6月22日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4土曜日 旧暦  5月17日、先負(丁巳)、月齢 15.6 
グレゴリオ暦で年始から174日目、年末まであと192日。
誕生花 ガマズミ。

二十四節気・雑節等
満月。
望。月と太陽の黄経差が180°となる日。天文学的満月。旧暦の十五夜とは一致しないことが多い。なお、旧暦八月の十五夜は、「中秋の名月」と呼ばれる。「中秋」という表現は、「秋の中日(ある期間の真ん中に当たる日)」であることから、旧暦8月全体を指す「仲秋」とは区別される。満月 (望) の月齢は、13.9日~15.6日と大きく変化する。旧暦15日は月齢14.0を含む日で、月の満ち欠け周期の半分は約14.8日となるため、平均的には満月 (望) が後になり易いと言える。

日韓条約調印の日。
1965(昭和40)年6月22日、「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約、昭和40年条約第25号)」の調印式が行なわれた。これにより、日本の韓国に対する莫大な経済協力、韓国の日本に対する一切の請求権の完全、かつ最終的な解決、それらに基づく関係正常化等が取決められた。付随協約として、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(日韓請求権並びに経済協力協定、昭和40年条約第27号)」等も同時に締結された。この条約を元に、この年の12月18日に日本と韓国との間で国交が回復した。「日韓請求権並びに経済協力協定」によって、韓国の日本に対する一切の財産、及び請求権問題に対する外交的保護権は放棄されているが、その後も韓国議会、司法、韓国民による対日請求が出されており、日本側の主張と対立が生じている。
ボウリングの日。
1861(文久元)年6月22日、日本で初めてのボウリング場「インターナショナル・ボウリング・サロン」が、現在の長崎市に所在した外国人居留地内に開場したと、日本初の英字新聞『ザ・ナガサキ・ショッピング・リスト・アンド・アドバタイザー』紙に報じられたことを記念し、東京都品川区南品川に事務局を置く、全国各地のボウリング場の管理者により結成された団体、社団法人日本ボウリング場協会(現在は、公益社団法人となっている)が1972(昭和47)年より、記念行事を行なっている。当時のボウリング場は、プレーの合間に軽飲食もできる等、外国人に人気の社交場であった。長崎出島(江戸幕府の鎖国政策の一環として、長崎に築造された人工島)には「ボウリング発祥の地」の記念碑が建てられている。この日に割引サービスを行なっているボウリング場もある。ボウリングは、テンピンボウリングとも呼ばれ、日本での漢字表記は「十柱戯」となる。ボウリングの球は、英語で「Bowling ball」と表現するため、「ボール」と表記するのが一般的である。1ゲームは10のフレームから構成される。通常、ボウリングを行なうための専用施設であるボウリング場で行なわれる。ボウリング場は、中に幾つものレーンがあり、ピンセッター(ピンを自動的に並べる機械)やボールリターン(ボールをプレイヤーの元に送り返して来る仕組み)等を備えているのが普通である。様々な重さのボールの他に、専用の靴等も貸出している。元々、ボウリングは倒すピンを災いや悪魔に見立てて、それを沢山倒すことができたならば、その災い等から逃れることができるという一種の宗教儀式であった。その歴史は古く、紀元前5,000年頃には古代エジプトにおいて、墓から木でできたボールとピンが発掘されたことから、その頃からもボウリングに似たようなものがあったとされている。しかし、倒すピンの数やそれに応じた並べ方も、場所や地域によってさまざまであった。それを中世のドイツ人司祭で神学者、マルティン・ルターが倒すピンを9本にし、並べ方も菱形に統一していったことが、近代ボウリングのルールの原型になっていったと考えられている。それからは、宗教家の間では、ボウリングは人気のあるスポーツとして栄えた。宗教革命家として知られるマルティン・ルターは、現在のボウリングの基本的なルールを統一した意外な功労者でもある、と言える。