5月22日 できごと その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1942年 - 第二次世界大戦: メキシコが連合国側で参戦。
1942年 - 日本軍を代表するエース・パイロットの1人とされる陸軍飛行第64戦隊長の加藤建夫中佐が、ビルマ(東南アジアのインドシナ半島西部に位置する現在のミャンマー)領のアキャブ基地に飛来したイギリス空軍のブリストル ブレニム双発軽爆撃機1機を、一式戦闘機「隼」5機で迎撃(インターセプト)する最中で戦死。インド洋の北東部分の湾、ベンガル湾に没す。南方作戦の功労者、かつ、相当の人格者として有名な存在であった加藤建夫中佐の戦死は、陸軍全体に衝撃を与え、加藤建夫中佐は戦死後、全軍布告、二階級特進し少将となる。加藤建夫は、第二次世界大戦対米英戦緒戦時、戦隊長として「加藤隼戦闘隊」こと陸軍飛行第64戦隊を率い、一式戦闘機「隼」をもって活躍した、帝国陸軍(陸軍航空部隊)のみならず、日本軍を代表するエース・パイロットの1人とされている。陸軍飛行第64戦隊と一式戦闘機「隼」は、各地の航空撃滅戦において連合軍を圧倒、加藤建夫自身も積極的に一式戦闘機「隼」に搭乗し、戦隊長として空中指揮・戦闘に活躍しており、第二次世界大戦対米英戦緒戦における日本軍の東南アジア、及び太平洋各地への攻略作戦、南方作戦の成功に大きく貢献している。また、加藤建夫の活躍と相まって、一式戦闘機「隼」は、第二次世界大戦対米英戦中の日本軍戦闘機の中でも、最も有名な戦闘機の1つとして知られることになる。陸軍航空部隊では、一般の単座戦闘機・一般の飛行部隊・一般の操縦者にも、夜戦のスキルが求められており(操縦者は夜間飛行をこなせてこそ一人前たる「技量甲」の認定を戴く)、第二次世界大戦対米英戦開戦前日の陸軍飛行第64戦隊による上陸部隊輸送船団夜間上空掩護、各地での爆装戦闘機(戦闘爆撃機)による夜間奇襲爆撃等、陸軍は数々の夜間任務を、全期間を通じて積極的に行なっている。一方で、日本海軍航空隊では、大半の単座戦闘機、及びその操縦員には夜戦の技量が無く、また、夜間任務そのものが例外的なものであり、原則的に、専用の複座、或いは、三座の夜間専用機・夜間飛行部隊が対処している。
1946年 - 吉田茂が第45代内閣総理大臣に就任し、第一次吉田茂内閣が発足する。1906年に外務省へ入省し、外交官として長く中国大陸で過ごした吉田茂は、第二次世界大戦対米英戦開戦後、重臣グループの連絡役として和平工作に従事している。第二次世界大戦後、連合国の占領下で、親英米派としての独自のパイプを用いて活躍した外交官・政治家の幣原喜重郎が組閣した幣原内閣で外務大臣となった吉田茂は、貴族院議員(帝国議会の上院、貴族院を構成していた議員で、政府の推薦に基づき、天皇が任命する終身議員でもある)にも勅選される。保守政党人や財界人らによって、第二次世界大戦後、保守政党の初名乗りを上げて結成された日本自由党の総裁、鳩山一郎の公職追放に伴なう後任総裁への就任を受諾し、吉田茂は内閣総理大臣に就任しており、大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の内閣総理大臣で、選挙を経ていない非衆議院議員(貴族院議員なので、国会議員ではあった)の内閣総理大臣も吉田茂が最後である。また、父が公選議員であった(吉田茂の実父は、土佐国土佐藩藩士から実業家・政治家となった竹内綱で、竹内綱と昵懇の関係にあった横浜有数の富豪、吉田健三の養子となっている)世襲政治家が、内閣総理大臣になったのも、吉田茂が初めてである。
1947年 - アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンが、トルーマン・ドクトリンを実施するための法律に署名。トルーマン・ドクトリンとは、アメリカ合衆国が「武装少数派、或いは外圧によって試みられた征服に抵抗している、自由な民族」を支援するとした共産主義封じ込め政策である。
1948年 - 東京で、ガールスカウト復活のための準備委員会が発足。
1958年 - 第28回衆議院議員総選挙。
