5月22日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

-334年 - アレクサンドロス3世(通称はアレクサンドロス大王で、歴史上において、最も成功した軍事指揮官と広く考えられている)のマケドニア王国(東南ヨーロッパに位置する、現在のギリシャやマケドニア等を領土とした王国)軍が、グラニコス川の戦いでアケメネス朝ペルシャ(西アジア・中東に位置する、現在のイランを中心とした地域に存在した王朝)軍を破る。
0229年 - 中国呉朝の孫権が皇帝に即位。三国鼎立(魏[現在の中国北部に所在]、蜀[現在の中国南西部に所在]、呉[現在の中国南東部に所在]が成立し、中国国内に3名の皇帝が同時に立った状態)が成立する。
1333年 - 相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)で行なわれた東勝寺合戦で、上野国(現在の群馬県)の御家人(鎌倉幕府の棟梁、鎌倉殿と主従関係を結び従者となった武士)新田義貞らに敗れた、鎌倉幕府の得宗(家督相続予定者)北条高時ら北条一族が自決し、鎌倉幕府が滅亡する。
1455年 - 薔薇戦争: 第1次セント・オールバーンズの戦い。
1763年 - 景勝地として知られる耶馬渓に、曹洞宗の僧である禅海が、約30年以上かけて手堀りした青の洞門が開通する。青の洞門は、現在の大分県中津市本耶馬渓町樋田にある洞門(隧道、トンネル)である。全長は約342mで、その内のトンネル部分は約144m。大分県の史跡に指定されると共に、耶馬日田英彦山国定公園の域内にも含まれる。晩秋の紅葉時期は、特に観光客が多い。越後国高田藩藩士の家に生まれた福原市九郎は、両親が亡くなったことから世の無常を感じて出家し、諸国を行脚、1715年に得度(僧侶となるための出家の儀式で、剃髪し、戒を守ることを誓約する)して禅海と称する。回国の途中、豊後国羅漢寺(現在の大分県中津市本耶馬渓町にある曹洞宗の寺院)を参詣した時、川沿いの断崖にかけられた桟橋、青野渡が危険で、人馬のしばしば覆没することを知り、これを哀れみ、鑿道の誓願を発し、陸道の掘削を思い付く。1730年頃、豊前国中津藩藩主の許可を得て、托鉢勧進(仏教僧が経文を称えながら鉢を持って人家を回り、浄財の寄付を求めること)によって掘削の資金を集め、石工達を雇い、ノミと槌だけで掘削を開始し、その後、周辺の村民や九州諸藩の領主の援助を得て、30年余りの歳月をかけて青の洞門を完成させている。開通後、通行人から通行料を徴収したという話が伝わっており、青の洞門は、日本最古の有料道路とも言われている。1854年から1856年にかけて制作された、歌川広重(風景を描いた木版画で大人気の画家となり、印象派[19世紀後半のフランスの首都パリを中心に流行した芸術運動で、当時のパリでは、伝統的な古典を意識したアカデミー様式の絵画が絶大な権力を持っており、このアカデミーに対抗し、新たな絵画の様式を確立しようとする運動、グループが印象派と呼ばれる]を代表するフランスの画家クロード・モネや、オランダのポスト印象派(印象派の傾向を受け、それを出発点としながらも、批判的に継承しつつ、厳密な形態の復活、原始的な題材や激しい色彩の導入等の独自の特徴を生み出し、20世紀美術のさきがけとなった)の画家フィンセント・ファン・ゴッホ等の西洋の画家にも影響を与えた)による、日本全国の名所を描いた浮世絵木版画の連作『六十余州名所図会』には、「豊前 羅漢寺 下道」と題し、青の洞門が、豊前国(現在の福岡県東部と大分県北西部)の名所として描かれている。1906年から翌1907年にかけて、陸軍日出生台演習場(陸軍が、仮想敵地戦場である満州[現在の中国東北部に所在]に似ているという環境から、森林が失われ、土壌のやせた農業には適さない草原であった地域を接収し、演習場としており、現在は、大分県玖珠郡玖珠町、玖珠郡九重町、由布市、宇佐市に跨る陸上自衛隊の演習場、日出生台演習場となっており、西日本最大の演習場でもある)への輸送路整備のために大改修が行なわれ、車両が通過できるよう拡幅される。この工事の結果、完成当初の原型はかなり失われたが、明かり採り窓等の一部に、手掘りのノミの跡が残っている。
1868年)- 駐日英公使ハリー・パークスが、第122代天皇、明治天皇に、ハノーヴァー朝グレートブリテン=アイルランド連合王国第4代女王ヴィクトリアの信任状を提出。明治政府が初めて、外国から承認される。
