6月21日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

世界水路の日(World Hydrography Day)。
国際水路機関(IHO)とその加盟国が、船舶交通の安全と海洋環境保全のための、水路業務や水路技術の重要性を啓蒙する目的で、2005(平成17)年11月の国際連合総会で採択した日。日付は、国際水路機関(IHO)の設立日である6月21日とされた。国際水路機関(IHO)は、1967(昭和42)年に採択された「国際水路機関条約(昭和45年条約第19号)」に基づき、海図等の改善により、航海を容易かつ安全にすることを目的に設立された国際機関である。海図は、水路図誌の一種で、航海のために作成された主題図である。航海のために必要な水路の状況、即ち、水深、底質、海岸地形、海底危険物、航路標識等が、正確に見易く表現されている。一定規模以上の船舶には、備え付けることが義務付けられている。海図は、航海のために作成されるので、航海に使い易く配慮されている。海図の精度は航海速度に直結する。海図の水深の基準面は、最低水面が基準面(即ち、0m)とされている。最低水面とは、各地毎に潮汐観測を行ない、これより下に海面が下がらない面、略最低低潮面(これより低くはならないと想定されるおよその潮位面)、最大干潮時の水面のことである。そのため、いくら潮が引いても、海図に記された水深より浅くなることは殆どない。この基準は座礁を防ぐ。海図上の海岸線の位置は、最高水面(最大満潮時の水面、略最高高潮面)を基準とし、この海面が陸地と接する線である。そのため、陸図とは異なることもある。海等に架かる橋の高さも、最高水面を基準としている。海図に記される灯台や島の高さは、その地の平均水面(潮の満ち引きがないと仮定した時の海面)からの高さで表示する。等深線という、水深のほぼ等しい場所を結ぶ細線が記載されている。この他、海図には、灯台等の航路標識の位置、定置網等の漁具の位置、無線局の位置、沈船の位置、海流・潮流一般、港界、海底の底質等が図示されている。但し、海上や海底等の状況は刻々と変化するので、海図は常に、水路通報等で最新の情報が反映されたもの使用する必要がある。現代の海図は、中国から羅針盤(磁石の作用を用いて方位を知るための道具)が導入された13世紀のヨーロッパで発達した。15世紀以降の大航海時代(15世紀中期から17世紀中期まで続いた、ヨーロッパ人によるアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行なわれた時代)には、航路の開拓と共に水深も徐々に記入されるようになる。1569(永禄12)年、オランダの地理学者ゲラルドゥス・メルカトルが、経線と緯線を格子状に書込むメルカトル図法を考案し、以後の海図には、メルカトル図法が用いられるようになった。日本では、安土桃山時代から鎖国前の江戸時代初期に海図が用いられた。江戸幕府の許可を得た貿易船(朱印船貿易)では、13世紀中頃に地中海一帯で用いられ始めた「ポルトラノ海図」が用いられ、中国沿岸や東南アジア各国へ航海していた。しかし、鎖国と共に海図は用いられなくなった。江戸時代後半になると、沿岸の海運も活発になり、実用的で簡易な海図『海瀬舟行図』が作成されるようになる。また、欧米各国の船が開国を求めて日本沿岸に現れるようになり、中には航海の安全のためとして、勝手に沿岸を測量し、海図を作成し始める国も出た。これらの状況は、海防の上でも、海上交通の安全からも問題があると見て、江戸幕府は海図の作成を始めようとする。まず、沿岸の測量を行ない、1821(文政4)年には、商人・名主(村役人)・測量家の伊能忠敬が、大日本沿海輿地全図(伊能図)を完成させた。開国後の1862(文久2)年には、江戸幕府も日本近海の測量を始めたものの、本格的な海図作成は明治時代になってからで、1870(明治3)年には、イギリスの測量船から指導を受けた明治政府が、三重県の的矢湾と尾鷲湾、塩飽諸島の測量を行なった。1871(明治4)年には、日本海軍水路寮(水路局)が創設され、北海道の諸港湾、岩手県の宮古湾と釜石湾が測量された。そして1872(明治5)年、日本海軍水路寮は、第1号海図「陸中國釜石港之圖」を作成し刊行した。