5月26日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年 
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4日曜日 旧暦  4月19日、仏滅(庚寅)、月齢 18.0
グレゴリオ暦で年始から147日目、年末まであと219日。
誕生花 ゼラニウム・オリーブ。

二十四節気・雑節等
紅花栄う。
七十二候の1つ(23候)。
   
ル・マンの日。
1923(大正12)年5月26日、自動車耐久レースの最高峰、『ル・マン24時間耐久レース』の第1回大会が、フランス北西部にある都市ル・マンで開催された。第1回大会に参加したのは18メーカーで、フランス31台、ベルギーとイギリスから各1台の計33台が出走した。完走したのは30台で、優勝したのは、地元フランス人ドライバーが乗るフランス車シュナール・ワルケルで、走行距離は2,209.536km、平均速度は時速92.064kmであった。17世紀から18世紀にかけて、織物業の町として繁栄したル・マンには、保存状態の良い旧市街と大聖堂がある。モータースポーツの開催地として知られ、『ル・マン24時間耐久レース』の主催者であるフランス西部自動車クラブ(ACO)の本部も置かれている。『ル・マン24時間耐久レース』は、24時間でのサーキット周回数を競うものである。日本で『ル・マン24時間耐久レース』というと、通常は1年の内で最も昼の長い、毎年6月の初めから中頃に開催される自動車による耐久レースのことを指すが、現地では毎年、オートバイによる24時間耐久レースも開催されている。歴史あるレースの1つで、フォーミュラ1(F1グランプリやF1世界選手権とも呼ばれる、国際自動車連盟[FIA]が主催する自動車レースの最高峰))のモナコグランプリ、及び、世界最速の周回レースとされるアメリカのモータースポーツイベント、インディアナポリス500マイルレース(インディ500)と並んで、「世界三大レース」と呼ばれる。レースが中止されたのは、フランス自動車工業界のストライキの影響による1936(昭和11)年と、第二次世界大戦と戦後の疲弊と混乱による1940(昭和15)年から1948(昭和23)年にかけての間だけである。因みに、第二次世界大戦中、ル・マンはナチス・ドイツ(国家社会主義ドイツ労働者党支配下のドイツ国)に占領されていた。『ル・マン24時間耐久レース』では、各国のメーカーが開発した最新鋭の耐久マシンを、現役のスタードライバーや若手ドライバーがドライブする姿を見ることができるのはもちろん、スプリントドライバーで一線を退いたスター選手や、「ジェントルマン・ドライバー」と呼ばれるアマチュアドライバーの走りも見ることができる。競技は、ル・マン市の非常設の公道コースである「サルト・サーキット(サルテ・サーキット、又はシルキュイ・ドゥ・ラ・サルトとも)」(全長13.629km)と呼ばれる周回コースで行なわれる。その殆どは、普段は一般道で、スタート、及びゴール地点とその周辺は競技専用で、「サルト・サーキット」に増設する形で造られた「ブガッティ・サーキット」の一部を使用する。『ル・マン24時間耐久レース』に初めて、日本の自動車メーカーのエンジンが登場したのは、主要自動車生産国としては最も遅い1970(昭和45)年である。1970年代は、排気ガス規制対策やオイルショック(原油の供給逼迫、及び原油価格高騰と、それによる世界の経済混乱)によって、自動車メーカーのレース活動が停滞しており、プライベーター(自動車メーカーではない、レース活動を行なう独立系チーム)の地道な活動から『ル・マン24時間耐久レース』への挑戦が始まった。1980年代以降は、マツダや日産自動車、トヨタ自動車、本田技研工業等がワークスチーム(自動車等製造会社が、自己資金でレース参戦する場合に、そのチームを指す名称)・準ワークスチームで参戦したが、総合優勝したことがあるチームは、1991(平成3)年のマツダだけである。大資本をバックに大々的に参戦してきた他の日本勢と違い、ロータリーエンジン(ピストンを取付けた固定制御軸の周りを、燃焼室とシリンダーが駆動軸と共に回転する内燃機関)という独自の技術と共に、長い年月を掛けて地道に参戦を続けてきたマツダの総合優勝は、多くの地元観客のみならず、他の参戦ワークスチームや世界中のモータースポーツファンから大きな賞賛を浴びた。なお、この1991(平成3)年は、結果的にマツダの最後の参戦になった。海外メーカー車を使用する日本チームや日本人ドライバーも優勝しているが、日本メーカー車に日本チーム、日本人ドライバーというオールジャパンチームとしての優勝はまだない。2016(平成28)年、トップを快走していたトヨタは、悲願の初優勝を目前にしていた。しかし、残り約3分のところでマシントラブルが発生し、ポルシェに逆転されてしまった。昼夜を通して24時間走り続ける『ル・マン24時間耐久レース』の過酷なレース現場では、予期せぬトラブルが発生することがあり、「ル・マンには魔物が棲んでいる」との格言がある。2018(平成30)年、ついに「TOYOTA GAZOO Racing(トヨタ・ガズー・レーシング)」の中嶋一貴が日本チーム、日本車(トヨタ・TS050 HYBRID)というオールジャパンチームで総合優勝を飾った。そして、2021(令和3)年には、トヨタが4連覇を果たすと共に、小林可夢偉が悲願の初優勝を飾った。1971(昭和46)年に公開されたアメリカのカーアクション映画『栄光のル・マン』は、カーレースに並ならぬ情熱を傾けていた、アメリカの俳優で、本格的アクション俳優として一時代を築き、世界中の映画ファンを熱狂させたスティーブ・マックイーンが、自ら率いるソーラー・プロダクションの総力を挙げて作り上げた、本格カーレース映画の名作である。全編セミ・ドキュメンタリーのタッチで構成されており、本物の1970(昭和45)年ル・マン24時間レースの映像と、映画向けに撮影された映像とを巧みに編集したレースシーンを中心に、大イベントを迎えたサルト・サーキットの喧騒、走るレーサー達の緊張と孤独、トップチーム同士の駆引きに至るまで、臨場感たっぷりに表現しており、実際のモータースポーツのファンにも強く支持された作品である。一方で、人間ドラマの外連味(けれんみ、はったりを利かせたり、ごまかしたりするようなところ)をごく控えめにし、有名俳優も起用しなかったこと等が災いして、世界的に見れば、一般層にはアピールできず、商業的に大敗したスティーブ・マックイーンは、自身のプロダクションを解散せざるを得なくなった。但し、日本では大ヒットを記録し、多くの波及効果を後にもたらした。日本人のル・マン24時間レース参戦機運を掻き立てることにもなり、1973(昭和48)年には、実際に日本のチームが初めてレースに参戦した。テレビ朝日系列で1992(平成4)年月15日に放映された単発スペシャルのテレビドラマ、『ル・マンへ熱き涙を~日本初優勝への男と女の長く熱い24時間』は、1991(平成3)年6月23日、マツダが製作したプロトタイプレーシングカー「マツダ・787B」が『ル・マン24時間耐久レース』で日本の自動車メーカーとして初優勝、また、レシプロエンジン(ピストンの往復運動を、連結棒とクランクによって回転運動に変える方式のエンジン)以外を搭載した車としての初優勝を飾ったという、実話をベースにしたドラマであり、ロータリーエンジンの誕生から『ル・マン24時間耐久レース』への挑戦、最後の闘いでの優勝へ至るまでの、人々の苦闘・奮闘の歴史を描いている。ドラマには、マツダ他の全面協力により、実際のレース映像やレース車輌、往年のマツダの名車が次々登場した。