6月22日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

-217年 - 第四次シリア戦争: ラフィアの戦い。古代エジプトのマケドニア[ヨーロッパの南東部、バルカン半島中央部に相当する地域]系王朝、プトレマイオス朝のファラオ(国王)プトレマイオス4世が、セレウコス朝(最大期にはシリア、アナトリア[現在のトルコ共和国のアジア部分]、イラン等に跨る広大な領域を支配した王国)のアンティオコス3世を打破る。
-168年 - 第三次マケドニア戦争: ピュドナの戦い。マケドニア南部、エーゲ海沿岸にあるピュドナで、共和政ローマ軍がマケドニア王国(アンティゴノス朝)軍に大勝する。
0802年 - この年の富士山噴火(延暦大噴火)により陥没した足柄路(現在の静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境に位置する足柄峠を通る街道)の代わりに、筥荷路(箱根路、現在の神奈川県足柄下郡箱根町と静岡県田方郡函南町の境に位置する箱根峠を通る街道)が開通する。
1360年 - 北朝方の関東管領(室町幕府が設置した鎌倉府の長官、鎌倉公方を補佐するために設置された役職)畠山国清により、南朝の有力武将であった楠木正儀の赤坂城(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村に所在した城)が落城する。しかし、室町幕府の武将間で内部対立が起こり、室町幕府軍は撤退する。鎌倉幕府打倒に貢献した楠木正成の三男で、父や兄(楠木正成の嫡男、楠木正行)と並び、南北朝時代を代表する名将とされる楠木正儀は、南朝総大将として北朝から京を4度奪還している。また、鑓(槍)を用いた戦術を初めて普及させ、兵站・調略・後詰といった戦略を重視し、日本の軍事史に大きな影響を与える。
1377年 - 前日のイングランド王エドワード3世の死去に伴ない、孫に当たるリチャード2世が10歳で即位する。リチャード2世は、優秀な軍人でありながら、父よりも早く病没したエドワード黒太子の次男で、兄が1372年に7歳で早逝したため、エドワード3世の後嗣となっている。
1403年 - 相国寺(現在の京都市上京区今出川通烏丸に所在)の七重大塔が落雷のため焼失する。室町幕府第3代将軍足利義満によって、1399年に建てられた七重大塔は、全高(尖塔高)約109.1mを誇り、史上最も高かった日本様式の仏塔である。1914年の日立鉱山(主に銅と硫化鉄鉱を産出した、茨城県日立市に所在した鉱山)の煙突(高さ約155.7m)竣工までのおよそ515年間、高さ歴代日本一の構築物の記録は破られていない。七重大塔は、北山山荘(京都市北区金閣寺町に所在する、後の鹿苑寺)内に塔を移して再建された(北山大塔)が、足利義満没後の1416年に再び落雷で焼失し、その後、室町幕府第4代将軍足利義持の意向で、相国寺の元の場所において再建された3代目の塔も、1470年にまたもや、落雷で焼失している。
1582年 - 魚津城の戦い: 魚津城(現在の富山県魚津市に所在した城)に籠城していた越後国の国人領主で上杉氏の家臣、中条景泰らが切腹して魚津城を開城し、戦いが終結する。柴田勝家ら、織田信長軍の北陸担当部門が北陸地方を制圧したが、直前に織田信長が明智光秀により討たれた(本能寺の変)ことで、主君の死に動揺した織田信長軍は四散する。
1582年 - 備中高松城の戦い(羽柴秀吉が、毛利氏配下の清水宗治の守備する備中国高松城[現在の岡山市北区高松に所在]を攻略した戦い)で備中国(現在の岡山県西部)在陣中の羽柴秀吉の下に、本能寺の変の知らせが届く。
