6月2日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

本能寺の変。
1582(天正10)年6月2日(旧暦、ユリウス暦1582年6月21日)早朝、京都の本能寺(現在の京都市中京区下本能寺前町に所在)に宿泊していた織田信長がその重臣、明智光秀の謀反によって自刃に追込まれた。中国の毛利攻めに難儀している羽柴秀吉の応援を命じられた明智光秀は、進軍の途中で道を変更し、本能寺の織田信長を襲ったとされる。襲撃を知った織田信長は、近侍(主君の側近くに仕える者)の森蘭丸(名については異説が多く、森成利、森長定や森長康ともされ、織田信長の小姓[武将の身辺に仕え、諸々の雑用を請負う者]から側近として活動し、事務官としての役割を果たすようになっていった)に誰の襲撃か尋ね、明智光秀と聴くと「是非もなし」と応えて自害したと、『信長公記』(織田信長旧臣の太田牛一が著者とされる織田信長の一代記)に伝えられている。織田信長だけでなく、織田信長の嫡男であり織田家当主でもあった織田信忠も、二条城(現在の京都市中京区に所在)で明智方の攻撃を受けて死亡したため、織田政権内に後継者争いが勃発し、織田氏の没落と羽柴秀吉による豊臣政権樹立の契機となった。明智光秀が反旗を翻した原因については、21世紀に入っても様々な人々が多種多様な仮説を発表している。第56代天皇、清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族、清和源氏の土岐氏(美濃源氏の嫡流として美濃国[現在の岐阜県南部]を中心に栄えた武家)支流である明智氏に生まれたとされる明智光秀は、父親の名前も伝わらない、低い身分の土岐支流とも言われている。青年期までの履歴は不明な点が多い。室町幕府第15代将軍足利義昭と織田信長との間を執り持ったことから、足利義昭と織田信長の両属の家臣となった。その後、織田信長と対立した足利義昭は京都を追放され、明智光秀は織田家の家臣に編入された。近江国滋賀郡坂本(現在の滋賀県大津市に所在)に領地を与えられ、各地を転戦した後、丹波国(現在の京都府中部、兵庫県北東部)攻略を任される。1580(天正8)年には、平定を終えた丹波一国(約29万石)を加増され、計約34万石を領する。織田信長は「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と、明智光秀を絶賛した。明智光秀の配下には、近畿地方の織田家の大名が入れられ、光秀支配の丹波国等を含めた、近江国(現在の滋賀県)から山陰へ向けた畿内方面軍が成立する。1582(天正10)年5月、徳川家康饗応役であった明智光秀は任務を解かれ、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命じられる。6月2日(旧暦)早朝に出陣するが、その途上で明智光秀は、重臣達に織田信長討伐の意を告げたと言われる。明智光秀は京都を押さえると、すぐに織田信長・織田信忠父子の残党追捕を行なった。そして、近江をほぼ平定したが、本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国地方から引返してきた羽柴秀吉の軍を、事変から11日後の6月13日(旧暦)、天王山の麓の山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町と大阪府三島郡島本町に跨る地域)で、新政権を整える間もなく迎え撃つことになった。決戦時の兵力は、羽柴軍約2万7千に対し明智軍約1万7千(諸説ある)。兵数は羽柴軍が勝っていたが、天王山と淀川の間の狭い地域には、両軍とも3千程度しか展開できず、合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の明智光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。明智軍先鋒隊が攻撃を開始し、羽柴軍が反撃する形で合戦は始まった。近くに居城を構える、羽柴軍の中川清秀や高山右近らは、山崎周辺の地理にも明るく、兵力差もあって、羽柴軍優位の内に戦いは推移した。頃合いをみた羽柴秀吉は、全軍に総攻撃を発令した。羽柴秀吉本隊の大軍が山崎の隘路より殺到したため、兵力、士気共に勝る羽柴軍が明智軍を圧倒し、明智軍は総崩れとなった。
