、壮麗で非常に印象的な建物)を始めとしたその作品は、アントニオ・ガウディの作品群として1984(昭和59)年、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)に登録されている。サグラダ・ファミリアは、アントニオ・ガウディの未完作品であり、日本語に訳すると、聖家族贖罪教会という正式名称を持つ、スペインのバルセロナにあるカトリック教会のバシリカ(建築の平面形式の1つで、中央の身廊の2辺、又はそれ以上の辺を、側廊によって取囲むもの)である。バルセロナ市のシンボルであるこの建物は、綿密に構成された象徴詩的なシンボロジーと共に、パラボリックな(放物線状の)構造のアーチや、鐘楼に据えられた自然主義(物質・感覚・衝動・生命等、自然的なものを基盤にした世界の捉え方)と抽象主義(定形を否定し、色彩を重んじ、激しい表現を行なうもの)の混在する彫刻等で、大胆な建築様式を誇っている。生前のアントニオ・ガウディが実現できたのは、地下聖堂と生誕の門(生誕のファサード、3つの門によって構成され、イエス・キリストが生まれてから初めて説教をするまでの様子を彫刻で表現している)等となるが、贖罪教会なので、作業の財政は喜捨(進んで金品を寄付すること)に頼っている。そのため、別々の箇所を同時に建設することはできなかったが、1990年代以降は、訪問者の流れと作品の世評の高まりが財政状況を好転させた。9代目設計責任者の建築家ジョルディ・ファウリは、アントニオ・ガウディの没後100年に当たる2026(平成38)年に完成予定と発表している。アントニオ・ガウディは、後半生を熱心なカトリック教徒として過した。1914(大正3)年以降、アントニオ・ガウディは宗教関連以外の依頼を断って、サグラダ・ファミリア(聖家族教会)の建設に全精力を注いだ。しかし、親族や友人の相次ぐ死によるアントニオ・ガウディの仕事の停滞と、バルセロナ市が財政危機に見舞われたことによって、サグラダ・ファミリア(聖家族教会)の建設は進まず、同時に進めていたバルセロナ近郊のコロニア・グエル教会堂(コロニア・グエルとは、事業の繊維工場を中心にした工業団地のことで、その工場で働く労働者達が職場近くに住めるように、敷地内に住居や学校、病院等も作られ、この団地に礼拝用のコロニア・グエル教会堂が建てられた)の建設工事は、未完のまま中止されてしまう。1915(大正4)年、コロニア・グエル教会堂の半地階部が落成し、教会堂として利用され、それから仮設の屋根等が付けられたが、1916(大正5)年に建設は完全に中断した。後の1955(昭和30)年から教区教会堂となったコロニア・グエル教会堂は、今でも上層は未完成である。さらに1918(大正7)年、生涯最大の後援者であったスペインの実業家・政治家エウゼビ・グエイ伯爵が死去した。なお、バルセロナの街が一望できるグエル公園は元々、施主のエウゼビ・グエイ伯爵(スペイン語読みではグエルとなる)とアントニオ・ガウディの夢が作り上げた分譲住宅であった。この頃、バルセロナでは工業化が急速に進んでおり、それに対して、アントニオ・ガウディガウディとエウゼビ・グエイ伯爵はこの場所に、人々が自然と芸術に囲まれて暮らせる、新しい住宅地を作ろうとした。しかし、その進み過ぎた発想と、自然の中で暮らす価値観は、当時は理解されなかった。結局、広場、道路等のインフラストラクチャー(インフラと略称される、国民福祉の向上と国民経済の発展に必要な公共施設)が作られ、60軒が計画されていたが、買い手が付かず、結局売れたのは2軒で、買い手はアントニオ・ガウディ本人とエウゼビ・グエイ伯爵だけであったという。エウゼビ・グエイ伯爵の没後に工事は中断し、市の公園として寄付される。現在は、アントニオ・ガウディが一時住んだこともある家が、「ガウディ記念館」として公開されている。中には、アントニオ・ガウディがデザインした家具等も集められて展示されている。この頃の不幸の連続が、アントニオ・ガウディを変えたと言われている。アントニオ・ガウディは、取材を受けたり写真を撮られたりするのを嫌うようになり、サグラダ・ファミリア(聖家族教会)の作業に集中するようになった。そして、1926(大正15)年6月7日、アントニオ・ガウディはミサに向かう途中、路面電車に轢かれた。晩年、身なりに気を遣わなかったため、浮浪者と間違われて手当てが遅れ、事故の3日後に73歳で息を引取った。アントニオ・ガウディの遺体は、サグラダ・ファミリア(聖家族教会)に埋葬されている。 また、アントニオ・ガウディは女性恐怖症であったようで、終生独身であった。