1593年 - シサクの戦い。クロアチア(東ヨーロッパ、バルカン半島に位置する国)軍がオスマン帝国(現在のトルコ共和国の前身)軍に勝利する。アナトリア(小アジアとも呼ばれる、アジア大陸最西部で、西アジアの一部をなす地域)の片隅に生まれた小君侯国から発展したイスラム王朝であるオスマン帝国は、やがて、東ローマ帝国(東西に分割統治されて以降のローマ帝国[古代ローマが、イタリア半島に誕生した都市国家から、地中海に跨る領域国家へと発展して成立した帝国]の東側の領域、国家)等の東ヨーロッパキリスト教諸国、マムルーク朝(アフリカ大陸北東部に位置するエジプトを中心に、中東・西アジアに位置するシリアや、ヒジャーズ[アラビア半島の紅海沿岸の地方]までを支配したイスラム王朝)等の西アジア・北アフリカのイスラム教諸国を征服して、地中海世界の過半を覆い尽くす世界帝国となっていたが、不敗とされたオスマン帝国軍の初の敗退となる。
1633年 - ローマ教皇庁(ローマ教皇の下に、全世界のカトリック教会を統率する組織)の異端審問所である検邪聖省の裁判で、イタリアの物理学者・天文学者・哲学者、ガリレオ・ガリレイに有罪判決が下り、ガリレオ・ガリレイは、自説の地動説を撤回する異端誓絶文を読上げさせられる。
1636年 - 江戸幕府が第四次鎖国令を布告。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287名をマカオ(現在の中国南東部に所在)へ追放し、残りのポルトガル人を出島(現在の長崎市に築造された人工島)に移す。
1783年 - 北ヨーロッパの北大西洋上に位置するアイスランド南部の火山、ラキ火山の噴火により発生した有毒ガスが、フランス北西部の大西洋に臨む港湾都市ル・アーヴルに到達。噴煙は噴火対流によって高度約15kmにまで達し、この粒子の影響で、北半球全体の気温が下がり、ヨーロッパでは「ラキのもや」と呼ばれる。
1815年 - ワーテルローの戦い(現在のベルギー南部にあるワーテルロー近郊において、イギリス・オランダを始めとする連合軍等とフランス軍との間で行なわれた戦闘)で敗れたナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)が、フランス皇帝を退位させられ、南大西洋に浮かぶ絶海の孤島セントヘレナ島に流される。ヨーロッパ諸国との戦争に敗れてフランス皇帝から退位したナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)が、1815年3月1日に帰国して帝位を取戻し、ワーテルローの戦いに敗れて、再びその地位を追われるまでの、約100日間の一時的支配、百日天下が終了する。
1868年 - 戊辰戦争: 奥羽列藩同盟(陸奥国[現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部]と出羽国[現在の山形県と、北東部以外の秋田県]の諸藩が、陸奥国会津藩と出羽国庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を目的として結んだ同盟)が成立。
1893年 - 西アジア・中東に位置するレバノン北部の港町トリポリ沖で、イギリス海軍の戦艦『キャンパーダウン』と、同じイギリス海軍の戦艦『ヴィクトリア』が衝突事故を起こし、『ヴィクトリア』は艦腹を破られて短時間で沈没し、358名の死者を出す。
1897年 - インド西部のマハラシュトラ州プーナ(現在のプネー)で、イギリス植民地政府の役人が暗殺される。犯人と目された人物達は後に処刑され、インド独立運動の最初の犠牲者と見做されている。
1898年 - 憲政党結成。憲政党は、板垣退助の自由党と大隈重信の進歩党が、8月10日に予定されていた第6回衆議院議員総選挙に備えて、幕末に雄藩(経済力や政治力のある有力藩)と呼ばれ、明治維新を推進して明治政府の主要官職に人材を供給した薩摩国/大隅国薩摩藩、周防国/長門国長州藩、土佐国土佐藩、肥前国佐賀藩(肥前藩、鍋島藩)の4藩の総称、いわゆる「薩長土肥」で占められた政府での派閥、藩閥が重要なポストを独占した状態の政府、藩閥政府に反対するために、合同してできたものである。しかし、総選挙直後に再分裂し、旧自由党側が「憲政党」の名称保護を強行して引続き「憲政党」を名乗り、旧進歩党側は憲政本党と名乗る。