6月19日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

京都府開庁記念日。
1868(慶応4)年6月19日(旧暦では閏4月29日)に京都府が開設されたことを記念して、京都府庁が現在地に定められてから100年目に当たる1985(昭和60)年に、京都府が制定した。王政復古(江戸幕府を廃絶し、同時に摂政・関白等の廃止と三職[最高官職の総裁、議事を決する議定、下級廷臣や藩士によって構成された維新政府の実質的な指導部と言える参与]の設置による新政府の樹立を宣言した政変)の約4ヶ月後のことで、日本初の地方自治体であった。この日には、京都府により記念式典が開催されている。京都府には、794(延暦13)年の平安京遷都以来、天皇の御所がある。令制国(奈良時代から明治初期まで1,000年以上、日本の地理的区分の基本単位であった地方行政区分)でいう山城国の全域、丹波国の東部、及び丹後国の全域を府域とする。京都府は南北に細長く、内陸側に位置し、京都盆地を中心とする南部(京都・山城・南丹地域)と、日本海に面している北部(中丹地域・丹後地域)との格差が大きい。南部(山城国)は畿内(都や皇居に近い地域を指す呼称)に当たり、滋賀県大津市や阪神、奈良県北部との交流が深い。一方で、北部(福知山市、舞鶴市、宮津市等)は北近畿(山陰道)とも呼ばれ、兵庫県北部(但馬国)や福井県嶺南(若狭国)との交流が深く、京都市との交流はこれらとの交流に比べると浅い。第二次世界大戦後の経済成長において、畿内の一角に当たる南部は逸早く発展したのに対して、北部は取残されていった。近年では、丹波にも工業団地が造成され、畿内(大阪市)から丹後(舞鶴市)を経て北陸(敦賀市)を結ぶ舞鶴若狭自動車道や、京都縦貫自動車道の建設、山陰本線複線電化工事が施工される等、南北格差の是正が図られている。東京行幸とは、1868(明治元)年と翌1869(明治2)年の2回に亘って行なわれた東京への行幸(天皇が外出すること)で、東幸ともいう呼ばれる。1868年9月3日(慶応4/明治元年7月17日)、第122代天皇、明治天皇が詔勅(天皇が公務で行なった意思表示)「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」を発し、江戸の地で政務を執ることと、それに伴ない、江戸を東京とすることを宣言した。1868年11月26日(慶応4/明治元年10月13日)の1度目の東京行幸で、明治天皇は江戸城に入城し、これを東京城と改称した。この東京行幸は、それまで天皇に親しみのなかった江戸の民衆へのデモンストレーションの意味もあった。新政府の指導者達は、東京行幸に際し、天皇の輿を御簾で囲い、シルエットだけを見せて、天皇の神秘性を高める演出をした上、翌月には、東京1,592町に2,553樽の酒と、それを注ぐ瓶子を配った(「天杯頂戴」)。その2日後には、2日間に亘って皆仕事を休み、屋台や山車を繰出して祭り気分を味わった。これを受け、諸外国も「みかど政府」を日本の中央政府として正式に承認した。明治天皇は、約1ヶ月後に一旦京都に戻り、翌年となる1869年5月9日(明治2年3月28日)に改めて東京に入り、東京は事実上の日本の首都になった(東京奠都[東京を都を定めること])。東京城に入った明治天皇は、滞在するため東京城を「皇城」と称することとされた。この時、「天皇の東京滞在中」とした上で、国家権力を総括する中央政府、太政官が東京に移され、京都には留守官(天皇が都以外の主要都市に滞在する場合、「留守」となった都において、天皇の代理として国政を担当する官職・機関)が設置された。次いで、同年10月(明治2年8月)には皇后も東京に移った。こうしてこれ以降、天皇は東京を拠点に活動することになった。天皇・皇后の東京への行幸の度に、公卿・諸藩主・京都の政府役人・京都市民等から行幸の中止・反対の声が挙がり、政府は「これからも四方へ天皇陛下の行幸があるだろうが、京都は千有余年の帝城で大切に思っておられるから心配はいらない」とする諭告(『告諭大意』)を京都府から出させ、人心の動揺を鎮めることに努めた。