6月1日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

写真の日。
1950(昭和25)年創立の写真関連団体、日本写真協会が設けた写真の日制定委員会が1951(昭和26)年に制定し、日本写真協会が主催している。東京都千代田区一番町に本部を置く日本写真協会は、写真を通じて国際親善の推進、文化の発展に寄与することを目的として、外務省の認可を得て設立された社団法人で、2011(平成23)年4月1日には公益社団法人となる。写真家・写真評論家の創造活動中心の団体とは違い、企業等の賛助会員制度があり、写真材料の商社や現像所、フォトギャラリー、写真学校等が加入できる。このため、写真映像・印刷関係メーカーや、販売会社の現役経営者、役職経験者、大学運営者、写真美術館の館長らも役員を務めている。1841(天保12)年6月1日、長崎の蘭学者で、写真機を初めて輸入した上野俊之丞が、薩摩国/大隅国薩摩藩第11代藩主である島津斉彬を撮影したという、上野俊之丞の息子で、日本における最初期の写真家であり、日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)としても知られる上野彦馬の口述による記事『日本写真の起源』を元に、これが日本初の写真撮影として、6月1日が記念日とされた。但し、後の研究で、それより以前にも写真撮影が行なわれていたことが分かっている。しかし、一度制定したこともあり、引続き、6月1日を「写真の日」としている。また、5月から6月にかけてを「東京写真月間」とし、写真展等が行なわれている。 写真とは、穴やレンズを通して対象を結像させ、物体で反射した光、及び物体が発した光を感光剤に焼き付けた後、現像処理をして可視化したものである。この時、感光剤に焼付けるまでを行なう機器は、基本的にカメラと呼ばれる。英語の「photograph」という語は、イギリスの天文学者ジョン・ハーシェルが創案した。日本語の「写真」という言葉は、中国語の「真を写したもの」からである。19世紀初めに、カメラ・オブスクラ(写真の原理による投影像を得る装置)の映像と感光剤とを組合わせ、映像を定着させる写真の技術は、ほぼ同時に多数発明された。この時美術は、新古典主義(18世紀中頃から19世紀初頭にかけて、西ヨーロッパで建築・絵画・彫刻等、美術分野で支配的となった芸術思潮)とロマン主義(それまでの理性偏重、合理主義等に対し、感受性や主観に重きを置いた一連の運動)の並存する時期であった。また、大勢誕生した中産階級によって、肖像画の需要が高まっていた。そして、石版画(水と油の反発作用を利用した版種)の技術が、新聞図版や複製画等に活用され、広まりつつあった。現存する世界最古の写真は、1825(文政8)年にフランスの機械技術者・写真技術者ニセフォール・ニエプスが撮影した「馬引く男」である。現代の写真処理は、1840(天保11)年から最初の20年の一連の改良を基底とする。ニセフォール・ニエプスによる最初の写真の後、1839(天保10)年にはダゲレオタイプ(銀板写真、銀メッキをした銅板等を感光材料として使う世界初の実用的写真撮影法)が発表され、直後にカロタイプ(イギリスの化学者・考古学者・語源学者ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットが発明した写真技法で、史上初のネガ - ポジ法であり、複製が可能という点でダゲレオタイプに優っていた)も発表された。写真の普及は、肖像写真の流行、1851(嘉永4)年の湿式コロジオン法(金属板に代わりガラス板を使ったネガ版を作る写真術を導入したもの)の発明、1871(明治4)年のゼラチン乾板(臭化銀[鋭い感光性を有する、黄色味を帯びた白色の固体]をゼラチンに混ぜた感光乳剤をガラス板に塗ったもの)の発明へと続いた。1884(明治17)年、アメリカの写真技術者ジョージ・イーストマンが、紙に乾燥ゲル(市販の状態の寒天やゼラチン片のような強度に乾燥した状態のゲル[ゾルと呼ばれるコロイド溶液が流動性を失ってゼリー状となったもの]を塗布する方式を開発したことで、、写真家は、乾板の箱や、有毒な化学物質を持ち歩かなくて済むようになった。1888(明治21)年7月、ジョージ・イーストマンの設立したコダックカメラが、「あなたはボタンを押すだけ、後はコダックが全部やります」との触込みで市場に参入した。こうして、現像サービス企業が登場し、誰でも写真撮影が可能な時代となり、複雑な画像処理の道具を自前で持つことが必要ではなくなった。1901(明治34)年には、将来の顧客として子どもを狙い、1ドルという安価な価格を設定し、当時子どもに人気が絶大であった漫画の主人公の名前を付け、広告宣伝にも起用した商品、コダック・ブローニーの登場により、写真は市場に乗った。1925(大正14)年、ドイツの光学機器メーカー、エルンスト・ライツのカメラ、ライカ等の登場で一般性、可搬性(カメラの持ち運び易さ)、機動性、フィルム交換のし易さが高まって、スナップ写真が広まる等した。20世紀以降、カラーフィルム(多色フィルム)やオートフォーカス(自動合焦、但し必ず自動で合焦する訳ではない)、オートエキスポーズ(自動露出)が広まった。また、画像の電子記録も広まっている。現在では、デジタルカメラの液晶画面によるインスタントプレビューが可能であり、高画質機種の解像度は高品質の35mmフィルムのそれを越えている、とも言われるようになった。そして、コンパクトデジタルカメラの価格は大幅に低下し、写真を撮ることはより容易になった。しかし、専らマニュアル露出、マニュアルフォーカスのカメラと白黒フィルムを使う撮影者にとって、1925(大正14)年にライカが登場して以来、変わった点は殆どないとも言える。
チーズの日。
6月1日が「写真の日」であることから、写真を撮る時の掛け声「はいチーズ」にかけて制定された。なお、日本輸入チーズ普及協会とチーズ普及協議会が、1992(平成4)年に制定した11月11日の「チーズの日」とは無関係である。カメラの発祥国とされるフランスは、「1つの村に、1つのチーズがある」と言われる程のチーズ大国でもある。その影響からか、アメリカやイギリス等の英語圏等では、写真を撮る時に、撮る側が「Say cheese!(チー[ズ]と言って!)」と合図を出し、撮られる側が「Cheese!(チー[ズ!)」と返す風習がある。これは、「Cheese」の「チー」を発音する時に、「イー」と口元が横に広がり、にこやかな表情になるからで、この風習が日本に広がったのは、1963(昭和38)年とされる。当時、総合乳業メーカーのトップであり、グループ全体の連結売上高が1兆円を超える巨大食品グループであった、雪印乳業(現在の乳製品メーカー、雪印メグミルクの前身となる企業)のチーズのテレビCMが、そのきっかけとなった。日本人の女性モデルが、どうしてもカメラの前で笑顔を作れずにいると、外国人のカメラマンが「Say cheese, please」と言い、隣にいた日本人のカメラマンが「チーズって言ってごらん」と、アドバイスをする。そして、「チーズ」と言った、その女性モデルには、自然な笑顔が生まれ、ここで、キャッチフレーズとなった「あなたもチーズと言いましょう。チーズは笑顔を作ります」が生まれる。このCMは、チーズの需要が伸びた時期、そして、個人用カメラが普及した時期とうまく重なり、「はい、チーズ」という写真撮影の掛け声を、日本中に広めることとなった。