6月21日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第3金曜日 旧暦  5月16日、友引(丙辰)、月齢 14.6 
グレゴリオ暦で年始から173日目、年末まであと193日。
誕生花 月見草・マツヨイグサ。

二十四節気・雑節等 
夏至。
二十四節気の1つ、旧暦五月中気。一般的な定気法では、太陽黄経が90度のとき。恒気法では、冬至から182日目。日本の大部分では概ね、梅雨の最中となる。北半球では、一年中で一番昼が長く夜が短い日。『暦便覧』には「陽熱至極しまた、日の長きのいたりなるを以てなり」と記されている。なお、1年で日の出の時刻が最も早い日・日の入りの時刻が最も遅い日と、夏至の日とは一致しない。日本では、日の出が最も早い日は夏至の1週間前頃であり、日の入りが最も遅い日は夏至の1週間後頃である。日照時間の短いスウェーデンやフィンランド等の北ヨーロッパでは、太陽の恩恵に感謝して、この日を中心に夏至祭が開催される。なお、平気法とは、二十四節気(太陽が移動する天球上の道を黄道といい、黄道を24等分したものが二十四節気で、毎年同じ時期に同じ節気が巡って来るため、節気の間隔が一定で、半月毎の季節変化に対応できることから、天候に左右される農業の目安として大変便利なものであった)を配置する方法の1つである。節気間の時間が均等であることからこの名があり、恒気法ともいう。黄道を24分割する定気法が空間分割法とも呼ばれることに対し、平気法は時間分割法とも呼ばれる。冬至から翌年の冬至までの時間を、24等分して導き出す。こうして導き出された約15日毎の分点に、節気と中気を交互に配した。そして、基点である冬至を11月に固定して、各月には必ず中気(冬至から次の冬至までを12等分した各区分点であり、二十四節気の偶数番目のもので、冬至・大寒・雨水・春分・穀雨・小満・夏至・大暑・処暑・秋分・霜降・小雪がこれに当たる)が含まれることとし、中気を含まない月ができるとそれを閏月(季節と日付を合わせるため付加える特別の月で、同じ月を二度繰返し、後者を閏何月と呼ぶ)とした。中国暦では中国清朝の時憲暦(1644[寛永20]年制定)の直前まで、日本の暦では天保暦(1844[天保15/弘化元]年制定)の直前まで、いずれも平気法が用いられた。平気法のように1太陽年の時間を平均して節気を求めるのではなく、太陽の天球上の通り道である黄道と天の赤道の交点、即ち春分点を基点として24等分し、こうして導き出された15度毎の黄経(黄道座標における経度[縦の座標])上の特定の度を太陽が通過する日に、節気(正節)と中気を交互に配していく。このため、空間分割法とも呼ぶ。現在、中気は黄経30度の倍数、正節はそれに15度足したものとされている。この方法では、節気から節気までの日数が不均等になる。冬至頃には、地球が公転軌道上の近日点に位置するため、太陽が黄経上の15度を移動する速度がやや早くなり、節気間の日数は14日余りとなる。一方、夏至頃には、太陽の移動速度がやや遅くなり、節気間の日数は16日余りとなる。日数が不均等となる不便さがあるものの、太陽の実際の位置を反映し、春分・秋分は必ず太陽が真東から昇り、真西に沈む日となる。平気法では、全ての中気が太陰太陽暦(旧暦)における月と対応し、中気を含まない月を必ず閏月とするが、定気法を採用すると、この対応関係は崩れる。節気間の日数が不均等なため、一月の中に中気が2回含まれることがあり、その分中気を含まない月が多くなる。そのため、幾つかの月が中気を含めばよいと定義しなければ欠月ができるので、中気を含まない月であっても閏月とは限らない。なお、夏至は6月21日であることが多く、2019(令和元)年のように、6月22日となる年は、2015(平成27)年以来となり、次に6月22日となる年は21世紀にはない。その代わり、2056年(令和時代が続くなら、令和37年)からは、6月20日が夏至になる年もある。 
乃東枯る。
七十二候の1つ(28候)。

正倉院宝物はじまりの日。
756(天平勝宝8)年のこの日、光明皇太后が亡き夫である第45代天皇、聖武天皇の遺品を東大寺大仏に献納したとされる。光明皇太后は仏教に篤く帰依し、現在の奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である東大寺や、国分寺(聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院)の設立を、夫に進言したと伝えられる。また、貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して、慈善を行なった。夫の死後四十九日に遺品等を東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院(東大寺大仏殿の北北西に位置する、校倉造の大規模な高床式倉庫)が創設された。さらに、興福寺(現在の奈良市登大路町にある南都六宗の1つで、法相宗の大本山の寺院)、法華寺(現在の奈良市法華寺町にある仏教寺院で、奈良時代には日本の総国分尼寺とされた)、新薬師寺(現在の奈良市高畑町にある華厳宗の寺院で、奈良時代には南都十大寺の1つに数えられた)等、多くの寺院の創建や整備に関わった。なお、正倉院は、聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を始めとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物で、1997(平成9)年に国宝に指定され、翌1998(平成10)年には、「古都奈良の文化財」の一部として、国際連合教育科学文化機関(UNESCO、ユネスコ)の世界遺産(文化遺産)に登録されている。