6月3日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

雲仙普賢岳祈りの日/いのりの日。
1991(平成3)年6月3日、雲仙普賢岳の大火砕流災害で、43名の死者・行方不明者と9名の負傷者を出す惨事となった。この犠牲者を追悼するために、長崎県島原市が「いのりの日」を制定し、1998(平成10)年から実施している。大火砕流が発生した午後4時8分にサイレンが鳴らされ、市民に黙祷を呼掛けている。長崎県の島原半島中央部にある火山、雲仙岳の主峰は普賢岳であるが、1990(平成2)年から1995(平成7)年にかけての火山活動で平成新山が形成され、こちらの方が標高が高くなった。また、平成新山は、長崎県の最高峰でもある。雲仙岳は有史以来、活発な火山活動を繰返していたが、1968(昭和43)年頃より雲仙火山は活動期に入っていたとされる。1990(平成2)年11月17日に一連の噴火が始まった。最初の噴火は、2つの噴火孔より熱水の噴上げと雲煙を認めるのみであった。同年12月には小康状態になって、道路の通行止め等も解除になり、そのまま終息するかと思われたが、1991(平成3)年2月12日に再噴火、さらに4月3日、4月9日と噴火を拡大していった。5月15日には、降積もった火山灰等による最初の土石流(土砂が水[雨水や地下水]と混合して、河川・渓流等を流下する現象)が発生、さらに、噴火口西側に多数の東西方向に延びる亀裂が入り、マグマの上昇が予想された。5月20日には、地獄跡火口から溶岩の噴出が確認された。溶岩は粘性が高かったために流出せず、火口周辺に溶岩ドームが形成された。溶岩ドームは桃状に成長し、やがて、自重によって4つに崩壊した。溶岩ドーム下の噴火穴からは絶え間なく溶岩が供給され、山頂から溶岩が垂下がる状態になり、形成された順番に第1ローブ - 第13ローブと命名された。溶岩ドームの崩壊は、新しく供給されるマグマに押出されたドームが斜面に崩落することにより発生し、破片が火山ガスと共に山体を時速約100kmものスピードで流れ下る火砕流(噴火によって火口から噴出した高温の火山噴出物が、高速で火山体斜面を流下する現象)を引起した。6月3日15時30分以降、小・中規模の火砕流が頻発し、15時57分には最初の大規模な火砕流が発生した。この火砕流と火砕流から発生する火砕サージ(火砕流に似ているが、火山ガスの比率が高いため密度が小さく、高速で薙ぎ払うように流動する現象)は、報道陣が取材に当たっていた「正面」には至らなかったものの、朝から降り続いた降雨に加えて、火砕流から発生した火山灰が周囲を覆ったため、「正面」付近の視界は著しく悪化した。続く16時8分、1回目を上回る大規模な火砕流が発生し、溶岩ドームから東方約3.2kmの地点まで到達する。この火砕サージは、更に溶岩ドームから約4.0km先にある北上木場町を襲い、筒野バス停付近(約5.0km先)でようやく止まった。報道関係者は、不測の事態に備えて即座に逃げられるよう、チャーターしたタクシーや社用車を南に向けて、エンジンを掛けたまま道路に止めていたものの、視界が悪かったこともあり、殆ど退避できなかった。一方、農業研修所の消防団員は、火砕流の轟音を土石流が発生したものと判断し、水無川を確認するため、研修所から出たところを火砕サージに襲われ、多くの団員は、そのまま自力で避難勧告地域外へ脱出したものの、重度の熱傷と気道損傷を負った。結果、報道関係者16名(アルバイト学生含む)、火山学者ら3名(クラフト夫妻[フランスの火山学者カティア・クラフトとその夫、モーリス・クラフト]と案内役のアメリカの火山学者でアメリカ地質調査所のハリー・グリッケン)、警戒に当たっていた消防団員12名、報道関係者に傭車され、独断で避難できなかったタクシー運転手4名、避難誘導を行なうためパトカーで来ていた警察官2名、市議会選挙ポスター掲示板を撤去作業中であった職員2名、農作業中の住民4名の合わせて、43名の死者・行方不明者と9名の負傷者を出す惨事となったが、被害は避難勧告地域に収まっていた。6月3日に発生した火砕流は、「正面」で撮影を行なっていた報道陣のみならず、消防団員、更に島原振興局の通報を受けて、「正面」からの避難を呼掛けに来た警察官をも呑み込んだ。噴火活動は、途中一時的な休止を挟みつつ、1995(平成7)年3月頃まで継続した。これは、火砕流が世界で初めて、鮮明な映像として継続的に記録された噴火活動である。