6月22日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の日。
2009(平成21)年より厚生労働省が実施。2001(平成13)年6月22日、「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律(ハンセン病補償法、平成13年6月22日法律第63号)」が公布・施行されたことに因み、ハンセン病患者、及び、ハンセン病の患者であった人々の名誉回復を図ることを目的として、厚生労働省主催による追悼・慰霊等の行事が行なわれる。世界の各地域から採取された、らい菌を遺伝子解析し比較した研究によると、らい菌は東アフリカで誕生したと見られている。西ヨーロッパには中世初期に侵入したと考えられており、11世紀から12世紀頃にハンセン病の流行がピークとなった。16世紀には、ヨーロッパやアフリカからアメリカ大陸にハンセン病がもたらされた。そして18世紀には北アメリカ、19世紀後半には太平洋諸国に広がった。1897(明治30)年、ドイツで開かれた第1回国際らい会議で、強制隔離政策が推奨された。1909(明治42)年にノルウェーで第2回国際らい学会が開催され、強制隔離政策による対策の重要性が再確認されると共に、早期にハンセン病患者から子供を引離すことが推奨された。1931(昭和6)年、国際連盟は「らい公衆衛生の原理」と題する著作を発刊し、ハンセン病の早期患者に対しては施設隔離を行なわず、外来診療所で大風子油(当時の治療薬)による治療を行なうのが望ましいとされ、政策として初めて「治療対策」「脱施設隔離」が打出された。但し、その一方で、重症の伝染性の強い患者は施設に強制的に隔離する重要性も再確認されている。1938(昭和13)年にエジプトで開催された第4回国際らい学会では、その影響を受けて、疫病地の大風子油による施設治療政策は認められた。1941(昭和16)年にはアメリカで、新薬であるプロミンが使用され、これによって、大風子油からプロミンと治療方法が変化し、ハンセン病は治る病気となった。その後、隔離政策は徐々に衰退し、外来診療が重視されていくことになる。但し、日本では世界的な動向と逆行するかのように、1931(昭和6)年に強制隔離政策(感染の拡大を防ぐため、全患者を療養所に強制的に入所させる政策)が開始された。「らい予防法(昭和28年8月15日法律第214号)」は、らい(ハンセン病、結核菌と近縁である病原性抗酸菌「らい菌」の感染により引起される慢性の細菌性感染症)予防、及びらい患者に対する適正な医療の普及を図ることによって、らいが個人的にも社会的にも害を及ぼすことを防止し、もつて公共の福祉を増進することを目的として制定された法律であったが、「らい予防法の廃止に関する法律(平成8年3月31日法律第28号)」と、ハンセン病療養所における療養、及び生活の保障、社会復帰、名誉回復等について定められた「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律(ハンセン病問題基本法、平成8年4月1日法律第28号)」をもって廃止され、ハンセン病患者は、一般の病院や診療所において健康保険で診療できるようになった。近年では、ハンセン病に対する理解とハンセン病患者に対する国民の意識が変わり、ハンセン病患者やその家族に対する差別は緩和されてきた。しかしその一方で、ハンセン病元患者のホテルへの宿泊を拒否する等の事件が、その後も度々起きており差別が完全になくなった訳ではない。なお、1月29日が「世界救癩(らい)の日」とされている他、6月25日を含む1週間が「ハンセン病を正しく理解する週間」とされている。根強く残るハンセン病に対する誤解や社会的偏見を正し、正しい認識を持つための、6月25日を含む1週間。1931(昭和6)年から1963(昭和38)年までは、ハンセン病の予防と患者の救済に深い関心を寄せていた第123代天皇、大正天皇の后、貞明皇后の誕生日、6月25日が「救らいの日」とされていたが、1964(昭和39)年からは、「ハンセン病を正しく理解する週間」に移行した。元々は1931(昭和6)年に「らい予防ディ」と呼ばれ、ハンセン病患者の救済を名目に、無らい県運動と強制隔離政策を奨める、日本国政府のキャンペーンであった。1951(昭和26)年に貞明皇后が崩御したことに伴ない、「救らいの日」になっていた。癩(らい)とは、ハンセン病の旧称であり、抗酸菌(酸に対して抵抗力のある細菌)の一種であるらい菌の皮膚のマクロファージ(白血球の1種)内寄生、及び末梢神経細胞内寄生によって引起こされる感染症である。病名は、1873(明治6)年にらい菌を発見したノルウェーの医師、アルマウェル・ハンセンに由来する。ハンセン病は古くから世界の各地に存在していた病気で、多くの古文書にハンセン病を思わせる記述が残されている。ハンセン病に有効なワクチンは開発されておらず、ハンセン病の発症を予防することは困難とされている。
各務原市平和の日。
1945(昭和20)年6月22日、大空襲を受けたことに因んで、岐阜県各務原市が、悲惨な戦争体験を思い起こし、平和の尊さを後世に伝えようと、「各務原市平和の日を定める条例(平成2年3月19日各務原市条例第1号)」により、1990(平成2)年に制定。各務原市では、各務原空襲の中でも、最も被害の大きかったこの6月22日を「平和の日」と定め、平和のパネル展や、折り鶴の展示等を行なっている。1945(昭和20)年6月22日午前9時30分過ぎ、アメリカ軍の戦略爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレス数十機の爆撃により、川崎航空機岐阜工場の他、各務原市中心部の市街地等が爆撃され、多くの犠牲者や物的被害を受けた。1917(大正6)年6月、陸軍各務原飛行場が完成し、各務原市は陸軍航空の拠点となった。本社、及び工場が兵庫県神戸市にあり、船の建造を生業にしていた「株式会社川崎造船所」が、1922(大正11)年に飛行機部を設置し、飛行機部各務ヶ原分工場が開設され、その後も増産を重ねて、1937(昭和12)年には、飛行機部門は「株式会社川崎造船所」から分離独立して「川崎航空機工業株式会社」となり、大規模な工場を建設した。戦争の拡大で航空機の増産が要求され、1944(昭和19)年12月には、徴用工・学徒動員・女子挺身隊を含め、従業員は約4万名に膨らんでいた。第二次世界大戦対米英戦当時、この各務原で生産された飛行機は、陸軍の全飛行機の約70%に相当し、その中でも、「川崎航空機工業株式会社」が開発製造した「キ61 陸軍三式戦闘機 飛燕」は、岐阜工場で約2,800機も生産されている。「キ61 陸軍三式戦闘機 飛燕」は、当時の日本唯一の量産型高速戦闘機で、本土防衛の重要な飛行機とされたが、防弾装備や燃料タンク等を追加した量産機では、鈍重な戦闘機となってしまう。それでも、高度10,000mを飛ぶ戦略爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレスに攻撃を実施するのは非常に困難な中で、「キ61 陸軍三式戦闘機 飛燕」は、陸軍が持つ戦闘機で唯一、高度10,000mで戦闘ができたとされる。1945(昭和20)年6月22日の空襲で、川崎航空機岐阜工場は壊滅的な被害を受け、航空機の生産は停止されることとなる。「株式会社川崎造船所」は1939(昭和14)年に「川崎重工業株式会社}と社名を変更し、1969(昭和44)年には「川崎航空機工業株式会社」を合併して、現在では、オートバイ・航空機・鉄道車両・船舶等の輸送機器、その他機械装置を製造する、日本を代表する総合重機械メーカーとなっている。