6月25日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

詰替えの日。
埼玉県川越市芳野台に本社を置く、化粧品の開発、製造、販売等を手掛ける企業、株式会社ちふれ化粧品が制定。詰替え用商品を多くの人が利用し、省資源活動を推進させて環境保護の大切さを実感してもらうことが目的。日付は、1974(昭和49)年6月25日、第1次オイルショック(原油の供給逼迫、及び原油価格高騰と、それによる世界の経済混乱)によって原材料が高騰している中、価格の維持や省資源を推進するために、株式会社ちふれ化粧品が詰替え化粧品を発売したことから。詰替え用商品を多くの人が利用し、省資源活動を推進させて、環境保護の大切さを実感してもらうことが目的。容器を省略したものが詰替え用商品で、一般的には、容器入りよりも得になっていることが多い。しかし、実際の店頭等では、詰替え用商品よりも、容器入り商品の方が実は「お買い得」に売られていることもある。環境面を考えれば、詰替え用商品を選ぶべきとは言え、メーカー側や店舗側では、「新規顧客の獲得のため」「セット購入してもらうため」、また、ビジネスとして、容器入り商品を安く提供している訳である。経済性を重視するのか、環境への優しさを重視するのか、その判断は消費者個々に委ねられている。
加須市うどんの日。
埼玉県の北東部に位置する加須市が、郷土料理であるうどんの魅力をPRし、産業の振興と地域の活性化を図ることを目的に制定。埼玉県加須市内には約40店舗と、うどん店が多くある。これらの店舗で「加須手打うどん会」を発足し、記念日としたこの日に、「手打うどん即売会」「親子手打ちうどん教室」等のイベントを開催している。また、町おこしとして、市役所等では「手打うどんのまち スタンプラリーマップ」を無料配布している。日付は、埼玉県加須市内にある不動ヶ岡不動尊總願寺に1711(正徳元)年頃、加須名物の「饂飩(うどん)粉」を贈られた上野国館林藩(越智松平家)初代藩主で舘林城主、松平清武(江戸幕府第6代将軍徳川家宣の弟)からの御礼状が残されており、そこに6月25日の日付が記されていることから。加須市では、「加須市うどんの日」を条例で定めている(「加須市うどんの日を定める条例[平成25年7月9日条例第23号])。この地域は過去には、川の氾濫により肥沃な土が運ばれ、小麦の栽培に適した地であったとされており、米より小麦の栽培が盛んであった。江戸時代半ばに、不動ヶ岡不動尊總願寺の門前で、うどんを参拝客に振舞ってもてなしたのが始まりと言われる。明治時代には、その地で青縞織り(藍染物の伝統工芸品)の市が定期的開催され、関東一円から人が集まるようになると、織物職人や商人等の昼食や、土産物として発達した。また、古くから家庭でもうどんが作られていたという。この地で、栽培が盛んな小麦の地粉を使用して、手捏ね・足踏みと、寝かせを通常の2倍程行ない、切った後にごく短い時間棒に掛けて干す。コシが強く、加水率が高い。店ではもりうどんで食べるのが一般的で、丼に入ったうどんの上にかき揚げが載り、猪口に入っためんつゆと共に出て来るスタイルもある。つゆは天ぷらと兼用で、冷たいものと暖かいものを選ぶこともできる。関東では蕎麦が好まれ、関西ではうどんが好まれるとされているが、蕎麦は東日本、うどんは西日本とするのは正しくない。江戸時代前期の江戸の市中においては、まだ麺類としての蕎麦(蕎麦切り)が普及しておらず、蕎麦がき(蕎麦粉を使った初期の料理で、細長い麺とはせず、塊状で食するもの)等の形で食べられていたことから、江戸でも麺類としては、うどんに人気があったようである。蕎麦きりの元祖は信州そばであり、これが信州(現在の長野県)から甲州街道や中山道を通して江戸に伝えられたものとされる。蕎麦きりが普及すると、蕎麦と蕎麦屋が独自の文化を育む母体となっていったこと、脚気防止のために冷害にも強い蕎麦が好まれたこと等の理由により、うどんと共に蕎麦が広がった。現在の関東地方では、二毛作(同一の田や畑で、同一年度内の異なった時期に2種類の作物を栽培する方法で、田の二毛作は稲作[表作]の後に麦作、緑肥[栽培している植物を、収穫せずそのまま田畑に漉き込み、つまり、 植物と土を一緒にして耕し、後から栽培する作物の肥料にすること、又は、そのための植物]作等の裏作を行なう)による小麦栽培が盛んで、うどんは日常的な食事であった。
生酒の日。