噴火活動は、島原半島、特に、長崎県島原市と長崎県南高来郡深江町(現:長崎県南島原市)に大きな被害をもたらした。その主たる要因は、火砕流と堆積した火山灰が豪雨により流出する土石流であり、これらが流れ下るコースに当たる水無川と、島原市の千本木地区が大きな被害を受けた。気象庁では、2003(平成15)年に雲仙岳をランクA「特に活動度が高い火山」に分類し、2007(平成19)年からは噴火警戒レベルを導入している。但し、1997(平成9)年以降は、小さな噴気活動や火山性地震は継続しているものの、噴火活動は発生していない。雲仙普賢岳は、約200年前にも大噴火を起こしている。1792(寛政4)年2月10日、普賢岳で噴火が始まり、溶岩流や火山ガスの噴出も見られるようになった。その後も噴火活動は続き、約3ヶ月余りが経過した5月21日、2度の強い地震が起こり、雲仙岳の東に位置する眉山の南側部分が大きく崩れ、推定で約3億4,000万立方mに上る大量の土砂が、現在の長崎県島原市の中心地に所在した島原城の城下を通り、有明海へと一気に流れ込んだ。眉山崩壊の原因については、眉山の火山活動によって直接起こったものか、雲仙岳の火山性地震によって誘発されたものかは、現在でも定かではない。さらに続いた地震の度に、眉山は二次崩壊を起こす。山体崩壊で大量の土砂が有明海になだれ込んで来た衝撃により、約10m以上の高さの津波が発生した。津波の第1波は約20分で有明海を横断し、対岸の肥後国(現在の熊本県)に到達した。大量の土砂は海岸線を約870mも沖に進ませ、島原側が高さ約6mから約9m、肥後国側が高さ約4mから約5mの津波であったという。肥後国の海岸で反射した返し波は、島原を再び襲った。津波による死者は、島原で約10,000名、対岸の肥後国で約5,000名を数えると言われている。津波のエネルギーは、崩壊した土砂の持っているポテンシャルの1/100から1/1,000程度に過ぎないとされるが、ここからも、陸上に堆積した土砂の量が甚だ多かったことが判る。肥後国側の津波の遡上高は、現在の熊本市の河内、塩屋、近津付近で約15mから約20mに達し、現在の熊本県宇城市三角町大田尾で、最高の約22.5mに達した。島原側は、布津大崎鼻で約57mを超えたとの記録がある。この眉山の山体崩壊(島原大変)と、それに起因する津波が、島原や対岸の肥後国を襲ったこと(肥後迷惑)による災害、島原大変肥後迷惑での死者・行方不明者は合計で約15,000名、負傷者約1,400名、流失船約1,600艘、流失家屋約6,300棟等となり、有史以来日本最大の火山災害となった。島原地方には、今も多くの絵図や古記録が残っている。この時に有明海に流れ込んだ岩塊は、島原市街前面の浅海に岩礁群として残っており、九十九島(つくもじま)と呼ばれている。これは、地形学的に言うと「流れ山」(山体崩壊によって崩れ落ちた膨大な量の土砂が、山麓に流下してできた、大小さまざまな小山)と呼ばれる地形である。同じ長崎県の佐世保市から平戸市にかけて、九十九島(くじゅうくしま)と呼ばれる群島があるが、島原市の九十九島とは別のものである。現在の平成新山を形成した噴火活動は、島原半島、特に、島原市と長崎県南高来郡深江町(現在は長崎県南島原市の一部)に大きな被害をもたらした。被害をもたらす主たる要因は、火砕流と、堆積した火山灰が豪雨により流出する土石流であり、これらが流れ下るコースに当たる水無川、及び島原市の千本木地区が大きな被害を受けた。また、火山活動中、島原大変肥後迷惑の原因となった眉山の山体崩壊が懸念されたが、今回の噴火活動では、眉山が火砕流から島原市中心部を守る形となった。 
もろみみその日。
広島県呉市西中央に本社を置く、日本有数の「もろみみそ」の生産量を誇る調味料メーカー、株式会社ますやみそが制定。日付は、「もろ(6)み(3)」と読む語呂合わせから、6月3日を記念日に。身体に良いと言われる発酵食品の1つ「もろみみそ」。「もろきゅう」のように、キュウリに乗せるのはもちろん、魚や肉等に漬ける材料として、野菜炒め等の調味料の代わり等、様々な食品に活用できる。その「もろみみそ」の良さ、美味しさを、より多くの人に知ってもらうことが目的。もろみみそは、みそ汁に使うみそとは違い、つぶつぶした食感が特徴。もろみ(醪・諸味)はそもそも、醤油や酒を作るために醸造した液体の中にあるもので、原料が発酵し、柔らかくなった固形物を指す。これが、もろみみそのつぶつぶの正体。株式会社ますやみそでは、原料に国産大麦や良質な大豆を使用している。