5月24日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4金曜日 旧暦  4月17日、友引(戊子)、月齢 16.0 
グレゴリオ暦で年始から145日目、年末まであと221日。
誕生花 ムラサキツメクサ・アカツメクサ(赤詰め草)・ヘリオトロープ。

ゴルフ場記念日。
1903(明治36)年5月24日、現在の兵庫県神戸市灘区六甲山町一ヶ谷に、日本初のゴルフ場『神戸ゴルフ倶楽部』がオープンした。『神戸ゴルフ倶楽部』は、兵庫県南東部、神戸市の市街地の西から北にかけて位置する六甲山の開発と景観保護に力を注ぎ、「六甲山開祖」と呼ばれたイギリス人貿易商、アーサー・ヘスケス・グルームによって六甲山上に造られた。当時、六甲山には外国人の別荘が建並んでいて、その外国人達のレジャーと社交の場としての利用が、造成の目的であった。そのため、外国人専用のもので当初、日本人は利用できなかった。1846(弘化3)年9月22日、イギリスの首都ロンドン郊外で生まれたアーサー・ヘスケス・グルームは、スコットランド出身の商人で、武器商人として幕末の日本で活躍したトーマス・ブレーク・グラバーと共に、貿易商社のグラバー商会を設立した兄のフランシス・グルームの勧めで、グラバー商会に勤務することになり、訪日する。長崎での勤務を経て、1868(慶応4)年4月、支店を開設するための出張員として、開場したばかりの神戸外国人居留地を訪れた。1870(明治3)年にグラバー商会は倒産し、アーサー・ヘスケス・グルームは、元同僚と共同出資して、神戸外国人居留地101番地にモーリヤン・ハイマン商会を設立する。日本茶の輸出、中国紅茶の輸入等を手掛けた。1883(明治16)年には横浜居留地へ移住し、生糸の輸出を行なったが、業績が思わしくなく、10年程で神戸へ引返し、居留地内播磨町34・35番地に商社を構え、茶の輸出を続けた。1897(明治30)年、神戸外国人居留地内にあったオリエンタルホテル(日本最古級の西洋式ホテル)を、イギリス人実業家で、機械・プラントメーカー、日立造船の創業者であり、造船業を中心に、産業育成を通じて日本の近代化に尽力した、エドワード・ハズレット・ハンターらと共同で買収し、社長に就任した。1908(明治41)年には、神戸外国人居留地6番地に、オリエンタルホテルの新館を建設する。ドイツ出身の建築家で、日本で設計事務所を開き、ドイツ人貿易商の住宅として建てられた西洋館(異人館)『神戸市風見鶏の館』を始めとする作品を残した、ゲオルグ・デ・ラランデの設計したこの新館は、「東洋一の洋館ホテル」と呼ばれ、高級ホテルとして繁盛した。しかし、同時期に起こった恐慌のあおりを受けて、オリエンタルホテルの経営状態は悪化する。1916(大正5)年には、ホテルの経営権を、一代で浅野財閥(浅野セメント[現在のセメント業界最大手の企業、太平洋セメントの前身企業の1つ]を中核企業として発展した財閥[一族の独占的出資による資本を中心に結合した経営形態])を築いた、日本人実業家の浅野総一郎に売却した。アーサー・ヘスケス・グルームは、六甲山の開発に力を注いだ。きっかけとなったのは、五男がろう者であったことを、趣味の狩猟で多くの動物を殺した報いと感じ、罪滅ぼしに狩猟を止め、動物が多く住んだ六甲山の自然を守ろうとしたことにあった、とされる。1895(明治28)年、アーサー・ヘスケス・グルームは、長男亀次郎の名義で、六甲山上の1万坪余りの土地を納涼遊園場敷地として借りた。アーサー・ヘスケス・グルームは、まず三国池付近の45坪程の土地に自分の別荘を建て、その後、別荘地を外国人に分譲した。