現在は、内閣府に置かれる独自の位置付けの機関、宮内庁の施設等機関である正倉院事務所が、正倉院宝庫、及び、正倉院宝物を管理している。正倉院の宝物には、日本製品、中国(唐)や西域、遠くはペルシャ(西アジア・中東に位置する現在のイランを表わす古名)等からの輸入品を含めた絵画・書跡・金工・漆工・木工・刀剣・陶器・ガラス器・楽器・仮面等、古代の美術工芸の粋を集めた作品が多く残る他、奈良時代の日本を知る上で貴重な史料である正倉院文書、東大寺大仏開眼法要に関わる歴史的な品や古代の薬品等も所蔵され、文化財の一大宝庫である。シルクロード(中国と地中海世界の間の歴史的な交易路)の東の終点とも言われる。奈良時代の官庁や大寺院には、多数の倉が並んでいたことが記録から知られる。「正倉」とは、元来「正税(毎年の租税収入と利息分)を収める倉」の意で、律令時代(7世紀後期から10世紀頃)に各地から上納された米穀や調布(租税の中の、その土地の特産物を納める「調」として納めていた布)等を保管するため、財政、特に出納に関わる事務を行なった、大蔵省を始めとする役所に設けられたものであった。また、大寺には、それぞれの寺領から納められた品や、寺の什器宝物等を収蔵する正倉があり、正倉のある一画を塀で囲ったものを「正倉院」と称した。南都七大寺(興福寺や東大寺等、平城京[南都・奈良]、及びにその周辺に存在して朝廷の保護を受けた7つの大寺)には、それぞれに正倉院が存在したが、歳月の経過で廃絶して、東大寺正倉院内の正倉一棟だけが残ったため、「正倉院」は東大寺に所在する正倉院宝庫を指す固有名詞と化した。正倉院文書は、正倉院に保管されてきた文書群で、光明皇太后の皇后宮職から東大寺写経所に至る一連の写経所で作成された文書を中心とする。奈良時代に関する豊富な情報を含む史料である。正倉院は、校倉造、屋根は寄棟造、瓦葺。規模は正面約33.1m、奥行約9.3m、床下の柱の高さ約2.5mである。建立時期は不明であるが、光明皇太后が夫聖武天皇の遺愛の品を大仏に奉献した756(天平勝宝8)年前後とみるのが通説である。759(天平宝字3)年以降、宝物出納の記録が残っていることから、この年までに建立されていたことが分かる。床下には10列×4列の柱を建て、その上に台輪(だいわ)と呼ぶ水平材を置く。この上に、北倉と南倉は校木(あぜぎ)という断面三角形の材を20段重ねて壁体を作り、校倉造とする。但し、中倉のみは校倉造ではなく、柱と柱の間に厚板を落とし込んだ「板倉」で、構造が異なる。なぜ、中倉のみ構造が異なるのか、当初からこのような形式であったのかどうかについては、諸説ある。校倉の利点として、湿度の高い時には木材が膨張して外部の湿気が入るのを防ぎ、逆に、外気が乾燥している時は木材が収縮して、材と材の間に隙間ができて風を通すので、倉庫内の環境を一定に保ち、物の保存に役立ったという説があった。しかし、実際には、重い屋根の荷重が掛かる校木が伸縮する余地はなく、この説は現在は否定されている。実際、壁面は中から見ると、あちこちから外光が透けて見える「隙間だらけ」の状態であり、湿度の管理について言えば、宝物が良い状態で保管されたのは、多重の箱に収められていたことで、湿度の「急変」が避けられたことによる部分が大きい。 現存する奈良時代の倉庫としては最も規模が大きく、また、奈良時代の「正倉」の実態を伝える唯一の遺構として、建築史的にも極めて価値の高いものである。校倉造の宝庫は長年、宝物を守ってきたが、1952(昭和27)年に鉄筋コンクリート造の東宝庫、1962(昭和37)年には同じく鉄筋コンクリート造の西宝庫が完成し、翌1963(昭和38)年、宝物類はそちらへ移された。現在、宝物の大部分は西宝庫に収納され、東宝庫には修理中の品や、西宝庫に収納スペースのない、大量の染織品が収納されている。正倉院宝物は通常時、非公開である。1875(明治8)年から1880(明治13)年まで、毎年開催された奈良博覧会の一環として、東大寺大仏殿回廊で、一部が一般に公開された。1889(明治22)年から1940(昭和15)年には、正倉院内の陳列棚を設けて、曝涼(宝物の「虫干し」のことで定期的に行なわれる)の際に、限られた人々に拝観を許していた。また、外国の高官のため、特に開封することもあった。第二次世界大戦前の大規模な一般公開は、1940(昭和15)年11月の皇紀2600年記念として、東京の帝室博物館(東京都台東区に所在する、現在の東京国立博物館)で開催された正倉院御物特別展である(約140点)。第二次世界大戦後、1946(昭和21)年に、近隣の奈良公園内にある奈良国立博物館で「正倉院御物特別拝観」として開催され、翌年以降、秋の2ヶ月の曝涼に合わせて、「正倉院展」が開催されるようになった。九州山地の中にある自然豊かな町、宮崎県東臼杵郡美郷町には、正倉院のレプリカ(複製)建築、西の正倉院がある。門外不出とされていた、奈良の正倉院原図を元に、樹齢約400年から約500年程度の木曾天然檜を使って、忠実に再建したもので、正倉院内部を見学することもできる。正倉院南倉の銅鏡「唐花六花鏡」と同一品が、宮崎県東臼杵郡美郷町に保管されていることから計画され、宮内庁が所蔵する正倉院図を元に、細部まで忠実に再現され、1996(平成8)年に完成した。古代の朝鮮半島西部、及び南西部にあった国家、百済の王族が、政争を逃れてやって来たという、百済王伝説の関係を指摘される祭、師走祭りの紹介と、銅鏡の展示等が行なわれている。