6月4日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

蒸し料理の日。 
好みの野菜や魚、肉等を蒸して食べる「蒸ししゃぶ」「鉄板蒸し」「レンジ蒸し」等の蒸し料理。蒸し料理のつけダレとして人気の、ぽん酢等を製造販売する、愛知県半田市中村町に本社を置く企業、株式会社Mizkan(ミツカン)が制定。日付は、6月4日の「6」と「4」を、「蒸し料理」の「蒸し(む[6]し[4])」と読む語呂合わせから。株式会社Mizkan(ミツカン)は、調味料と納豆を主力製品とする株式会社Mizkan Holdings(ミツカンホールディングス)傘下の大手食品メーカー(事業子会社)である。食品製造を担う株式会社ミツカンサンミ、資産管理部門の株式会社中埜酢店等と「ミツカングループ」を形成している。「ミツカン」は、江戸時代中期頃となる1804(文化元)年、醸造家の中野又左衛門により、尾張国知多郡半田村(現在の愛知県半田市)で酒造業として創業。以後、代々社長は「中野又左衛門」(四代目以降「中埜」)を名乗り、戸籍上の名前も変更している。1923(大正12)年には、株式会社化されている。この地域で盛んな日本酒の製造後に残る酒粕を用いて酢を作り、米を用いた酢より安価であったため、江戸庶民に寿司が普及する要因となった。第二次世界大戦後、加工・チルド食品に参入し、1964(昭和39)年に瓶詰めの味付けポン酢(柑橘類の果汁を用いた和食の調味料)の元祖となる「ミツカン味ぽん」、1982(昭和57)年に混ぜ込みふりかけの「おむすび山」、1988(昭和63)年にめんつゆ(後年「追いがつおつゆ」へ改称)を発売する。家庭用の寿司酢は、ミツカンブランドが世界的に非常に有名で、どこの国のスーパーでも入手することができるという。 また、海外売上比率は50%を超え、これは、数ある食品企業の中でもかなり多い方である。ポン酢は、外来語の「ポンス」が転訛し、さらに「酢」の漢字を充てた言葉である。「ポンス」はオランダ語の「pons」に由来するが、これは、蒸留酒に柑橘類の果汁や砂糖、スパイスを混ぜたカクテルの一種「ポンチ・パンチ」のことであった(現代オランダでは廃語)。これが次に、橙を始めとする柑橘系果実の絞り汁を指すようになった。ポン酢醤油(味付きポン酢)は、柑橘類の絞り汁に醤油を加えた調味料のことで、酢や味醂、鰹節や昆布等のダシを加えることもある。単に「ポン酢」と呼ぶことも多く、さまざまな既製品も市販されている。ポン酢醤油は、和食の調味料として、醤油と同様に幅広い料理に活用できる。ちり鍋、水炊き、しゃぶしゃぶ等の鍋料理を食べる際に、手元の小鉢にとる付けタレとして用いられる他、刺身やたたき、冷しゃぶ、あん肝等に紅葉おろしと一緒にかけたり、豆腐料理、秋刀魚等の焼き魚、蒸し物、酢の物等の酸味の適した料理の付けタレ、かけタレとしても用いられる。また、冷やし中華や餃子の付けダレとしたり、マヨネーズと合わせて和風のドレッシングとしてサラダにかけたりもする。蒸し料理は余分な油を取らずに済む、野菜を沢山食べられる、素材の栄養素を逃さずに取れる等の利点から人気を集めている。蒸気を使って加熱する料理法である蒸し料理には、蒸し湯を沸かした鍋と蒸籠(せいろ、竹や木を編んで作られた蒸し料理用の調理器具)を使う方法の他に、食材自身や酒等の液体調味料の水分を利用した方法がある。 
蒸しパンの日。 
子ども達にも食べ易い蒸しパンを、朝食やおやつ等にもっと食べてもらおうと、「チーズ蒸しパン」で知られる、北海道札幌市豊平区月寒東に本社を置くパン等のメーカー、日糧製パン株式会社が制定した日。日付は、6月4日の「6」と「4」を、「蒸しパン」の「蒸し(む[6]し[4])」と読む語呂合わせから。日糧製パン株式会社が1990(平成2)年に発売した「チーズ蒸しパン」は首都圏でも販売され、ブームの先駆けになる等、大ヒット商品になった。蒸しパンは、小麦粉に重曹(炭酸水素ナトリウム)やベーキングパウダー(パンや焼き菓子に使われる膨張剤の一種で、膨らし粉とも呼ばれる)、砂糖等を混ぜ、捏ねてから成形し、蒸し器で蒸したものである。