6月5日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年 
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第1水曜日 旧暦  4月29日、友引(庚子)、月齢 28.0
グレゴリオ暦で年始から157日目、年末まであと209日。
誕生花 マリーゴールド・ダリア・オモダカ・ホタルブクロ。

二十四節気・雑節等
芒種。
二十四節気の1つ、旧暦五月節気。一般的な定気法では、太陽黄経が75度のときで6月6日ごろ。芒(のぎ 、イネ科植物の果実を包む穎[えい]、即ち、稲でいう籾殻にあるとげのような突起)を持った植物の種を撒く頃である。暦便覧には「芒(のぎ)ある穀類、稼種する時なり」と記されている。実際には、現在の種撒きはこれよりも早い。農家が麦刈りや田植え等で忙しくなる時期である。西日本では、概ね梅雨入りの頃となる。沖縄では、前の節気と合わせた小満芒種(すーまんぼーすー)という語が、梅雨の意味で使われる。行事食(季節毎の食事や、行事のための特別な食事のこと)は特にないとされるが、春が終わり、夏を迎えるころに訪れるのが、小満と芒種と言える。
蟷螂生ず。
七十二候の1つ(25候)。

熱気球記念日。
1783(天明3)年、フランスの南東部に位置するリヨン(現在、都市圏としてはフランス第二の規模を持ち、多くのフランスの銀行の本店が置かれる)近郊にある町、アノネーで、元々は製紙業を営んでいたモンゴルフィエ兄弟(兄はジョゼフ=ミシェル・モンゴルフィエ、弟はジャック=エティエンヌ・モンゴルフィエ)が、大きな風船に薪を燻した煙を詰め、熱気球を約2.4km離れた隣村まで飛ばすことに成功した。これが、世界初の熱気球の公開実験とされることから設けられた記念日。モンゴルフィエ兄弟は、空を飛ぶ道具造りに情熱を注ぎ、紙の袋に空気より軽い気体を閉じ込める研究に没頭していた。空に浮かぶ雲を閉じ込めるため、水蒸気の研究も行なったが、うまく浮かせることはできなかった。ある日、煙が上がる様子を見て、煙を紙袋に閉じ込めることを試みる。そして、暖炉の煙を入れた紙袋は、見事に天井まで上昇する。この煙の中にこそ、「新ガス」成分が含まれていると考えた訳である。その後、大きく丈夫な袋を作り、何度かの実験を重ね、役人を招待した上で公開実験を行なった。湿った藁を燃やした煙を袋に吸い込ませ、見事浮揚に成功した。さらに3ヶ月後、フランスの首都パリにあるベルサイユ宮殿前広場で、国王ルイ16世の見守る中、バスケットに羊、アヒル、雄鶏それぞれ1匹ずつ載せて、約2.4kmの飛行にも成功する。そしてついに、1783(天明3)年11月21日、フランス人の若者ピラトール・ド・ロジェとフランスの陸軍軍人、フランソワ・ダルランド侯爵の2名を乗せたモンゴルフィエ気球は、フランスの首都パリにある森林公園、ブローニュの森から浮上した。人類が初めて空中を飛行した瞬間である。気球は、約90mの高度で25分間、約8.8 kmを飛行したと記録されている。なお、フランス語では、今でも熱気球のことを「モンゴルフィエール」と称する。モンゴルフィエ兄弟による有人飛行の10日後には、フランスの物理学者・数学者、ジャック・シャルルによる水素を詰めたガス気球の有人飛行が成功する。人類で初めて気球に乗った飛行者のピラトール・ド・ロジェは、初飛行の翌々年となる1785(天明5)年6月15日に、自らが考案した熱気球と水素気球を結合した新型気球で、イギリスとヨーロッパ大陸(フランス)間のドーバー海峡(英仏海峡)を飛行試験中、水素に引火した爆発で、気球の製作者であり、同乗者でもあるフランス人、ジュール・ロマンと共に墜落死し、人類初の気球による死者となった。なお、このガス気球(静的浮力を持つ空気よりも軽い、ヘリウム、水素、或いは、石炭ガス等の気体で満たされた気球)と熱気球(気密性の袋の中に下方から熱した空気を送込み、その浮力で浮揚して飛行する気球)の機能を一体化した複合気球である新型気球は、後の20世紀に再実用化され、「ロジェ気球(ロジェール)」と呼ばれている。気球は、一時期ブームとなったものの、風任せであるため旅客・物資輸送等には適さず、冒険家による長距離飛行記録等、金持ちの趣味の域を超える物ではなかった。また、空中での火力維持と燃料供給の難しさから、熱気球よりもガス気球が主流となった。その後、気球は飛行船や飛行機の発明により衰退するが、第二次世界大戦以後スカイスポーツとして復活した。1959(昭和34)年、アメリカで、アメリカ航空宇宙局(NASA)等との共同作業で、アメリカの研究用気球メーカー、レーブン・インダストリーズ社の技術者らによって、近代的熱気球が作られ、飛行が行なわれた。