裏切りの日。
1582(天正10)年、本能寺の変で、織田信長が、家臣の明智光秀に裏切られて攻められ、本能寺で自害した日(旧暦での日付)。明智光秀が主君である織田信長を討った行為については、近代に入るまでは「逆賊」としての評価が主であった。特に、儒教的支配(「天は尊く地は卑しく、天は高く地は低い。上下差別があるように人にも又君は尊く、臣は卑しい」と説く「上下定分の理」に基づくもの)を尊んだ徳川幕府の下では、本能寺の変の当日、織田信長の周りには、非武装の共廻りや女子を含めて100名程しかいなかったこと、変後に江戸幕府で神君とされた徳川家康が、伊賀越え(畿内[ほぼ現在の近畿地方に相当]より東国へ行く際に、伊賀国[現在の三重県西部]を経由して行くことをいう)危難を味わったこと等から、このことが強調された。一方、明智光秀は諸学に通じ、和歌・茶の湯を好んだ文化人であった。また、内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたと言われ、現在も明智光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くある。現代に至る京都府亀岡市と京都府福知山市の市街は、明智光秀が築城を行ない、城下町を整理したことに始まる。亀岡では、明智光秀を偲んで亀岡光秀まつりが行なわれている。福知山には、「福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ」と、明智光秀を偲ぶ福知山音頭が伝わっている。なお、謎の多い本能寺の変は、狂言、浄瑠璃、歌舞伎、小説、映画、演劇、アニメ等、様々なジャンルでモチーフとして親しまれ、日本文化の中で、約400年前から今日まで、作品の対象とされている。2020(令和2)年1月から放送された、日本放送協会(NHK)の大河ドラマ(日本史上の人物の生涯を描く一代記が殆どで、日本のドラマ番組の代表格の1つとなっており、その視聴率の変遷が、ネットニュース等で頻繁に取上げられる)第59作目『麒麟がくる』では、明智光秀の生涯が描かれた。最新の研究成果も踏まえ、従来と異なる新たな解釈で戦国時代の物語を紡ぎ、明智光秀の謎に満ちた生立ちにもスポットを当てている。  
路地の日。
6月2日の「6」と「2」で、「路地(ろ[6]じ[2])」の語呂合わせから。歴史と文化の町、長野県諏訪郡下諏訪町には、昔からの裏道や路地が多い。このかけがえのない路地を愛し、その風情を楽しみ、いつまでも残していこうと活動を続けている、有志による民間団体、「下諏訪の路地を歩く会」が制定。下諏訪町は、かつては中山道、甲州街道が分岐する宿場として栄えていて、裏道や路地が多い町である。路地とは、本来は「露地」と表記し、屋根等の覆うものがない土地や地面を意味するが、狭義には、密集市街地等に形成される狭い道や家と家の間の狭い道、通路等をいう。このため、茶室に付属する庭、門内等も露地(路地)と呼ぶ。露地(屋根のある建物以外全般の地面)に派生したもので、家屋の間に便宜的に設けられた通路である。狭さや薄暗さを強調して「路地裏」とも呼ばれる。主に、歩行者やそれに順ずる者の交通に供され、自動車の交通は余り考慮されない。いわゆる「横丁」は概ね、同じようなニュアンスがあるが、「路地」と表現されると更に狭く、隣接する建物の関係者以外は殆ど利用しない道を示し、生活道路を含む自動車交通に対応した主要な道路とは別に、勝手口等、重要ではない出入口から家屋に出入りするために利用される。都市の下町や漁村集落に多く分布し、洗濯乾しや地蔵、植木等の存在と共に、居住者の生活空間として活用され、コミュニティを繋ぐ空間を成す。いわゆる「道路」ではないことから、私有地である家屋の敷地とは余り区別されず、私財が留め置かれることもままあり、古い町並みでは、地域住民の様々な生活の一端を、塀や壁・垣根の外に見出せることも珍しくはない。なお、「横(よ[4]こ[5])」の語呂合わせから、4月5日が「横町の日」とされている。