5月30日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

文化財保護法公布記念日(続き)。
「史蹟名勝天然紀念物保存法」では、内務大臣が史蹟、名勝、天然紀念物を指定するとし、現状変更、又は保存に影響を及ぼす行為は地方長官の許可事項とした。国からの補助金による物件の修理、標識や柵の設置、鳥類の飼養等も行なわれ、敷地の国費買上げや発掘調査も行なわれた。「古社寺保存法」に関する行政は、1913(大正2)年に内務省から文部省に移管されていたが、史蹟名勝天然紀念物に関する行政も、1928(昭和3)年に内務省から文部省に移管され、これ以降は、文化遺産保護行政は文部省が一元的に所管することになった。「古社寺保存法」の指定対象は社寺所有の物件に限られており、社寺以外の法人や国、地方公共団体、個人等が所有する物件は対象外であったため、昭和恐慌(世界恐慌の影響が日本にも及び、日本経済を危機的な状況に陥れた、第二次世界大戦前の日本における最も深刻な恐慌)の際に、旧大名家等が所蔵する宝物類が散逸する虞(おそれ)が生じた。その頃、明治初年以降放置されていた城郭建築を保存する必要も出てきたことで、1929(昭和4)年に「国宝保存法(昭和4年3月28日法律第17号)」が制定された。「古社寺保存法」では、特別保護建造物と国宝に分かれていたものを統一し、「国宝保存法」では、文部大臣が建造物、宝物その他の物件を国宝に指定するとし、国宝の移出や現状変更は文部大臣の許可制とすること等が定められた。施行時に国宝とされた物件は、宝物類3,704件(絵画754件、彫刻1,856件、書跡479件、工芸347件、刀剣268件)、建造物845件(1,081棟)であった。その後、金解禁(金の輸出許可制を廃止する等の一連の経済政策)等の混乱を経て、円価が下落すると、未指定の古美術品の海外流出が続出した。1933(昭和8)年、こうした事態の防止を目的として、認定物件の移出を許可制とすること等を定めた「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律(昭和8年4月1日法律第43号)」が制定された。海外流出を防ぐために迅速な調査が行なわれたため、文化財としての価値が定まっていないものも多数、重要美術品の中に混在することとなった。「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」は、一時的危機に対処するための臨時の措置とされていたが、第二次世界大戦後の「文化財保護法」制定まで継続され、廃止時には認定件数は約8,200件に達した。第二次世界大戦中は、国宝と史蹟の管理事務は継続されたものの、名勝・天然紀念物の指定事務は、1944(昭和19)年に停止に至った。また、建造物等の防空策や美術工芸品の疎開が進められた。第二次世界大戦終戦後、重要美術品の認定事務は逸早く、1946(昭和21)年8月から再開された。これは、第二次世界大戦後の混乱状態の中、重要美術品の損壊や海外流失等の事態が懸念されたためである。しかし、国宝や重要美術品は、第二次世界大戦時中には十分な保護措置がなされず、第二次世界大戦後も経済の混乱によって、所有者である名家や社寺が経済的安定を失ったことで、荒廃するままに放置されたり、売却されて所在不明となったものもあった。このような文化遺産の危機の中、法隆寺金堂壁画が失火により焼損するという事件が発生した。この事件は、日本国民に強い衝撃を与え、文化遺産保護のために抜本的施策を講じるべき、とする世論が高まった。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の賛成が得られないことから、実現が見送られていたが、こうした世論の後押しを受けて、「文化財保護法」が成立に向けて動き出すことになった。「文化財保護法」に基づき、文化庁は国宝や重要文化財等の所有者に対し、保存修理の費用や火災や盗難の被害から防ぐための防災設備の整備費用を、公費により助成している。重要無形文化財、及び文化財保存技術に関しては、保持者・保持団体が行なう技術伝承のための事業に対して補助を行ない、無形文化財等の映像記録等を製作している。地方公共団体による史跡等の公有化に関しても助成を行なっている。「文化財保護法」では、個人の土地で土器や石器等を発見した場合、その出土品(遺物)は埋蔵物として、発見者が所轄の警察署長に発見の届け出を行なうこととされている。税制面では、「租税特別措置法(昭和32年3月31日法律第26号)」の規定により、個人が重要文化財として指定された物件を国、地方公共団体、国立文化財機構等へ譲渡した場合、譲渡所得は非課税となる。他にも、相続税、固定資産税、特別土地保有税、都市計画税の減免等の税制優遇がある。文化遺産の防災については、法隆寺金堂壁画の失火焼損が大きな教訓となって、文化庁は火災報知機等の防災設備の整備を公費により助成している。なお、1950(昭和25)年8月29日、「文化財保護法」が施行されたことを記念して、1951(昭和26)年に制定された「文化財保護法施行記念日」は、8月29日とされている。それに加え、文化庁と消防庁は、法隆寺失火事件が起きた1月26日を「文化財防火デー」と制定して、防火訓練等を実施すると共に、国民の意識向上を図っている。また、1966(昭和41)年からは、文化財建造物の防火対象物への、自動火災報知設備の設置が義務付けられている。
「統計院」設立の日。
1881(明治14)年5月30日、明治政府が太政官(当時の最高行政機関)に統計院を設置した。この統計院の設立に力を入れたのは、肥前国佐賀藩(鍋島藩)出身で、2度に亘り内閣総理大臣を務めた大隈重信で、現在の早稲田大学の創設者としてもよく知られている。大隈重信は、明治政府の第4代大蔵卿(現在の財務大臣に相当する)として財政整理に当たっている内に、正確な統計の必要を感じ、統計院の設立を建議し、自ら初代の院長に就任して、統計整備の先頭に立った。統計院設立の建議の中で、大隈重信は「現在ノ国勢ヲ詳明(しょうめい)セザレバ政府則(すなわ)チ施政ノ便ヲ失フ 過去施政ノ結果ヲ鑑照(かんしょう)セザレバ政府其(その)政策ノ利弊(りへい)ヲ知ルニ由(よし)ナシ」(意味:現在の国の情勢を詳細に明らかにしなければ、政府は政治を執り行なうことができない。また、過去の施政の結果と比較してみなければ、政府はその政策の善し悪しを知ることができない)と述べ、統計の重要性を強く訴えた。大隈重信は、その後も内閣総理大臣として、統計の進歩改善に関する内閣訓令を発する等、生涯に亘って統計に深い関心を寄せ、統計の改善に力を尽くした。大隈重信は、第1回の国勢調査(1920[大正9]年)を主導した原敬、第二次世界大戦終戦直後に統計制度の確立に尽力した吉田茂と共に、統計に最も深い関心を寄せた、歴史上の内閣総理大臣の1人に数えられている。1885(明治18)年12月28日、統計院は廃止され、内閣に統計局を設置する。第二次世界大戦前には改組が繰返されたが、1949(昭和24)年、内閣総理大臣自らが分担管理する事務、及び各行政機関の総合調整にかかる事務を所掌した総理府の設置により、総理府統計局となる、その後、総務庁統計局に改組され、2001(平成13)年の中央省庁再編に伴ない、総務庁統計局が総務省に移行し、総務省の内部部局(府省庁内の本体部分を構成する組織)の1つ、統計局となった。統計局は、日本国政府の中枢的な統計機関として、総務大臣が国勢統計を作成するために、「日本に居住している全ての人及び世帯」を対象として実施される、国の最も重要、かつ基本的な統計調査(全数調査)、国勢調査を始めとする、国の基本的な統計の作成を担当している。