6月12日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第2水曜日 旧暦  5月 7日、大安(丁未)、月齢  5.6 
グレゴリオ暦で年始から164日目、年末まであと202日。
誕生花 ライラック。

日記の日(アンネの日記の日)。
1942(昭和17)年6月12日、ユダヤ系ドイツ人の少女アンネ・フランクによって、日記様の文学作品『アンネの日記』が書き始められた。アンネ・フランクの家族は、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の政権掌握後、迫害から逃れるため、一家で故国ドイツを離れ、オランダ北西部のアムステルダムへ亡命した。しかし、第二次世界大戦が始まって、オランダがドイツ軍に占領されると、オランダでもユダヤ人狩りが行なわれ、1942(昭和17)年7月6日に一家は、父オットー・フランクの職場があったアムステルダムのプリンセンフラハト通り263番地の隠れ家で、潜行生活に入ることを余儀なくされた(フランク一家の他に、ヘルマン・ファン・ペルス一家やフリッツ・プフェファーもこの隠れ家に入り、計8名のユダヤ人が隠れ家で暮らした)。ここでの生活は2年間に及び、その間、アンネ・フランクは、隠れ家でのことを日記に書き続けた。1944(昭和19)年8月4日に、治安維持、反体制分子摘発、ユダヤ人狩り等に当たった国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の組織、ナチス親衛隊(SS)に隠れ家を発見され、隠れ家住人は、全員がナチスの強制収容所(軍事的、政治的理由、又は隔離、処罰、労働力確保等の目的で、殆ど裁判によることなく、大量に人々を収容するための施設)、ヴェステルボルク通過収容所へと移送された。ナチス・ドイツ(国家社会主義ドイツ労働者党支配下のドイツ国)がオランダ北東部にあるホーフハーレンに置いていた通過収容所、ヴェステルボルク通過収容所は、通過収容所(一時収容を行なうための収容所)であり、終着点の強制収容所ではなかった。第二次世界大戦中、オランダのユダヤ人やジプシー(ロマ民族)は、まずここへ送られた後、さらに、オランダの外にある絶滅収容所(ユダヤ人の組織的、 官僚的、国家的な迫害、及び殺戮を意味する「ホロコースト」を目的とした強制収容所)や強制収容所へと移送された。1944(昭和19)年9月3日、ヴェステルボルク収容所からの最後の移送列車が、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ向けて出発することとなり、アンネ・フランク達はこの列車に乗せられた。ポーランド南部にナチス・ドイツが建設したアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所は、アウシュヴィッツ第一強制収容所と、オシフィエンチム市(ドイツ語名:アウシュヴィッツ)に隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名:ビルケナウ)に建設されたアウシュヴィッツ第二強制収容所との総称で、周辺には同様の施設が多数建設されている。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に到着したアンネ・フランク達は、男女に分けられ、アンネ・フランクは、父オットー・フランクとはここで今生の別れとなった。さらにその後、ナチス親衛隊(SS)医師団による、働ける者と働けない者の選別が開始された。この移送で、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ送られてきた者1,019名の内、549名が労働不能と判断されてガス室送りとなった。しかし、アンネ・フランク達隠れ家メンバーは、全員労働可能と認定され、ガス室送りを免れた。その後、ソビエト連邦赤軍(地上軍)の接近に伴なうアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所撤収作戦の一環で、1944(昭和19)年10月28日には、ベルゲン・ベルゼン強制収容所へ送る者の選別が行なわれた。アンネ・フランクは、姉のマルゴット・フランクと共に、ドイツ北中部にあるベルゼンに存在したベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送された。ベルゲン・ベルゼン強制収容所の不衛生な環境に耐え抜くことはできず、チフス(高熱や発疹を伴なう細菌感染症の一種)を罹患し、15歳にしてその命を落とした。1945(昭和20)年3月上旬頃のことと見られている。隠れ家には、アンネ・フランクが付けていた日記が残されていた。オットー・フランクの会社の社員で、隠れ家住人の生活を支援していたオーストリア系オランダ人女性、ミープ・ヒースがこれを発見し、第二次世界大戦後まで保存した。