鎖国が解かれた後の明治時代に、パンの製法が一般的に確立され、マントウ(小麦粉に酵母を加えて発酵させた後、蒸して作る中国の蒸しパンで、日本の饅頭のルーツになったともされ、日本では一般に中華まんと呼ばれるもの)や饅頭(小麦粉等を練って作った皮[生地]で小豆餡等の具を包み、蒸した菓子)に近いパンは一掃された。一方、膨張剤となる重曹の入手が手軽になり、これを使って醗酵の手間を省き、日本に古くからある調理器「蒸篭」にかけて作ることができる蒸しパンは、子どものおやつや、米に代わる代用食としても食されるようになる。大正時代の1918年米騒動(1918[大正7]年に発生した米の価格急騰に伴なう暴動事件)の頃に、玄米パンと呼ばれる玄米の蒸しパンが誕生した。見た目は、餡を抜いた饅頭のようなもので、余り美味しいとは言えず、当時の不景気を象徴するものであった。また、玄米パンを自転車で商売をしていた地域も、大正時代から昭和一桁台(一部では昭和20年代)の頃にかけて存在していた。第二次世界大戦後は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の支給された小麦粉を使用し、ベーキングパウダーと混ぜて捏ねたものを電熱器(木枠に金属板2枚を入れていた器具『パン焼き機』も存在した)又は、文化鍋(アルミニウム合金を鋳造して造られる深鍋)で調理し、代用食(当時は電気パンと呼ばれていた)にしたり、砂糖が貴重であったため、さつまいもや栗を混ぜておやつとしても食されていた。昭和30年代には、ロバ(実際には木曽馬[長野県木曽地域を中心に飼育されている日本在来種の馬]を使用)に荷車を引かせて販売していた、ロバのパン屋が一世を風靡した。なお、ロバのパン屋とは、昭和の始め頃から、ロバ(現生ウマ科の中で一番小型であるが、力は強く、記憶力も良い)等に馬車を牽かせて、街なかを移動しながら売っていたパン屋のことである。1954(昭和29)年12月から1973(昭和48)年11月までの約19年間とされる、高度経済成長期(日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期)を迎えると、馬車による販売形態は姿を消し、自動車による販売に切替えられた。1970年代以降に普及したスーパーマーケットや、1980年代以降に普及したコンビニエンスストアでは、商品の回転の速さに対応できるため、日持ちのしない蒸しパンも流通経路に載せられるようになり、大手製パン業者も蒸しパンを製造販売するようになった。黒糖・ヨモギ・サツマイモ等の伝統的な風味のものの他、チーズ、チョコレート、マンゴー等の新しい風味のバラエティーも増えつつある。
蒸し豆の日。
素材そのものの風味や香り、旨みや栄養価を逃がさない蒸し豆の良さを、多くの人に知ってもらい、手軽に食べてもらいたいとの思いから、兵庫県神戸市東灘区御影塚町に本社を置く、昆布佃煮・煮豆・蒸し豆・惣菜等を主力商品とする食品メーカー、株式会社小倉屋柳本(マルヤナギ、現在の株式会社マルヤナギ小倉屋)が制定。株式会社マルヤナギ小倉屋は、蒸し大豆、蒸し大麦(もちむぎ)、煮豆、昆布佃煮、惣菜等 、伝統の味覚の継承と深耕、そして、未来志向の創造的な食の提案をテーマとしている食品メーカーである。蒸し豆はそのまま食べるだけでなく、サラダのトッピング、煮物やスープ等、料理の材料としても幅広く活用できる。日付は、6月が食育月間であり、6月4日の「6」と「4」を、「蒸し豆」の「蒸し(む[6]し[4])」と読む語呂合わせから。株式会社マルヤナギ小倉屋の「おいしい蒸し豆」シリーズには、「蒸し大豆」「蒸し黒豆」「蒸しサラダ豆」「ほの甘蒸しあずき」「大麦入り蒸し大豆」等の商品がある。これらの商品は水洗が不要で、そのまま食べることができ、簡単でヘルシーな「蒸し豆」である。株式会社マルヤナギ小倉屋 のサイトでは、これらの「蒸し豆」を使用したレシピを数多く紹介している。