アーサー・ヘスケス・グルームが建てた別荘は、六甲山上に建てられた最初の人家であり、「101番屋敷」「百壱」と呼ばれた。アーサー・ヘスケス・グルームはスポーツマンとして知られ、神戸外国人居留地内に発足したスポーツクラブ(神戸クリケットクラブ、神戸レガッタアンドアスレチッククラブ[KRAC])の設立に深く関与していた。アーサー・ヘスケス・グルームは、神戸レガッタアンドアスレチッククラブ(KRAC)に高齢のメンバーを勧誘するため、土地の安い六甲山にゴルフ場を建設することを思い立った。工事は1898(明治31)頃に開始され、1901(明治34)年に4ホールのコースが完成した。このコースを元に、1903(明治36)年、会員制のゴルフ場『神戸ゴルフ倶楽部』が発足した。アーサー・ヘスケス・グルームは、植林や桟道の整備開発に私財を投じ、六甲山が避暑地・リゾート地として繁栄する礎を築いた。明治時代末には、建てられた別荘は60戸、住人の外国人は100名以上を数え、別荘地一帯は「神戸外国人村」と呼ばれた。六甲山を開発した功績から、アーサー・ヘスケス・グルームは「六甲市長」と呼ばれた。六甲山を巡って、アーサー・ヘスケス・グルームには、幾つかの逸話が残されている。ある日、アーサー・ヘスケス・グルームは、猟師に追われ別荘の敷地へ逃げ込んできた狐を匿った。狐は付近に住み付くようになり、アーサー・ヘスケス・グルームの膝の上で眠る程に懐くようになった。狐は、アーサー・ヘスケス・グルーム以外には全く懐かず、アーサー・ヘスケス・グルームが死ぬと姿を見せなくなった。1919(大正8)年、アーサー・ヘスケス・グルームに匿われた狐が乗移ったという男が、現在の兵庫県神戸市中央区中山手通に住んでいた家族の許を訪れた。このできごとをきっかけに、家族は六甲山に祠を作って狐を祀ることにした。アーサー・ヘスケス・グルームが匿った狐の尾が白かったことから、祠は白髭神社と名付けられた。この祠は現在、六甲山ホテル(兵庫県神戸市灘区六甲山町南六甲に存在したホテルで、2017[平成29]年12月31日をもって、六甲山ホテルとしての営業を終了し、別経営での改修と、ホテル名を変更した営業が再開される予定となっている)の西にある。また、アーサー・ヘスケス・グルームがゴルフ場の建設工事を行なっていた頃、外国人の子供が、建設予定地の近くにあった地蔵にいたずらをして首を折った。アーサー・ヘスケス・グルームは、この地蔵に新しい首を付け、別荘内に安置すると共に、新しい地蔵を作って元の場所に置いた。この地蔵はグルーム地蔵と呼ばれ、後に近くから出た湧水は、味が良いと評判になった。この湧水は、アーサー・ヘスケス・グルームの末期の水に用いられた。1911(明治44)年、アーサー・ヘスケス・グルームの六甲山開発における功績を称えて、記念碑を建てる計画が持上がった。アーサー・ヘスケス・グルームは、「私は神様ではない。死んでからにしてくれ」と断ったが、計画は実行に移され、高さ3mの石碑「六甲山開祖之碑」が、後に記念碑台と呼ばれるようになる山上に設置された。この石碑は、第二次世界大戦対米英戦中の1942(昭和17)年に、「敵国人の顕彰碑」として軍部の手によって破壊されたが、終戦後の1955(昭和30)年に、「六甲山の碑」として再建されている。アーサー・ヘスケス・グルームの功績を称えて、毎年6月には、六甲山の山開きと共に「六甲山グルーム祭」が、兵庫県神戸市灘区六甲山町北六甲に所在する記念碑台で開催される。また、記念碑台には、アーサー・ヘスケス・グルームの胸像が建てられている。標高795.6mの地点にある記念碑台の展望は、六甲連山中で最も視界が広く、表裏両六甲を楽しめる。真冬でも売店は開いており、霧氷ハイキングでの手軽なオアシスとなっている。