6月19日 できごと その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1927年 - 新潟県南蒲原郡見附町(現在の新潟県見附市)で大火。家屋150戸、織物工場23棟が全焼する。
1932年 - 『廣野ゴルフ倶楽部』が開場。『廣野ゴルフ倶楽部』は、兵庫県三木市志染町広野にあるメンバーシップ制のゴルフ場である。日本を代表する名門コースで、世界のゴルフコースランキングでも、日本のゴルフ場の中で常にトップにランクされる。ゴルフ場敷地内には、日本のアマチュアゴルフを統括する財団法人である日本ゴルフ協会(JGA)により設立された『JGAゴルフミュージアム』がある。『JGAゴルフミュージアム』は、日本ゴルフ界に活躍貢献した人々の顕彰と記念の品々の保存、及びゴルフの歴史文化紹介を目的に、日本ゴルフ協会(JGA)の創立55周年記念事業の一環として設立されている。
1933年 - 中部ヨーロッパの内陸に位置するオーストリアが、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)を非合法化する。
1933年 - 東海道本線の熱海駅 - 函南駅間にある複線規格の鉄道用トンネル、丹那トンネルが貫通。丹那トンネルの総延長は7,804mで、完成当時は清水トンネルに次ぐ日本第2位の長さで、鉄道用複線トンネルとしては日本最長である。1934年に丹那トンネルが開通するまで東海道本線は、現在の御殿場線を経由している。この区間は急な勾配が続くため、下り列車は国府津駅、上り列車は沼津駅において、全列車に登坂専用の補助機関車を連結しており、それでも登攀勾配による速度低下は避けられず、補助機関車を増解結するための停車時間と共に、(現在の)御殿場線の区間は、東海道本線の輸送上のボトルネックとなっていたが、丹那トンネルが開通すると、東海道本線のルートは直ちに丹那トンネル経由に変更され、線路延長が11.81km短縮されたばかりか、輸送上のボトルネックが解消される。その結果、東海道本線の速達性は改善され、運行経費も大幅に削減されている。丹那トンネルの工事は、1918年に着手され、7年後の1925年に完成する予定であったが、約16年後の1934年、当初の予定の3倍以上となる工費で完成する。この工事期間の長さと、膨れ上がった工費、事故による犠牲者67名が、難工事を象徴している。
1934年 - アメリカで、1934年通信法が施行され、連邦通信委員会(FCC)が発足する。
1937年 - 中国北東部にある黒河下流の乾岔子島と金阿穆河島で、ソビエト連邦と満州国(現在の中国東北部に所在した国)両軍が衝突する(乾岔子島事件)。実質的には日ソ国境紛争(1930年代後半を中心に満州で起きた、日本とソビエト連邦間の国境紛争)であった乾岔子島事件では、ソビエト連邦軍が侵入して満州国軍監視隊と衝突する。満州国と共同防衛の関係にある日本は、ソビエト連邦当局に厳重な抗議を行ない、ソビエト連邦軍は、7月4日までに殆ど撤収する。
1944年 - 第二次世界大戦・マリアナ・パラオ諸島の戦い: マリアナ沖海戦。日本海軍とアメリカ海軍との航空母艦(空母)機動部隊による海戦、マリアナ沖海戦は、北西太平洋の洋上に位置するマリアナ諸島周辺海域で生起する(アメリカ軍側の呼称はフィリピン海海戦)。日本側の作戦名はあ号作戦、アメリカ側の作戦名は、海上作戦を含むサイパン島攻略作戦全体について、フォレージャー作戦(「掠奪者作戦」の意味)と命名されている。日本海軍が計画した、マリアナ、北オーストラリア、フィリピン方面において、要撃決戦を企図した作戦、あ号作戦の要点は、敵情判断と油槽船の状況から、決戦方面を西カロリン(太平洋中西部のパラオ諸島やトラック諸島等)に選定し、潜水艦と索敵機により、早期に敵情を把握し、航空母艦(空母)を中核とする機動部隊、基地航空部隊の攻撃力を集中して、一挙にアメリカ海軍機動部隊を撃破、次いで攻略部隊を撃破する方針であったため、機動部隊は中南部フィリピン方面に待機し、基地航空部隊は、各主要基地に哨戒、要撃兵力を配備する他、3個攻撃集団を編成して、決戦海面に機動集中できるようにし、航空母艦(空母)機動部隊と基地航空部隊の協同に期待すると共に、航空母艦(空母)機動部隊の決戦においては昼間強襲を建て前とし、遠距離からの先制空襲を重視する。