京都では、京都御所を後に残して、1871(明治4)年までに、裁判や刑罰の執行、欧米の法令の翻訳等を管轄していた刑部省(現在の法務省の前身の一部)、現在の財務省と金融庁の前身に当たる大蔵省、国の防衛と治安維持を管轄する機関である兵部省(現在の防衛省に相当)等の京都留守・出張所が次々に廃され、中央行政機関が消えていった。また、留守官は、1870(明治3)年5月に京都府から宮中に移され、同年12月に京都の宮内省(現在の宮内庁の前身)に合併された後、1871(明治4)年8月23日には廃され、東京への首都機能の移転が行なわれた。首都は、一国の中心となる都市のことを指し、行政府の所在する都市と認識されている。行政府が東京へ移転した1869(明治2)年をもって、首都は移転したと認識されている。しかし、当時の行幸時に「東西両京」と勅令が出ていることや、現在においても、日本の首都を直接定めた法令が存在しないことから、現在も京都府が日本の首都である、という論が存在している。京都市上京区京都御苑にある皇室関連施設、京都御所は、1331(元徳3)年から1869(明治2)年までの間の内裏(天皇が居住し儀式・公務を執り行なった場所)で、現在は宮内庁(「内閣府に置かれる独自の位置付けの機関」で、皇室関係の国家事務等を所管する)の地方支分部局、宮内庁京都事務所が管理している。1877(明治10)年、東京の皇居に移っていた明治天皇が京都を訪れた際、東京行幸後10年も経ずして、施設、及び周辺の環境の荒廃が進んでいた京都御所の様子を嘆き、『京都御所を保存し旧観を維持すべし』と宮内省(当時)に命じた。その翌1878(明治11)年にも、明治天皇は京都御所を巡覧し、保存の方策として『将来わが朝の大礼は京都にて挙行せん』との叡慮を示して、1883(明治16)年には、京都を即位の礼(天皇が践祚後、皇位を継承したことを国の内外に示す一連の国事行為たる儀式で、最高の皇室儀礼)と大嘗祭(新天皇の即位の礼の各儀式が終了した後に、新穀を神々に供え、自身もそれを食する儀式)の地と定める勅令を発している。第123代天皇、大正天皇、及び、第124代天皇、昭和天皇の即位礼は、京都行幸の上で「即位礼紫宸殿の儀」として行なわれた。第二次世界大戦後となる、第125代天皇、天皇明仁(現在の上皇明仁)と、第126代天皇、今上天皇(天皇徳仁)の即位礼は、東京の皇居で行なわれ、名称も「即位礼正殿の儀」と改められた。
朗読の日。
東京都港区西新橋に事務局を置き、朗読を年齢を問わず、大衆に支持される芸術文化として普及させようと、プロ・アマチュアを問わず、「朗読」という文化活動を通じて、広く社会に貢献することを目指して設立された特定非営利活動(NPO)法人、日本朗読文化協会が、2001(平成13)年11月14日に制定。日付は、6月19日の「6」と「1」と「9」で、「朗読(ろう[6]ど[10、十]く[9]」の語呂合せから。朗読とは、声を出しながら文章を読むことである。「音読」ともいうが、「朗読」には、「感情を込めて読み上げる」という意味合いも含まれる。また、朗読を芸術的な観点から「文字言語で表現された文学作品を音声言語で再表現する芸術」と捉える考え方、或いは、学問的・教育的な観点から「自分の読みを獲得し、それを他者に朗(あきら)かにする行為」と捉える考え方もある。歴史を通じて、文学の享受のされ方は、黙読(声を出さず、心の中で読み上げること)よりも、朗読が中心であったとされている。識字率の低い社会では、特に、読み聞かせが重要となるが、19世紀のイギリス中流階級のような教養のある家庭でも、小説や詩の朗読は、家庭内での娯楽の一環として、確固たる位置を占めていた。英語圏では、特に、詩の朗読は、歌唱や楽器の演奏と同様、芸能として扱われていた感があり、単に声を出して読む、というよりも、そこにいかに感情を米、詩の韻律を浮かび上がらせるか、に焦点が当てられた。朗読は、受容的な黙読に比べ、感情を込めて発声することで、さらに肉体的・能動的な表現行為となり、より脳を活性化させるとも言われている。但し、脳の活性化は、脳機能向上を意味するものではない。日本放送協会(NHK)・民放を問わず、放送局がアナウンサーによる朗読・読み聞かせ(子どもを対象)の活動を積極的に展開しており、日頃の放送で鍛えた発声法による、美しい日本語の響きを広めることが目的となっている。