6月2日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年 
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第1日曜日 旧暦  4月26日、大安(丁酉)、月齢 25.0 
グレゴリオ暦で年始から154日目、年末まであと212日。
誕生花 オダマキ(赤)。

横浜港開港記念日、長崎港記念日。
1859(安政6)年6月5日(旧暦)、前年に締結された日米修好通商条約(江戸幕府が日本を代表する政府として調印した、日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約)により、それまでの下田(現在の静岡県下田市)と箱館(現在の北海道函館市)の他、神奈川(横浜)と長崎の港が開港した。日米修好通商条約は、当時の江戸幕府第14代将軍徳川家茂と、アメリカの初代駐日領事タウンゼント・ハリスとの間で調印された14ヶ条からなるもので、自由貿易を求めるアメリカに対して、日本は神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港を約束した。横浜港は、神奈川県横浜市の東京湾岸にある港湾である。武蔵国久良岐郡横浜村(現在の神奈川県横浜市中区の関内付近)に開港され、生糸貿易の中心港として、また、京浜工業地帯の工業港、東京の外港として大きく発展した。当初は、現在の神奈川県庁本庁舎付近(神奈川県横浜市中区日本大通)にあった運上所(輸出入貨物の取締りや関税の徴収等に携わった役所で、現在の税関に相当する)の沿岸に、東西2つの波止場が設けられて貿易が始まったが、大正期にかけて、新港埠頭等の港湾施設が整備されたことにより、現在の兵庫県神戸市にある神戸港と共に、東西の国際貿易港として、日本の近代化を牽引した。第二次世界大戦の際の空襲と、その後の進駐軍(連合国軍最高司令官総司令部[GHQ])駐留により大きな打撃を受けたものの、1950(昭和25)年制定の「港湾法(昭和25年5月31日法律第218号)」に基き、翌1951(昭和26)年には横浜市が港湾管理者となり、第二次世界大戦前の国営港湾から、終戦直後の進駐軍(連合国軍最高司令官総司令部[GHQ])接収時代を経て、市営港湾化された。1950(昭和25)年に制定された「横浜国際港都建設法(昭和25年10月21日法律248号)」の下、国際港都・横浜の中心的施設として整備され、現在では、横浜市の東京湾沿岸ほぼ全域に広がり、10ヶ所の埠頭と249のバース(岸壁)を有する。外貿コンテナ取扱個数は東京港に次ぐ国内第2位であり、東日本を代表するコンテナポートとなっている。また、クルーズ客船の発着港としても、寄港数で2003(平成15)年に初めて国内港湾第1位となって以来、その地位を保っている。日米修好通商条約では、神奈川の開港が定められたが、江戸幕府は信濃国松代藩藩士で、兵学者・朱子学者・思想家の佐久間象山、列強との折衝に尽力した外国奉行、岩瀬忠震らの意見により、東海道に直結する神奈川宿・神奈川湊(武蔵国橘樹郡、現在の神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町付近に所在)を避け、対岸の横浜村に開港場を新設することを決定した。対して、諸外国の公使はあくまで条約に拘り、神奈川の開港を求め、横浜の利便性は認めつつも、神奈川宿周辺に領事館を開いた。しかし、開港後は居留地で取引が活発化して、神奈川湊は衰退し、居留地が外国人向けに整備される等、既成事実が積み重なり、諸外国も横浜開港を受入れた。横浜は、大岡川によって土砂が堆積するという不利点があったものの、南に本牧台地があるため、風を防ぐ利点があった。横浜沖はすぐに水深を増す工事が施された。