近代的熱気球とは、ナイロン等の化学繊維を球皮(エンベロープ)とし、プロパンガスを燃料として飛行する物を指す。この飛行の成功から数年後、初のスポーツ用熱気球がレーブン・インダストリーズ社によって市場に販売開始される。その後、イギリス、フランス等にも気球メーカーが誕生している。日本で、日本人による最初の有人飛行を熱気球で行なったのは、京都大学、同志社大学を中心とする京都の学生達からなるイカロス昇天グループと、北海道大学の探検部が協同して作成した熱気球である。この熱気球には、初飛行時には名前が付いておらず、取材に来たテレビ会社の記者が呼んだ「空坊主」という仮の名前が使われていた。初飛行は、1969(昭和44)年に北海道の羊蹄山(蝦夷富士とも称される、標高1,898mの成層火山)を望む北海道虻田郡真狩村において行なわれた。熱気球の分担内容は、イカロス昇天グループが球皮とゴンドラを、北海道大学探検部熱気球班がバーナーを、それぞれ独自に作成し、1つの熱気球として完成させている。なお、この熱気球の球皮の形の決定には、京都大学生の嶋本伸雄が、電子計算機を用いて精密な形状の決定を行なった。飛行時の仮名「空坊主」は、後にイカロス昇天グループにより、「イカロス5号」と改められたので、現在では「イカロス5号」が正式名称とされている。なお、初飛行も担当したイカロス昇天グループの梅棹エリオは、文化人類学者である梅棹忠夫の息子に当たる。これ以降も、北海道大学探検部アフリカ班、未知の会、慶應義塾大学探検部、広島大学熱気球部等、次々と熱気球活動を行なう団体が設立され、スカイスポーツとしての熱気球が盛んになってゆく。日本の熱気球の活動は「イカロス5号」に触発され、大学探検部等による自作した気球により飛行する活動から始まった。多くの大学にクラブが創立され、気球を製作しフライトを行なった。飛行するためには、試行錯誤と長い製作時間を要した。その後、欧米の気球メーカー製の機体が輸入される様になり、一般化する。大学クラブの衰退もあり、現在では自作気球は殆ど作られず、殆どの熱気球がメーカー製である。熱気球は、大きく分類して「球皮」(熱気を蓄えるための袋)と呼ばれる部分と、乗員が搭乗し、燃料を搭載し熱源となるバーナー(球皮内に熱気を入れるための器具)等が搭載された、「下回り」と呼ばれる部分によって構成される。球皮部分と下回りは、ステンレスワイヤーやケブラー(高強度・高耐熱性であり、同じ重さの鋼鉄と比べて5倍の強度を持つ樹脂)系のケーブルで接続される。熱気球に通常搭載される飛行計器は、高度計、昇降計、温度計が組込まれたものである。高度計は、現在の高度を示すための器具で、昇降計は気球が上昇しているか下降しているかを示し、その速度を表示する。温度計は、気球の上部に付けられたセンサーの温度を、ケーブルやトランスミッター(送信機)で計器に伝えて表示される。最近では、アメリカ合衆国によって運用される衛星測位システム(地球上の現在位置を測定するためのシステム)、グローバル・ポジショニング・システム(GPS)(携帯型のもの)が搭載されることが多い。熱気球は風に乗って飛行するため、正確な対地速度、飛行方向等を表示させられるグローバル・ポジショニング・システム(GPS)は、高度計等に続く重要な計器となっている。1978(昭和53)年、福岡県甘木市で、熱気球大会『バルーンフェスタ・イン九州』の開催が始まった。1980(昭和55)年には、前年までの開催場所が福岡空港の離着陸圏内に影響することから移転となり、初めての佐賀で熱気球大会が開催される。その後、毎年11月に大会を開催するようになる。翌1981(昭和56)年、『バルーンフェスタ・イン佐賀』と名称を変更し、1984(昭和59)年には、熱気球世界選手権誘致に向け、国際大会となり『佐賀インターナショナルバルーンフェスタ』と名称を変更。熱気球日本選手権も同時に開催するようになる。現在では、熱気球競技大会としては、日本国内のみならずアジアで最大級の参加機数の大会であり、毎年十数ヶ国の選手が70機から80機(その内、日本国内が50機程度)参加している熱気球競技大会『佐賀インターナショナルバルーンフェスタ』となっており、佐賀市の嘉瀬川河川敷を主会場として、佐賀平野中西部の広範囲で毎年秋に開催されている。熱気球競技と並んで、会場となる嘉瀬川河川敷で、熱気球の係留やライブ・コンサート等の催事が行なわれる。佐賀市の年間観光客数の約4分の1を占める、佐賀市で最も人出の多いイベントであり、世界選手権が行なわれた1989(平成元)年には、約117万名の人出を記録した。競技が天候の影響を受けるため変動があるが、以降は毎年約75万名から約95万名程度の人出で推移している。