6月19日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第3水曜日 旧暦  5月14日、赤口(甲寅)、月齢 12.6 
グレゴリオ暦で年始から171日目、年末まであと195日。
誕生花 バラ。

元号の日。
645(大化元)年、蘇我氏を倒した中大兄皇子(後の第38代天皇、天智天皇)が、日本初の元号「大化」を定めた日。以来、「令和」まで248の元号が定められた。因みに、「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する語である。最後の「大兄」と見られるのが中大兄皇子である。天智天皇の後を継ぎ、朝廷の首班となった大友皇子(第39代天皇、弘文天皇)は、最早「大兄」と呼ばれることはなく、その後も「大兄」の称号は絶えている。即ち、皇位継承者の決定方法が、この頃に明確に定められたのではないかと考えられる。その皇位継承法とはおそらく、兄弟間の継承を廃し、治天下大王が没したと同時に、その長子へ継承する方式であったと推測される。元号は、特定の年代に年を単位として付けられる称号である。君主が特定の時代に名前を付ける行為は、君主が空間と共に時間まで支配するという思想に基づいており、「正朔を奉ずる」(天子の定めた元号と暦法を用いる)ことが、その王権への服従の要件となっていた。元号が政治的支配の正統性を象徴するという観念は、元号を建てることにより、既存の王朝よりも自らの正統性が優越しているか、少なくとも対等であることを示すことができる、という意識を生んだ。そのため、時の王朝に対する反乱勢力は、しばしば独自の元号を建てた。元号は漢字2字で表わされる場合が普通であるが、稀に3字、4字、6字の組合わせを採ることもあった。最初期には、改元の理由に因んだ具体的な字が選ばれることが多かったが、次第に抽象的な、縁起の良い意味を持つ字の組合わせを、漢籍古典(漢文で書かれた中国の古い書籍)を典拠にして採用するようになった。日本の場合、採用された字は僅か72字であり、その内の21字は10回以上用いられている。元号を用いた日本独自の紀年法は、西暦に対して和暦(或いは邦暦)と呼ばれることがある。日本国内では、今日においても西暦と共に広く使用されている。日本に伝存する最古の正史『日本書紀』によれば、645(大化元)年の大化の改新(中大兄皇子らが、蘇我氏等の飛鳥の豪族を中心とした政治から、天皇中心の政治へと移行させた政治的改革)の時に、「大化」が用いられたのが最初とされる。以後、7世紀中後期には、断続的に元号が用いられたことが『日本書紀』には書かれている。しかし、当時使われた木簡(古代の東アジアで、墨で文字を書くために使われた、短冊状の細長い木の板)の分析によると、元号の使用は確認されていない。まだ、7世紀後半は、元号よりも干支(年・月・日・時間や方位、角度、ことがらの順序を表わすこと等に用いられた、60を周期とする数詞[数を表わす語])の使用が主流であったとされる。701(文武天皇5)年)に「大宝」と建元し、以降継続的に元号が用いられることとなった。室町時代には、朝廷が元号を定めた新元号を将軍が「吉書始」と呼ばれる儀式で改元を宣言して、武家の間で使用されるようになった。そのため、元号選定には武家の影響力が強いものとなり、江戸時代に入ると、江戸幕府が元号決定に介入することになった。戊辰戦争(明治政府を樹立した薩摩国/大隅国薩摩藩・周防国/長門国長州藩・土佐国土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力、及び奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦)前には、天皇の交代時以外にも随意に改元していた。しかし、戊辰戦争の結果として全国政府の座を奪取した明治政府は、明治に改元した時に一世一元の詔(1868[慶応4]年を改めて明治元年とすると共に、天皇一代に元号一つという一世一元の制を定めた詔)を発布し、明治以後は、新天皇の即位時に改元する一世一元の制に変更された。1979(昭和54)年に「元号法(昭和54年6月12日法律43号)」が制定された。これは、第124代天皇、昭和天皇の高齢化と、世論調査で国民の約87.5%が元号を使用している実態(1976[昭和51]年当時)に鑑みたものである。「元号法」では、「元号は皇位の継承があった場合に限り改める」と定められ、一世一元の制が維持された。なお、「元号法」は、日本の法律の中では最も条文が短い。現在の元号は、「令和」である。 第125代天皇、上皇明仁が2019年(平成31)年4月30日に退位し、翌日となる2019(令和元)年5月1日に、皇位継承順位第1位の皇太子徳仁親王が、第126代天皇として即位した。天皇が、その地位と職務を全て皇位継承者に譲る譲位は、第119代天皇、光格天皇以来約200年振りとなる。この皇位継承を受けて、「元号法」の規定に基づき、元号が「平成」から「令和」に改められた。これまでの改元時とは異なり、OA化・インターネット化が進んでおり、新元号への対応準備の期間を確保する必要があることから、憲政史上初めて、新元号が改元の1ヶ月前となる2019(平成31)年4月1日に「事前公表」された。「令和」のローマ字表記は「Reiwa」で、新元号の制定に際しては、近現代の「明治(Meiji)」、「大正(Taisho)」、「昭和(Showa)」、「平成(Heisei)」と同じ頭文字となる「M、T、S、H」の各案は、当初から除外されたという。
理化学研究所創設の日。
1917(大正6)年6月19日、理化学研究所(理研)が、日本で初めての基礎、及び応用研究を行なう機関として、東京府東京市本郷区本駒込(現在の東京都文京区本駒込に所在し、跡地は、オフィス棟と住宅棟を擁した複合施設、文京グリーンコートとなっている)に創設された。財団法人として設立された、国内唯一の自然科学系総合研究所である理化学研究所は、国際的に高い知名度と研究業績を持つ研究所であり、海外では"RIKEN"の名称で知られている。第二次世界大戦前は、理化学研究所の発明を製品化する事業体として理化学興業を創設する等、理研産業団(理研コンツェルン)と呼ばれる企業グループ(十五大財閥の1つ)を形成したが、第二次世界大戦の終結と共に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に解体された。1958(昭和33)年に特殊法人「理化学研究所」として再出発し、2003(平成15)年10月には、文部科学省所管独立行政法人「独立行政法人理化学研究所」に改組された。さらに2015(平成27)年4月には、「国立研究開発法人理化学研究所」に名称を変更した。現在の本部は、埼玉県和光市広沢に所在している。国立研究開発法人とは、日本の独立行政法人(日本の行政機関である省庁から独立した法人組織であって、行政の一端を担い、公共の見地から事務や国家の事業を実施し、国民の生活の安定と社会、及び経済の健全な発展に役立つもの)の内、主に研究開発を行なう法人で、個別法によって定められたものである。独立行政法人は、その業務の特性によって、中期目標管理法人、国立研究開発法人、行政執行法人の3つに区分される。研究開発を主たる事業とする独立行政法人は、研究開発の長期性、不確実性、予見不可能性、専門性等の特性を持つことから、該当する法人は国立研究開発法人に変更され、国立研究開発法人は、3区分の中で最も自由度が高い。