5月30日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第5木曜日 旧暦  4月23日、友引(甲午)、月齢 22.0
グレゴリオ暦で年始から151日目、年末まであと215日。
誕生花 アマリリス・ライラック(紫)。

文化財保護法公布記念日。
1950(昭和25)年5月30日、全文130条からなる「文化財保護法(昭和25年5月30日法律第214号)」が公布されたことを記念して設けられた。「文化財保護法」は、文化財の保存・活用と、国民の文化的向上を目的とする法律である。有形、無形の文化財を分類し、その重要性を考慮して、国の場合は文部科学大臣又は文化庁長官、都道府県の場合は都道府県知事、市町村の場合は市町村長による指定、選択、選定、認定、或いは登録により、文化財の保護のための経費の一部を公費で負担することができる。1949(昭和24)年1月26日の法隆寺金堂(奈良県生駒郡斑鳩町に所在)の火災により、法隆寺金堂壁画が焼損した。これをきっかけとして、文化財保護政策の抜本的改革が望まれ、文化財の保護についての総合的な法律として、議員立法により「文化財保護法」が制定された。同年8月29日に施行され、前身である「史蹟名勝天然紀念物保存法(大正8年4月10日法律第44号)」、「国宝保存法(昭和4年3月28日法律第17号)」及び「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律(昭和8年4月1日法律第43号)」は廃止された。日本国政府による文化遺産保護制度は、主に文部科学省、及び文化庁(文化の振興、及び国際文化交流の振興を図ると共に、宗教に関する行政事務を適切に行なうことを任務とする文部科学省の外局[特殊な事務、独立性の強い事務を行なうための組織]の1つ)が所管している。制度の原型は明治時代に創設され、時代情勢を反映した改正を経て、今日に至っている。現在の制度は、1950(昭和25)年に制定された「文化財保護法」によって一体的に規定されているが、このような包括的な制度は、主要国では他に例を見ないものである。「文化財保護法」は、地方公共団体の役割についても規定しており、これを受けて多くの地方公共団体が「文化財保護条例」等の名称の条例を制定している。「文化財保護法」が規定している天然記念物の制度は、自然保護制度とも隣接するため、これを所管する環境省との間で調整が図られている。文部科学省、及び文化庁が所管する制度の他にも、文化遺産保護に関連する制度が幾つかある。日本では、近世以前は名家や社寺の財宝として、或いは、町衆文化や農村文化として文化遺産が伝承されてきた。明治維新を迎えると、廃仏毀釈運動(仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、僧尼等の出家者や寺院が受けていた特権を廃する運動)により寺院の古器旧物が破壊される等の事態が生じたため、1871(明治4)年に明治政府は、「古器旧物保存方、明治4年5月23日太政官布告第251号)」を発し、全国の宝物の調査を命じた。しかし、古社寺の経済的疲弊は甚だしく、例えば、法隆寺は1878(明治11)年に宝物300件余りを皇室へ献納し下賜金を受けた。宝物の散逸を防止するため、内務省(現在の総務省、国家公安委員会、警察庁、国土交通省、厚生労働省等の前身)は1880(明治13)年頃から1894(明治27)年頃にかけて、全国の主要な古社寺に保存金を交付して宝物の維持に当てさせた。古墳や出土遺物に関する措置は、天皇陵の比定(同質のものがない場合、他の類似のものと比べて、そのものがどういうものであるかを推定すること)と関連して早くから整えられた。1874(明治7)年の「古墳発見ノ節届出方、明治7年5月2日太政官達第59号)」、1880(明治13)年の「御陵墓所在未定ノ分取調ニ付人民私有地内古墳等発見ノ節届出方、明治13年11月15日宮内省達乙第3号)」は、古墳の発掘規制と不時発見の届出制を定めたものである。出土遺物に関しては、「遺失物法(旧法、明治32年3月24日法律第87号)」等が制定された。文部科学省の前身の1つである文部省は、1884(明治17)年頃から、アメリカの東洋美術史家・哲学者で、明治時代に来日したお雇い外国人であり、日本美術を評価し、紹介に努めたことで知られるアーネスト・フェノロサ(専門は政治学や哲学であり、美術が専門ではなかったが、来日前には、アメリカ合衆国北東部、マサチューセッツ州ボストン市にある、全米有数の規模を持つ美術館、ボストン美術館付属の美術学校で油絵とデッサンを学んだことがあり、美術への関心はもっていて、来日後は日本美術に深い関心を寄せた)と、思想家・文人で、アーネスト・フェノロサの助手(越前国福井藩出身の武家で、幼少時より英語に慣れ親しみ、英語塾で英語を学ぶ等、英語が得意であったことから、アーネスト・フェノロサの助手となった)でもあり、近代日本における美術史学研究の開拓者とされる岡倉覚三(よく知られる「岡倉天心」の「天心」は、本人が詩作等の際に用いた号であるが、生前には「岡倉天心」と呼ばれることは殆どなく、本人はアメリカでも本名の岡倉覚三で通していた)に古社寺調査を命じ、宮内省(現在の宮内庁の前身)も1888(明治21)年から1897(明治30)年に、美術行政に尽力した文部官僚・政治家、九鬼隆一を委員長とする臨時全国宝物取調局を設置し、両者は協力して全国の古社寺を中心とする宝物の調査を行なった。調査した物件は、古文書、絵画、彫刻、美術工芸品、書跡等、215,091点となっている。この調査によって、京都や奈良の古社寺に収蔵されていた宝物の全体像が判明し、帝国奈良博物館(仏教美術を中心とした文化財の収集、保管、研究、展示を行なうと共に、講演会や出版活動等を通じた普及活動を行なうことを主たる活動内容とする、現在の奈良国立博物館[奈良市登大路町に所在])、帝国京都博物館(主に平安時代から江戸時代にかけての京都の文化を中心とした文化財を、収集・保管・展示すると共に、文化財に関する研究、普及活動を行なっている、現在の京都国立博物館[京都市東山区茶屋町に所在])が設置される契機となった。なお、東京の帝国博物館(東京都台東区上野公園にある、現在の東京国立博物館)は、1872(明治5)年に文部省博物館として設置されている。1896(明治29)年、岡倉覚三や九鬼隆一らの主導で、内務省に古社寺保存会が設置された。翌1897(明治30)年、当時のイギリスやフランスの文化遺産保護制度も参考として「古社寺保存法(明治30年6月10日法律第49号)」が制定された。これは、日本における文化遺産保護制度の原型ともいうべきもので、内務大臣が古社寺保存会の諮詢(参考として他の機関等に意見 を問い求めることで、諮問と同義である)を受けて、特別保護建造物、又は国宝を指定するとした。特別保護建造物、及び国宝は、処分を許可制とすると共に、これらの維持修理が困難な古社寺に対しては、保存金の交付が定められた。同時に、それまで宮内省(現在の宮内庁の前身)と内務省に分かれていた文化遺産保護行政が、内務省の管轄に一本化された。明治時代末期には、鉄道建設や都市開発等の国土開発が加速するに伴ない、史跡名勝の保存や動植物の保護が課題として意識されるようになった。1911(明治44)年には、紀州徳川家第15代当主で、日本の文化活動を積極的に推進した政治家、侯爵徳川頼倫らを中心に、史蹟名勝天然紀念物保存協会が設立される等、民間での保護運動も高まっていた。こうして1919(大正8)年、「史蹟名勝天然紀念物保存法(大正8年4月10日法律第44号)」が制定された。