8名の隠れ家住人の中で、1名だけ第二次世界大戦後まで生き延びた父のオットー・フランクは、ミープ・ヒースからこの日記を手渡された。オットー・フランクは、娘アンネ・フランクの「戦争と差別のない世界になってほしい」という思いを全世界に伝えるため、日記の出版を決意した。この日記は60以上の言語に翻訳され、2,500万部を超える世界的ベストセラーになった。アンネ・フランクの将来の夢は、著名な作家になることであったが、多くの芸術家達と同様、死して後その名が知られるようになった。隠れ家で、アンネ・フランクは多くの本を読んだ。日記に出てくる本だけでも26冊にも及ぶ。初め文学の本に関心が強かったが、後に伝記に関心を持つようになった。隠れ家で日記を書き続けたアンネ・フランクであるが、『アンネの日記』以外にも幾つかの短編小説を残しており、これらは現金出納簿の一冊に書かれていた。短編小説を書くのは、1943(昭和18)年夏頃から夢中になったアンネ・フランクの趣味であった。アンネ・フランクの書いた短編小説には、『じゃがいも騒動』『悪者!』等のような身近な題材の作品から、『カーチェ』『管理人の一家』『エーファの見た夢』等、幻想的な作品まで幅広く存在する。「スヴニール・ダンヌ・フランク」(フランス語で「アンネの追憶」の意)」という名前のバラがある。ベルギーの園芸家が作った新種のバラで、アンネ・フランクの父オットー・フランクに贈られた。1972(昭和47)年12月に、オットー・フランクより10本が日本に贈られた。また、1976(昭和51)年3月に再び10本が贈られ、日本全国で「アンネのバラ」として育てられている。アパルトヘイト(人種隔離政策)に反対して投獄された南アフリカ共和国の弁護士・政治家で、アパルトヘイト撤廃に尽力し、1993(平成5)年にノーベル平和賞を受賞したネルソン・マンデラは、『アンネの日記』を読んで、常に希望を失わなかったアンネ・フランクの生き方に励まされたと述べている。アンネ・フランクは、オランダ語で日記を書いており、ミープ・ヒースから原稿を受取った父のオットー・フランクが、私家版としてドイツ語で纏めたのが最初の翻訳である。日本では、1952(昭和27)年に、芥川賞や直木賞を始め、多くの文芸賞も手掛けている大手出版社、文藝春秋社から国際ジャーナリスト・翻訳家の皆藤幸蔵が英訳本より翻訳し、『光ほのかに - アンネの日記』のタイトルで出版された。その後、『光ほのかに』という訳書が他に存在することが判明し、副題であった『アンネの日記』が日本語版の正題となった。日本語訳の初版が出版された当初のオランダでは、日本がこの本を発行することに対する抵抗が強かった。原因は、かつてオランダは、アジアに持っていた植民地であるインドネシアにおいて、日本と対峙し追出された上に、かつて日本が、ナチス党政権下のドイツの同盟国であることが原因と推定されている。第二次世界大戦後10年の間にアンネ・フランクの名が広く知れ渡り、ドイツの残虐行為が明らかになるにつれ、アンネ・フランクへの中傷や、アンネ・フランクの存在自体への懐疑、日記の信憑性に対する疑問が呈されたが、1963(昭和38)年にアンネ・フランクが実在したことが証明され、日記は偽物とされたことについても、1987(昭和62)年までには決着している。さらに、2009(平成21)年7月30日、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)は「世界の記憶(ユネスコ記憶遺産)」(危機に瀕した古文書や書物等の歴史的記録物[可動文化財]を保全し、広く公開することを目的とした、国際連合教育科学文化機関[ユネスコ、UNESCO]が主催する事業の1つ)に、『アンネの日記』等を登録すると発表した。1942(昭和17)年、ドイツの天文学者カール・ラインムートによって発見された小惑星「アンネフランク」は、小惑星帯(太陽系の中で第四惑星、火星と第五惑星、木星の間にある小惑星の軌道が集中している領域で、アステロイドベルトとも呼ばれる)に位置する。2002(平成14)年には、周期6.41年で太陽の周りを公転する短周期彗星(公転周期が200年未満の周期彗星のことであり、彗星の軌道は不安定で、その度合いは周期が長い程強くなることから、周期200年を恣意的な境界に定め、軌道が比較的安定している短周期彗星と、かなり不安定な長周期彗星とが分けられている)、ヴィルト第2彗星(近日点が火星の周回軌道付近、遠日点が木星の周回軌道付近にある木星族の彗星)に向かう途中の、アメリカ航空宇宙局(NASA)のディスカバリー計画(低コストで効率よく太陽系内を探査することを目指した惑星探査計画)による宇宙探査機スターダストが、「アンネフランク」の近くを通過し、写真撮影を行なった(最接近距離は、約3,079km)。その結果、「アンネフランク」の大きさは「6.6km×5.0km×3.4km」であり、それまでの予測に比べ、約2倍程度大きいことが分かった。