6月19日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0325年 - 現在のトルコ共和国(西アジアに位置するアナトリア半島[小アジア]と、東ヨーロッパに位置するバルカン半島東南端の東トラキア地方を領有する共和制国家)領内に存在した古代ギリシャの都市、ニコメディア南部の町ニカイア(現在のトルコ共和国北西部、ブルサ県イズニク)で開かれた、キリスト教史における最初の全教会規模の会議、第1ニカイア公会議で、ニカイア信条(キリスト教の基本信条)が採択される。
1333年 - 第96代天皇、後醍醐天皇の誘いを受けて倒幕に転じた鎌倉幕府の有力御家人(将軍と主従関係にあった武士)、足利高氏(後に足利尊氏と改名)らの攻撃により、六波羅探題(鎌倉幕府が京都六波羅[現在の京都市東山区の一部]の北と南に設置した出先機関で、西国で起きた紛争を処理する裁判機能、京都周辺の治安維持、朝廷の監視、皇位決定の取次ぎ等を行なった)が陥落する。当時の探題であった北条仲時らは京を追われ、六波羅探題は壊滅する。その跡地には、京都市立六原小学校(京都市東山区松原通大和大路東入ル轆轤町にあった公立小学校で、現在は他学校と統合され、京都市街の中心地に位置する小中一貫教育校、京都市立開睛小中学校となっている)が建つのみで、近隣の六波羅蜜寺がかろうじて、往時の面影をその名に残している。真言宗智山派の寺院、補陀洛山六波羅蜜寺は、踊り念仏で知られる市聖(いちひじり)空也(くうや)が、平安時代中期、10世紀の中頃に造立した十一面観音を本尊とする道場に由来し、当初は西光寺と称する。空也は、疫病の蔓延する当時の京都で、この観音像を車に乗せて引きながら歩き、念仏を唱え、病人に茶を振舞い、多くの人を救ったという。10世紀後半に、比叡山の僧侶、中信が中興して天台別院とし、六波羅蜜寺と改称し、それ以降、天台宗に属したが、桃山時代に真言宗智積院の末寺となる。名称は、仏教の教義「六波羅蜜」という語に由来するが、この地を古来「六原」と称したことに由来するとも考えられている。江戸時代までは大伽藍を連ねたが、明治維新の廃仏毀釈(仏教寺院・仏像・経巻[経文の巻物]を破毀[破棄]し、僧尼等、出家者や寺院が受けていた特権を廃すること)を受けて、大幅に寺域を縮小する。現在、寺の周囲は民家に囲まれて境内は狭く、主な建物は、本堂(南北朝時代、重要文化財)と弁財天堂、宝物収蔵庫のみである。
1419年 - 応永の外寇。李氏朝鮮(1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家)軍が、九州本土と朝鮮半島の間にある対馬に上陸。李氏朝鮮は、倭寇(13世紀から16世紀にかけて、朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行なう貿易商人)討伐を名目として対馬を攻撃するが、対馬を支配していた宗氏(中世から近世にかけて対馬を支配した守護・戦国大名・近世大名であり続け、明治維新後は伯爵[近代日本の貴族階級、華族の等級の1つで、公爵、侯爵に次ぐ第3位]に列している)の武士団の少数による抵抗に手子摺り、台風の接近もあって、漁村と船を焼払っただけで、10日余りで対馬から撤退する。
1754年 - 当時のニューヨーク植民地(現在のアメリカ合衆国北東部に所在)の中心都市オールバニ(現在のアメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州の州都で、州の中央部東に所在)でオールバニ会議が始まり、同年7月11日まで、13植民地とインディアン(アメリカ先住民部族)の代表者が会議を行なう。
1816年 - セブン・オークスの戦い。カナダで、毛皮交易を巡り交易会社2社が戦う。
1821年 - ギリシャ独立戦争: ドラガシャニの戦い。フィリキ・エテリア(オスマン帝国[現在のトルコ共和国の前身]統治下のギリシャにおいて活動した秘密組織)が、オスマン帝国(西アジアのアナトリア半島[小アジア]と、東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する、現在のトルコ共和国の前身)に破れ壊滅する。
1846年 - 公式な記録に残る史上初の野球の試合が、アメリカ合衆国東部、ニュージャージー州ホーボーケンのエリシアン球場で行なわれる。
1846年 - アメリカの東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビドルが浦賀に来航し、通商を要求するが、江戸幕府は拒否する。
1862年 - アメリカ合衆国議会が、アフリカ人の子孫が奴隷であるか否かに拘らず、アメリカ合衆国の市民にはなれないとした「ドレッド・スコット対サンフォード事件」の判決を破棄して、アメリカ合衆国の領域内での奴隷制を禁止する。