その後、数次の変遷を経て、海軍省水路部となり、1920(大正9)年には「水路部令(大正9年10月1日勅令第444号)」が制定され、海軍省水路部の所掌事項は、水路の測量、兵要海象の観測、水路図誌、航空図誌の調整準備、保管・供給、航海、航空保安に関する事項と定められた。1945(昭和20)年の第二次世界大戦終戦により、海軍省は解体され、同1945(昭和20)年11月29日に水路部は運輸省(現在の国土交通省の前身の1つ)に移管され、「運輸省水路部」となった。そして、国土交通省の外局(特殊な事務、独立性の強い事務を行なうための組織)となる海上保安庁が発足すると、海上保安庁水路部となり、2002(平成14)年には、海上保安庁海洋情報部に改組される。なお、1951(昭和26)年に海上保安庁水路部は、「水路記念日」を制定している。1871(明治4)年7月28日(新暦9月12日)、海上保安庁水路部の前身となる日本海軍水路寮(水路局)が誕生したことから、当初は、旧暦の日付をそのまま新暦に適用した7月28日を記念日としていたが、1971(昭和46)年、新暦に換算した現在の日付、9月12日に変更した。
世界ALS/MNDデー(ALS/MND Global Day)。
難病である筋萎縮性側索硬化症(ALS)、及び、運動ニューロン病(MND)への関心を喚起するイベントが世界各地で行なわれる。運動ニューロン病(MND)とは、運動ニューロン(神経細胞)の変性を起こす病気のことである。筋萎縮性側索硬化症(ALS)はその代表的なもので、重篤な筋肉の萎縮と筋力低下をきたす神経変性疾患である。メジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)の国民的人気選手であったルー・ゲーリッグ(1941[昭和16]年に死亡)がこの病気に罹患したことから、別名「ルー・ゲーリッグ病」とも呼ばれ、ルー・ゲーリッグの死後に公開されたアメリカ映画(ルー・ゲーリッグの伝記映画)『打撃王』等によって、主にアメリカ合衆国で一気に知られるようになった。ルー・ゲーリッグは、毎日プレーを厭わないその頑丈さから「鉄の馬(Iron Horse)」と呼ばれ、1925(大正14)年から1939(昭和14)年までの14年間に亘り、当時の世界記録となる2,130試合連続出場を果たした。1939(昭和14)年、体調異変を感じて自ら欠場を申入れ、記録は途切れた。後の診断で筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断されたルー・ゲーリッグは、引退を決意した。ルー・ゲーリッグが、現役生活の晩年に手のレントゲン撮影を行なったところ、手だけで17もの骨折箇所が見付かった。連続出場は、これ程までにルー・ゲーリッグの身体に負担を強いており、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の発症がなくても、遠からずその記録は途切れていたであろうと推察される。ルー・ゲーリッグの引退後、ニューヨーク・ヤンキースの首脳部は、ルー・ゲーリッグが経済的に困らないよう全ての手を尽くすと述べ、フロント入りすることになっていた。当時の規則によると、1939(昭和14)年の年俸は全て支払われることになっており、また、試合も病の進行と共に歩けなくなるまで観戦し続けた。アメリカ野球殿堂への投票権を持つ全米野球記者協会(BBWAA)も、ルー・ゲーリッグの病の状況を考慮し、特例としてルー・ゲーリッグに対する特別投票が行なわれ、野球殿堂(メジャーリーグベースボール[MLB]等で顕著な活躍をした選手や監督・コーチ・審判員、また、野球の発展に大きく寄与した人物に対して、その功績を称えるもの)入りが決定した。ルー・ゲーリッグは、36歳という当時史上最年少での野球殿堂入りにも関わらず、病により式典に参加することはできなかった。 
世界一周の日。
千葉県佐倉市の世界冒険社代表、砂川博昭が制定。日付は、日本初の世界一周ツアーと言われる、朝日新聞社が主催した「朝日世界一周会」による、世界一周旅行の一行が帰国した日、1908(明治41)年6月21日から。砂川博昭は2015(平成27)年、62歳の時に1人で世界一周の旅に出発し、一時帰国を挟みながら28ヶ国を巡り、219日間で世界一周を達成した経験を持つ。その旅の途中で、世界中の人にお世話になったことから、恩返しの意味を込めて記念日を制定し、1人でも多くの人が世界一周の旅に出るきっかけになってほしい、との思いが込められている。