1960年 - 1960年チリ地震。南アメリカ南部に位置するチリ中部のビオビオ州からアイセン州北部にかけての近海を震源域として、推定規模モーメントマグニチュード(Mw)9.5の超巨大地震が発生。この数値は、近代地震学の計器観測史上で世界最大であり、歴史地震を含めても最大級で、環太平洋全域に津波が襲来する。日本は、チリから見て地球の真裏近くにあり、津波が収斂し易い位置関係であったため、他の太平洋沿岸地域と比べ被害が大きく、最大で約6.1mの津波が三陸海岸(青森県南東部の八戸市から、岩手県沿岸を経て宮城県東部の石巻市までの、総延長600km余りの海岸)沿岸を中心に到達し、死者・行方不明者142名、負傷者855名、建物被害約46,000棟等の被災となる。東北地方太平洋側の他、北海道東南部や三重県南部等でも津波被害を受けている。気象庁は、この津波を「チリ地震津波」と命名する。
1962年 - コンチネンタル航空11便爆破事件。アメリカ合衆国国内の定期便としてアメリカ合衆国中西部、イリノイ州シカゴからアメリカ合衆国西部、カリフォルニア州ロサンゼルスへ向かっていたコンチネンタル航空(現在はユナイテッド航空と統合)11便ボーイング707型機が、機内に仕掛けられたダイナマイトの爆発で空中分解し、アメリカ合衆国中西部、ミズーリ州北部にあるユニオンビルに墜落。乗客・乗員計45名全員が犠牲となる。この事件は、歴史上初めて発生した、民間ジェット旅客機が破壊活動により墜落した事例となる。
1963年 - 東南ヨーロッパに位置するギリシャの民主左翼同盟党首グリゴリス・ランブラキスが、ギリシャ北部の都市、テッサロニキで行なわれた反戦集会での帰り道、サイドカーに乗った男に棍棒で頭部を殴打され負傷、5日後の5月27日に脳挫傷で死亡する。
1967年 - ベルギーの首都、ブリュッセルのイノバシオンデパートで火災が発生。死者322名を出す大惨事となる。
1968年 - 99名が乗務していたアメリカ海軍の原子力潜水艦『スコーピオン』が、演習からの帰途に消息を絶つ。後に、破壊された船体の一部が発見される。スキップジャック級攻撃型原子力潜水艦の3番艦『スコーピオン』は、アメリカ海軍の潜水艦の中で、平時に失われた数少ない艦の1隻であり、アメリカ海軍が喪失した2隻の原子力潜水艦の内の1隻ともなる。
1969年 - アメリカのアポロ計画(アメリカ航空宇宙局[NASA]による、地球の唯一の衛星である月への有人宇宙飛行計画で、人類が初めて、かつ現在のところ唯一、有人宇宙船により地球以外の天体に到達した事業である)における四度目の有人宇宙飛行『アポロ10号』が、月面から約15.6kmまで最接近。
1971年 - 滋賀県全域を放送対象地域としたテレビ放送事業を行なう「びわ湖放送」が設立される。
1972年 - 南アジアのインド亜大陸の南東に位置する島国、セイロンで新憲法が採択される。セイロンは共和制に移行し、国名をスリランカ共和国に改称する。
1973年 - 東京ゴミ戦争: 区内に最終処分場を持つ江東区が、反対運動により清掃工場の建設が進まない杉並区を地域エゴと断じて、杉並区からのごみ収集車を実力で追返す。東京ゴミ戦争とは、東京都における廃棄物(ごみ)の処理・処分に関する紛争(ゴミ問題)のことで、特に1950年代後半から1970年代にかけて、江東区と杉並区の間で起きたごみの処理・処分に関する紛争を指すことが多い。当時の美濃部亮吉東京都知事が「ごみ戦争宣言」を行なったことで、「ゴミ戦争」の名がクローズアップされ、これ以後、類似の事案について、「ごみ戦争」等と言われるようになる。
1978年 - 甘いマスクで人気があり、横綱昇進を期待されていた大関、若三杉壽人が第56代横綱に昇進。横綱昇進を機に、若乃花幹士と改名する。
1980年 - ゲームソフトメーカー、ナムコ(現:バンダイナムコゲームス)がアーケードゲーム『パックマン』を発表。『パックマン』は、世界で知られた日本産のコンピュータゲームの1つで、当時ナムコとの関係が一時的に密接となったアメリカのゲーム会社、バリー・ミッドウェイ(後のミッドウェイゲームズ)よりアメリカで発売されると、その知名度から「80年代のミッキーマウス」と称される。