6月22日 できごと その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1906年 - 北ヨーロッパのスカンディナヴィア半島に位置する国、スウェーデンで、国旗に関する法律によって、国旗のデザインや使用についての規定が定められる。スウェーデンの国旗には、青地に金のスカンディナヴィア十字(左側に交点が寄った横長の十字で、北ヨーロッパ地域でよく見られる十字)が描かれており、金十字旗とも呼ばれる。このデザインと色使いは、1442年に制定されたスウェーデンの国章(国家を象徴する紋章や徽章のことで、国徽とも呼ばれ、一般に、国旗よりもデザインが複雑なため、その国の風土、歴史、文化等が象徴的に表現され、その国を理解する上で、国旗よりも多くの情報を読取ることができる)に由来するものと考えられている。この国章では、青字が金色のクロスパティー(十字の紋章の1つで、アームの幅が中央は細く、端では広がっているものであり、ポウクロスや末広十字とも呼ばれる)で4つに区切られており、デンマークの国旗(赤地に白のスカンディナヴィア十字を描いた旗で、北ヨーロッパ諸国でよく使われる、「スカンディナヴィア十字」の基ともなっとされ、現在使用されている国旗の中で、世界最古の国旗の1つと言われる)に倣ったものとされている。但し、青と黄色の色使い自体は、少なくとも1275年に制定された、スウェーデン王国国王マグヌス3世の王室の紋章で既に使われている。この国旗に使われた色については、青は澄んだ空、金はキリスト教・自由・独立を表わすとも言われる。現在、通常の旗竿に国旗を掲揚する際は、国旗の幅は、竿の高さの4分の1のものを使用することが推奨されている。また、何らかの建物に設置されている旗竿の高さ(長さ)の3分の1の幅の国旗を使用することが推奨されている。また、国旗を掲揚するのは日中のみ、とすることが強く推奨されており、遅くとも午後9時までとされる。但し、もし国が戦争状態にある場合は、夜においても国旗を掲げることが推奨されている。かつて、国旗の個人的な団体での使用禁止に関して、幾つかの有名な例外があったが、これら全ては、1906年6月22日の新国旗の規定の制定の際に廃止されている。
1907年 - 「東北帝国大学ニ関スル件(明治40年6月22日勅令第236号)」により、東北帝国大学(現在の東北大学の前身)が創設される。但し、この時点では、札幌農学校(明治初期に北海道札幌に置かれた教育機関)を東北帝国大学農科大学(札幌区)へと改組するのみに留まっており、宮城県仙台での東北帝国大学の開学は、準備が整った1911年のこととなる。
1908年 - 赤旗事件(錦輝館事件)。東京府東京市神田区錦町(現在の東京都千代田区神田錦町)の映画館「錦輝館」に集まっていた荒畑寒村等「直接行動派(硬派)」と呼ばれる社会主義運動の指導者層が、警官隊と衝突し、社会主義運動の指導者層ら十数名が一挙に逮捕される。
1911年 - イギリス国王ジョージ5世が戴冠(国王が即位の後、公式に王冠・帝冠を聖職者等から受け、王位への就任を宣明する儀式を行なうこと)。1914年の第一次世界大戦開戦に伴ない、イギリスとドイツは戦火を交えることとなるが、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、イギリス国王ジョージ5世の従兄に当たり、従兄弟同士が第一次世界大戦で、敵同士として戦っている。第一次世界大戦後、国内外において様々な問題に直面することになったが、アイルランド独立法案を成立させ、アイルランドの自治領として将来の独立への足掛かりを作ったり、世界恐慌時の財政難に際しても、予算の均衡を保つべく、自ら王室費の削減を提唱する等、要所要所で活躍する場面が見られる。  