京都市伏見区南浜町に本社を置く、清酒・リキュール類の製造販売、ビール・ワインの輸入販売を行なう老舗日本酒メーカー、月桂冠株式会社が制定。日付は、本格的な「生酒(なまざけ)」を発売した、1984(昭和59)年6月25日から。月桂冠株式会社の超精密ろ過技術の応用で、常温流通が可能になった生酒。これにより、蔵元でしか味わえなかったしぼりたての美味しさを、全国どこでも楽しめるようになったことから、その歴史を伝え、生酒の魅力を、より多くの人に知ってもらうことが目的。生酒は、「火入れ」と呼ばれる、60℃程度の加熱処理を一度も行なわずに出荷される酒である。そのため、しぼりたてのフレッシュな香味を楽しむことができ、冷やして飲むのに適している。常温流通可能な月桂冠「生酒」の賞味期間は、製造年月から約8ヶ月となっている。日本酒の火入れは、加熱により殺菌するために行なわれる。通常の日本酒は、火入れを貯蔵前と容器詰めの際の2度行なう。また、生貯蔵酒は、生のまま貯蔵し、容器詰めの際に1度、火入れを行なう。月桂冠株式会社の生酒の場合、精密なろ過により、酵母や酒を腐敗させる火落菌を除去し、さらに、「限外ろ過(ウルトラフィルター)」と呼ばれる超精密ろ過により、常温流通が可能な生酒を実現した。但し、常温流通可能な生酒でも、通常の酒と同様に、冷暗所で保存する等、丁寧に取扱うことが必要である。創業は1637(寛永14)年とされる月桂冠株式会社は、明治時代以降、急速に全国展開し、日本最大級の酒造メーカーとなった。第二次世界大戦後、業界に先駆けて、1年を通して醸造可能な「四季醸造蔵」を建設し、大量の酒を供給することにも成功した。また、堅実な経営を脈々と続けてきたことで知られ、一貫する経営方針や、その経営内容は、大企業でも参考にするものが多い。
ノーコード開発の日。
東京都品川区大井に本社を置く、ノーコードに特化したソフトウェアの開発、販売、また、それらのサポート等を行なうIT企業、アステリア株式会社が制定。プログラミングの専門知識を必要としない「ノーコード」で開発できるソフトウェアの認知度を高め、ITに対する心理的なハードルを下げることや、日本社会全体のDX(デジタル・トランスフォーメーションの略で、「ITの浸透が、人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」という仮説)によって、効率的な社会インフラ(人間の活動の基盤となる基盤、インフラストラクチャー[インフラ]の中でも、特に生活や福祉に関するもの)を促進することが目的。日付は、自社が開発した「ノーコード」と称する、グラフィカルなプログラミング等を特徴とするソフトウェアパッケージ「ASTERIA R2(現:ASTERIA Warp)」の販売を開始した、2002(平成14)年6月25日から。「ASTERIA Warp」は、既存の、或いは、新規に設計したデータベース、ファイルシステム、各種業務システム、各種クラウドサービスを簡単に接続、連携することができ、豊富な接続アダプターも提供しており、システム間連携やデータ分析・マスターデータ管理を行なう際のデータ統合、業務自動化等の多彩な用途で、様々な企業で利用されている。
浜木綿忌。 
作曲家で箏曲家、宮城道雄の忌日(1956年[昭和31]年6月25日)。「浜木綿忌」という名は、遺作の歌曲『浜木綿』に因む。宮城道雄は8歳で失明したが、11歳で免許皆伝となる。1919(大正8)年に作曲家としてデビューした後、1929(昭和4)年に発表した箏曲『春の海』は、フランス人女流ヴァイオリニスト、ルネ・シュメーと競演され、世界的な評価を得ることになった。17本の絃(弦)を持つ箏(琴に似た日本の伝統楽器)である「十七絃」十七絃の発明者としても知られる。大検校(検校は、僧侶及び盲人の官職名)であったため、広く「宮城検校」と呼ばれた。宮城道雄の作品は、クラシック音楽の影響を受け、構成感(形式感)と拍節感の明晰さや、主旋律と伴奏の対比を特徴としている。また、変奏曲というクラシック音楽のジャンルや、デュエット、或いは、アンサンブルといった西洋的な発想を創作に取入れていることも注目される。さらに、宮城道雄は、『雨の念仏』等の随筆により、文筆家としての評価も高い。迫り来る得体の知れない恐怖感を表現した小説や、独特なユーモアに富んだ随筆等を得意とした作家・随筆家の内田百閒とは親友同士であり、交友も深く、双方の随筆で度々言及し合っていた。