当時の横浜村は、砂州の上に形成された半農半漁の寒村で、相前後して居留地、波止場、神奈川運上所(税関)、神奈川奉行所等を整備し、東海道から横浜村に至る脇往還(よこはま道)が短期間で造成された。これらの事業や初期の町作りを担ったのは、神奈川宿や程ヶ谷宿(保土ヶ谷宿、武蔵国橘樹郡程ヶ谷[現在の神奈川県横浜市保土ケ谷区]に所在)、そして周辺の村々の人達であった。横浜開港の成功の背景には、神奈川湊、及び同宿によって培われた経済的基盤が存在したとされる。開港に先立ち、江戸幕府は横浜への出店を奨励する御触を出し、江戸の大商人や神奈川湊等、江戸湾内の廻船問屋の他、全国から一旗揚げようと意気込む商人が集まり、横浜は急速に発展した。同年に永住した西洋人の商人は20名以上あり、不安定ながら非常に利益率の高い商売であったことから、一攫千金をもくろむ西洋人が次々と来日し始め、船員が商人を兼ねることも多かった。明治30年代から大正時代には、日清戦争(1894[明治27]年から1895[明治28]年にかけて行なわれた、主に朝鮮半島[李氏朝鮮]を巡る日本と中国清朝の戦争)を経て東洋最大の港となった神戸港に対抗すべく、埠頭や海陸連絡施設等、大規模な港湾施設の建設が積極的に行なわれた。1899(明治32)年には、海陸連絡施設の整備を目指して第2期築港工事を開始したが、横浜赤レンガ倉庫(神奈川県横浜市中区新港にある歴史的建築物で、付近一帯は広場と公園を備える赤レンガパークとして整備され、横浜市における都心[ツインコア]の1つである横浜都心に指定されている、横浜みなとみらい21地区の代表的な観光施設となっている)は、この時代に横浜市が、政府に建設を働きかけて完成させたものである。以後、現在に至るまで、港湾施設の改良工事は度々行なわれている。長崎港は、長崎市に位置する港湾である。港を上空から見ると、鶴が羽を広げたような形に見えることから「鶴の港」とも呼ばれる。江戸時代は「鎖国」体制の下にあって、江戸幕府が西洋・中国向けに唯一公認した国際貿易港として栄え、明治以降は、中国東部に位置する上海への航路の発地として、貿易や旅客の行き来が盛んになった。現在では、観光地長崎の玄関口として、また、離島の多い長崎県の交通の要衝であり、港中心部の再開発も進んでいる。1859(安政6)年に開港場となり、湊会所(現在の長崎税関の前身)が置かれた。それに先立つ1857(安政4)年には、江戸幕府が長崎鎔鉄所を設置しており、これが現在の三菱重工業長崎造船所の前身となっている。三菱重工業長崎造船所では、1942(昭和17)年に大和型戦艦(戦艦として、排水量、主砲口径、共に世界最大であった、日本海軍が建造した最後の戦艦艦型)の二番艦『武蔵』が竣工している。1923(大正12年)、長崎 - 上海間に上海連絡船定期航路が開かれた。就航の第1船は、日本郵船の貨客船『長崎丸』で、翌月には同型姉妹船『上海丸』が就航した。当時、長崎 - 東京間は汽車で36時間を要していたが、同航路は約26時間で連絡していた。1930(昭和5)年には長崎駅から出島岸壁に至る臨港線が完成し、長崎港駅が開設された。「下駄を履いて上海へ」と言われる程、市民にとって上海は身近な存在であった。1942(昭和17)年、『長崎丸』が長崎港外で浮遊機雷に触れ沈没。翌年には、『上海丸』も、上海の近くの揚子江口で輸送船と衝突して沈没し、上海航路は幕を閉じた。長崎港駅も、1946(昭和21)年を最後に時刻表への掲載がなくなり、以後実質は貨物駅として運用された。貨物取扱量の減少に伴ない、1982(昭和57)年に廃止され、駅跡地と廃線跡は、歩道や公園として整備されている。2009(平成21)年以降、10万総t級客船対応岸壁と国際ターミナルが供用を開始しており、上海航路も豪華客船により復活した。なお、1930(昭和5)年に長崎商工会議所は、ポルトガル貿易船が入港した1571(元亀2)年を長崎開港の年と認め、長崎港の開港記念日を4月27日としている。