1919年 - イギリスとアイスランドの間にある北大西洋の諸島でデンマークの自治領、フェロー諸島の旗が初めて掲げられる。
1931年 - 太刀洗飛行場(現在の福岡県三井郡大刀洗町と福岡県朝倉郡筑前町に跨る地域にあった日本陸軍の飛行場)から大阪に向かっていた日本航空輸送(第二次世界大戦前に存在した日本の民間航空会社)の単発小型旅客機、フォッカー社(ドイツの航空機メーカー)製スーパーユニヴァーサルが、有視界飛行中に、梅雨時の霧に突入したため高度を下げたところ、福岡県朝倉郡夜須村(現在の福岡県朝倉郡筑前町)の冷水峠付近の山腹に激突。乗客1名、乗員2名の計3名が全員死亡する。事故機に搭乗していた乗客1名は、日本における商業定期便最初の犠牲者となる。
1940年 - 第二次世界大戦・ナチス・ドイツのフランス侵攻: フランス首相のフィリップ・ペタンがドイツと独仏休戦協定に調印。フランスがドイツに降伏する。
1941年 - 第二次世界大戦・独ソ戦: ドイツ軍のソビエト連邦への侵攻作戦、バルバロッサ作戦が開始される。
1944年 - 第二次世界大戦・独ソ戦: ソビエト連邦赤軍(地上軍[陸軍])のドイツ軍に対する反撃作戦、バグラチオン作戦が開始される。
1945年 - 第二次世界大戦: 第124代天皇、昭和天皇が、最高戦争指導会議で初めて終戦の意図を示す。
1945年 - 第二次世界大戦: 「戦時緊急措置法(昭和20年6月22日法律第38号)」公布。「戦時緊急措置法」は、本土決戦に備えて政府に広範な命令権を含む委任立法権を規定した法律である。第二次世界大戦後、「国家総動員法及戦時緊急措置法廃止法律(昭和20年12月20日法律第44号)」により1946年4月1日に廃止となる。
1946年 - プラカード事件: 皇居(宮城)前(現在の東京都千代田区に所在)で行なわれた飯米獲得人民大会(食糧メーデー、政府の食糧配給遅延に抗議する集会)で、「朕はタラフク食ってるぞ」と書かれたプラカードを掲げた労働運動家の松島松太郎が、不敬罪(皇族等に対し、その名誉や尊厳を害する等、不敬とされた行為の実行により成立する犯罪)で起訴される。後に、不敬罪規定自体が廃止消滅したため免訴となる。
1955年 - 三鷹事件(中央本線三鷹駅構内で起きた無人列車暴走事件)の上告審で、最高裁判所が元国鉄(日本国有鉄道、現在のJR東日本[東日本旅客鉄道])運転士竹内景助被告に対して死刑判決を確定。
1957年 - 反党グループ事件。ソビエト連邦共産党中央委員会第一書記ニキータ・フルシチョフを解任しようとした、ゲオルギー・マレンコフら党保守派幹部が、党役職を解任される。
1960年 - 日本航空が、東京国際空港(羽田空港) - 福岡空港(板付空港)間に深夜割引便「ムーンライト号」の運航を開始。その後、日本航空の深夜便は、東京国際空港(羽田空港)を拠点に、幹線と準幹線、ローカル線を運航していた日本国内航空(1971年に、広島に本社を置き、大阪国際空港[伊丹空港]を拠点にローカル線を中心に運航していた東亜航空と合併して東亜国内航空となり、1988年4月に日本エアシステムへと商号を変更した後、2006年には、日本航空と経営統合される)に移管され、1970年前後に最盛期を迎える。当時は、騒音公害が問題となっていたが、双発ターボプロップ旅客機(エネルギー出力の大部分を、プロペラを回転させる力として取出す機構を備えたエンジン、ターボプロップエンジンを使用する旅客機)、日本航空機製造(NAMC)YS-11を使用することで、夜間離着陸禁止の対象外として、一日5往復も運航されている。しかし、航空機の大型化と、便数増大による搭載力の向上や、夜間離着陸の完全禁止により、深夜便はその活躍の場を失ない、1974年秋、東亜国内航空による福岡便を最後に消滅する。