1871年 - 「戸籍法(明治4年4月4日太政官布第170号)」公布。第二次世界大戦後の「民法(明治29年4月27日法律第89号)」改正による家制度(親族関係を有する者の内、更に狭い範囲の者を、戸主と家族として1つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度)廃止に伴ない、従来のものは全面改正され、現行の「戸籍法(昭和22年12月22日法律第224号)」が1947年に制定される。「戸籍法」は、各人の身分関係を明らかにするための戸籍の作成・手続等を定める法律である。第二次世界大戦前の戸籍は、家を基本単位としていたが、全面改正後は、夫婦を基本単位とする戸籍に変更され、「戸主」を廃止して「筆頭者」を加えている。「華族」(近代日本の貴族階級)「士族」(旧武士階級[藩士兵卒]の内、一門から平士までの身分)「平民」(官位や爵位を持たない普通[一般]の市民)「新平民」(江戸時代における被差別民に対する蔑称)等の身分事項の記載は廃止される。戦争による混乱のため、実際に戸籍簿が改製されるのは、1957年から1965年頃となっている。1952年、「住民登録法(昭和26年6月8日法律第218号)」の施行により、住民登録制度が開始され、住民票(市町村と特別区で作成される、住民に関する記録)の作成が開始される。1967年には、「住民登録法」に代わって、「住民基本台帳法(昭和42年7月25日法律第81号)」が制定され、市町村長、又は特別区区長が、住民全体の住民票(個人を単位として作成)を世帯毎に編成し作成する公簿、住民基本台帳の制度が定められる。住民基本台帳(住民票)は、住所を公に証明することを目的とした制度であるため、住民基本台帳の写しの閲覧が認められている。なお、閲覧が認められているのは、一部の項目(氏名・生年月日・性別・住所の4項目)のみである。かつては、住民基本台帳閲覧については、法令上の制限が厳格に定められていなかったが、プライバシーの観点から、自治体の職権で閲覧を制限する自治体もあり、条例により制限している自治体もあったことから、2006年に「住民基本台帳法」が改正され、住民基本台帳の写しの閲覧は、公益性のある統計調査・世論調査・学術研究、公共的団体が行なう地域住民の福祉の向上に寄与する活動、官公署が職務上行なう時のみに許可されることとなる。住民基本台帳は現在、「台帳」と銘打っているが、全自治体で電算化されている。但し、システム故障時のためのバックアップ用や、閲覧用(住所・氏名・性別・生年月日のみ記載)としては、紙ベースの台帳が整備されている。 
1874年 - 台湾出兵: 陸軍中将西郷従道指揮の台湾征討軍が、台湾の制圧を開始する。
1903年 - 第一高等学校(現在の東京大学教養学部及び、千葉大学医学部、同薬学部の前身)の生徒であった藤村操が華厳の滝(栃木県日光市にある落差約97mの滝)で自殺。厭世観(人生、或いは、社会は善よりも悪が多く、不幸に満ちているとする態度、世界観)によるエリート学生の死は、「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追うものが続出する。
1906年 - アメリカの自転車屋であったライト兄弟(ライト家の三男ウィルバー・ライトとライト家の四男オーヴィル・ライト)が「飛行機械」(飛行機)の特許を取得。
1915年 - アメリカ合衆国西部、カリフォルニア州北部にあるラッセン山(標高3,187m)が噴火。噴火は1921年まで続き、現在も熱水泉や蒸気の噴出が見られる。
1931年 - 劇団『前進座』が結成される。『前進座』は歌舞伎劇団ではあるが、歌舞伎・時代劇・現代劇・児童劇と多彩なレパートリーで、創設直後から「演劇のデパート」という異名を付けられている。旗揚げ時から女優陣が多く所属するという異色の編成で、配役の一部を女性が演ずる歌舞伎を出すことも多い。全国津々浦々を巡回公演しており、日本の外れでも、地元草の根の観劇団体(演劇鑑賞会・市民劇場等)の招聘に応じて、第一線俳優が出向いて大劇場と同じ芝居をする。給与制を取っており、興行収入によって、座員の生活を保障することが、創立以来の理念である。
1939年 - ドイツとイタリアが、ドイツ・イタリア間の友情と同盟に関する協約(鋼鉄協約、独伊軍事同盟)に調印。