1944年5月3日、連合艦隊はあ号作戦命令を発令し、戦艦を中心とする第二艦隊と、航空母艦(空母)部隊の第三艦隊を編合して編制された第一機動艦隊(日本海軍では、従来の「機動部隊」という名称は、軍隊区分による名称に過ぎなかったが、第一機動艦隊の編制により、「機動」という語が、建制の艦隊の部隊号として初めて採択された)に出撃準備を開始させる。しかし、日本側の行動を予期していたアメリカ海軍の潜水艦多数が待伏せていたため、第一機動艦隊は十分な洋上訓練が行なえず、航空機搭乗員の練度不足は、あ号作戦に影響を及ぼすこととなる。1944年5月27日、アメリカ陸軍主体の連合軍は、西部ニューギニア沖合のビアク島へ上陸を開始する。本来、この方面は絶対国防圏からも外れ、作戦命令方針にも一致しなかったが、連合艦隊が独自の判断で、この方面の迎撃に決戦兵力の第三攻撃集団を投入してしまう。日本海軍の情勢判断は、決戦方面は依然、マリアナの公算もあると考える一方、従来のあ号作戦計画に捉われたこと、及び、ビアク島の戦いを支援するための作戦、渾作戦の進展に伴ない、ビアク島方面への関心が強くなったことから、大勢はニミッツ攻勢がニューギニア作戦に協力するか、又は、マッカーサー作戦と策応して、西カロリン攻略があるという見方が強くなる。日本海軍の予想に反して、6月11日からアメリカ海軍機動部隊が、サイパン・テニアン・グアムのマリアナ方面各島に対して連日空襲を開始する。1944年6月15日、あ号作戦の決戦発動を受けて出撃した第一機動艦隊は、6月18日、40機以上の索敵機を発進させ、三段索敵を行なう。日本の基地航空隊も、アメリカ海軍機動部隊に対する反撃を実施していたが、大きな戦果を得られずに終わる。翌6月19日、第一機動艦隊は、アメリカ海軍機動部隊を発見し、192機からなる攻撃隊を発進させる。アメリカ海軍機動部隊は、レーダーで日本海軍攻撃隊の接近を既に探知しており、日本海軍攻撃隊は、万全の防空体勢を敷いていたアメリカ海軍機動部隊に次々と撃墜され、140機を喪失する。第二波の攻撃隊はアメリカ海軍機動部隊を発見できず、その後発進した攻撃隊も、戦果を上げられず、逆に、第一機動艦隊の主力であった正規航空母艦(空母)、『大鳳』と『翔鶴』がアメリカ海軍の潜水艦に雷撃され、沈没してしまう。第一機動艦隊は、虎の子の正規航空母艦(空母)を2隻も失い、送出した攻撃隊の大半が未帰還となったことから、立直しのために北上する。日本機動部隊は、それまでに6次に亘る攻撃隊を送ったが、その全ての攻撃隊が大半を失う致命的な損害を喫し、一方、アメリカ海軍機動部隊の艦艇は、被害らしい被害を受けずに日本側攻撃隊の大半を撃墜し、自軍は空戦で29機の戦闘機を損失したに留まる。6月20日、アメリカ海軍機動部隊はようやく日本海軍機動部隊を発見し、日本海軍機動部隊までの距離が、アメリカ海軍艦載機の航続可能範囲の限界付近であることや、帰還が夜になってしまうことを覚悟の上で、216機の攻撃隊を出撃させる。アメリカ海軍攻撃隊は、日本海軍機動部隊に襲い掛かり、商船を改造した航空母艦(空母)ではあるが、船体や格納庫の大きさは正規航空母艦(空母)に引けを取らず、第一機動艦隊の主力の一翼を担っていた『飛鷹』を撃沈した他、他の航空母艦(空母)3隻にも損害を与える。6月21日、あ号作戦は中止となり、第一機動艦隊は撤退する。同6月21日、アメリカ海軍機動部隊も追撃を中止する。マリアナ沖海戦の結果、日本海軍は航空母艦(空母)と搭載機の大部分を失い、基地航空隊もほぼ壊滅して、再起不能となる。
1945年 - 第二次世界大戦・日本本土空襲: 静岡大空襲。アメリカ軍のボーイングB-29スーパーフォートレス爆撃機137機により、旧静岡市(現在の静岡市葵区・駿河区)の市街地が空襲され、被害は死者約1,950名、負傷者約5,000名、焼失戸数は26,891戸となる。
1945年 - 第二次世界大戦・日本本土空襲: 福岡大空襲。アメリカ軍のボーイングB-29スーパーフォートレス爆撃機239機が、福岡市の市街地を爆撃する。福岡市の約3分の1の家屋が罹災し、1,000名以上の死者・行方不明者を出す。
1948年 - 東京都北多摩郡三鷹町(現在の東京都三鷹市)の玉川上水で、作家の太宰治と、その愛人、山崎富栄の心中遺体が発見される。
1948年 - 衆議院で「教育勅語等排除に関する決議」が、参議院で「教育勅語等の失効確認に関する決議」が、それぞれ可決される。