1865年 - 奴隷解放宣言(アメリカ合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーンが、連邦軍[アメリカ合衆国の北部諸州軍]の戦っていた南部連合[アメリカ連合国]が支配する地域の奴隷達の解放を命じた宣言)の2年後、アメリカ合衆国で最も遅く、アメリカ合衆国南部にあるテキサス州ガルベストンの奴隷達に、奴隷達が自由になったことが知らされる(テキサス州の他36州では、「Juneteenth」として祝われる)。
1867年 - 北アメリカ南部に位置するメキシコの自由主義勢力が、メキシコ皇帝マクシミリアン(マクシミリアーノ1世)を処刑する。
1868年 - オーストリアのウィーンを中心に活躍した作曲家・指揮者、ヨハン・シュトラウス2世のワルツ『ウィーンの森の物語』が初演される。演奏会用のウィンナ・ワルツ(19世紀のウィーンで流行し、ヨーロッパ中に広まっていった3拍子のワルツ)『ウィーンの森の物語』は、非常に人気の高い作品であり、ヨハン・シュトラウス2世の「十大ワルツ」の1つとされ、その中でも特に、『美しく青きドナウ』と『皇帝円舞曲』と共に「三大ワルツ」に数えられる。
1910年 - アメリカ合衆国北西部、ワシントン州の東部に位置する中規模商工業都市、スポケーンで、初の父の日が祝われる。父の日は、スポケーンに住んでいたソノラ・スマート・ドッドが、男手1つで自分を育ててくれた父を讃えて、教会の牧師に願い出て、父の誕生月である6月に礼拝をしてもらったことがきっかけとされ、当時既に母の日が始まっていたため、ソノラ・スマート・ドッドは、父の日もあるべきと考え、「母の日のように父に感謝する日を」と、牧師協会へ嘆願して始まっている。母の日の花がカーネーションであることに対し、父の日の花はバラとされている。ソノラ・スマート・ドッドが、父の日に父親の墓前に白いバラを供えたからと言われ、1910年の最初の祝典の際には、キリスト教主義に立ち、教育・スポーツ・福祉・文化等の分野で様々な事業を展開する世界的な組織、キリスト教青年会(YMCA)の青年が、父を讃えるために、父が健在の者は赤いバラ、亡くなった者は白いバラを身に付けたと伝えられる。 
1915年 - アメリカ海軍のペンシルベニア級戦艦の2番艦、戦艦『アリゾナ』が進水。ペンシルベニア級戦艦は、第一次世界大戦後の1929年から1931年にかけて、ワシントン海軍軍縮条約(アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの戦艦や航空母艦[空母]等の保有の制限が取決められた)で定められた範囲で近代化改装を受け、アメリカ戦艦の特色であった籠状の前後マストは、強固な三脚式へと更新され、頂上部の露天の見張り所は、新たに射撃方位盤室を載せた2段の密閉型見張り所が設けられる。小型で使い勝手の悪かった艦橋は、箱型の大型な物へと増築される。第二次世界大戦対米英戦の開戦時、アメリカ太平洋艦隊に配属されていた戦艦『アリゾナ』は、1941年12月7日(現地時間)の真珠湾攻撃で1,177名の兵士と共に沈没し(乗組員の内、1,102名が死亡している)、現在も、太平洋中央部の洋上に位置する、アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島にあるアメリカ海軍の軍事拠点(軍港)、真珠湾の底に沈没状態で静態保存され、船体上に追悼施設「アリゾナ・メモリアル」がある。1962年に建設された「アリゾナ・メモリアル」には、毎年100万名以上の人々が訪れているが、ボートでのみ入ることができ、戦艦『アリゾナ』本体とは交差するような角度で、上方に建設されている。「アリゾナ・メモリアル」と陸上との往来や、真珠湾攻撃の資料展示の他、訪問客への対応は、アメリカ合衆国国立公園局によって1980年に開設された「アリゾナ記念館ビジターセンター」で行なわれている。また、沈没した戦艦『アリゾナ』は、1989年5月5日にアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されている。真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊の戦艦8隻は、4隻が沈没、1隻が大破、1隻が中破、2隻が小破し、全てが損害を被るが、完全損失艦となったのは、800kg爆弾4発を受けて、前部主砲弾火薬庫が爆発した戦艦『アリゾナ』1隻のみで、航空魚雷の命中で転覆したネバダ級戦艦の2番艦『オクラホマ』は、1943年3月に引起こされ(後に、艦体の損傷が激しく修理は断念される)、コロラド級戦艦の4番艦『ウェストバージニア』は、1942年5月に引上げられ、その後に修理と近代化改装を受け、テネシー級戦艦の2番艦『カリフォルニア』は、1942年3月に浮揚されて乾ドック入りされ、自力航行可能となっている。因みに、第二次世界大戦対米英戦において、アメリカ海軍が喪失した戦艦は、『アリゾナ』と『オクラホマ』のみである。