17世紀になると、多数の宗教家(清教徒[イングランド国教会の改革を唱えたキリスト教のプロテスタントの一派])達が移住したことで、アメリカでもボウリングが盛んになった。アメリカではさらに、ボウリングを面白くするためにピンの数を10本に増やし、並べ方も正三角形に変化させていったのが、現代のボウリング(テンピンズ・ボウリング)とされている。1952(昭和27)年12月20日、日本で初めての本格民間ボウリング場となる「東京ボウリングセンター」が、東京都港区北青山に開業した。1970(昭和45)年前後には、スター・プレイヤーである中山律子や須田開代子らの出現等がきっかけとなって、「ボウリング・ブーム」と呼ばれる流行振りを示した。1970(昭和45)年の終わり頃、スコアをボウラーが計算しなくても済む計算機能を持った機械が実用化され始める。このブームは、1973(昭和48)年の石油危機により一旦終息するが、1979(昭和54)年頃から人気が再燃し、当初のブームには至らないものの、現在でも安定した人気を得ている。現在もスポーツ人口が増えており、体操と並んで、国民に最も馴染みの深いスポーツの1つである。また、スポーツ競技と定義されているが、男女問わず手軽な集団レクリエーション・ゲームとしても浸透しており、余り経験の無い人も参加し易い性質を持つと言える。ワールドゲームズ(オリンピックの補完的な意味をもって行なわれるスポーツ競技大会)参加競技、アジア競技大会(第二次世界大戦後、インドの提唱により始められた、アジアの国々のための総合競技大会で、アジアオリンピック評議会[OCA]が主催するため、「アジア版オリンピック」とも言われている)の正式競技種目、国民体育大会(広く国民の間にスポーツを普及し、スポーツ精神を高揚して、国民の健康増進と体力の向上を図り、併せて地域のスポーツの振興と文化の発展に寄与すると共に、国民生活を明るく豊かにしようとするものである、公益財団法人日本体育協会、文部科学省、及び開催地都道府県の共同開催で行なわれる国内最大のスポーツの祭典で、毎年各都道府県持回りで開催されており、1988[昭和63]年の第43回大会[京都国体]から2巡目に入っている)の競技である。1988(昭和63)年のソウルオリンピック(第24回オリンピック競技大会)では、公開競技(オリンピックの主催国で根付いていたり、多くの国に広まっているスポーツをオリンピック競技として実験的に実施するもの)に採択された。古典派音楽の代表であるオーストリアの作曲家・演奏家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの作品には、「ケーゲルシュタット・トリオ」と呼ばれるピアノ三重奏曲(K498)がある。「ケーゲルシュタット」は「九柱戯」とも訳され、ボウリングの前身とされる。この曲は、モーツァルトがヴォルフガング・アマデウス・ボウリングをしながら作曲した、という逸話があるが、真偽の程は必ずしも定かではない。1990(平成2)年6月22日、日本ボウリング場協会により、長崎市大浦町で、「わが国ボウリング発祥の地」碑が建立され、1994(平成6)年9月29日には、東京都港区北青山に、東京ボウリング場協会が協会創立30周年を記念して、日本初のテンピンボウリング手動式設備を設けた「東京ボウリングセンター」を、近代ボウリングの発祥地とする記念碑が建立された。なお、「東京ボウリングセンター」の跡地は、機械・情報産業を中心とした技術の展示施設やホール等からなる複合施設、『テピア(TEPIA)』となっている。『テピア(TEPIA)』は、1階と2階に展示施設を有し、機械産業や情報産業を中心とするハイテクノロジーの展示を行なっている。また地下2階には、東急スポーツクラブ「オアシス」が入っている。ボウリングが大ブームであった頃に登場したスポ根テレビドラマの1つに、『美しきチャレンジャー』がある。1971(昭和46)年4月4日から同1971(昭和46)年10月17日まで、TBS系列で全29話放送された『美しきチャレンジャー』には、当時の人気女子プロボウラー、中山律子や石井利枝等もゲスト出演している。劇中での、「ピンではなくスパットを見て投げろ」、「フォーム改造は、一旦はスコアが落ちるが長期的にみて有利」等のアドバイスは、実際のボウリング上達にも通じるものがある。