5月19日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第3日曜日 旧暦  4月12日、先負(癸未)、月齢 11.0  
グレゴリオ暦で年始から140日目、年末まであと226日。
誕生花 サツキ(皐月)・自生ラン。

ボクシング記念日(ボクシング世界チャンピオン誕生記念日)。
東京都文京区後楽に所在する、プロボクシングに関連した任意団体で、全国の一般財団法人日本ボクシングコミッション(JBC)クラブオーナーライセンス保持者経営のボクシングジムによる団体、日本プロボクシング協会(JPBA)が、2010(平成22)年5月14日に制定。1952(昭和27)年5月19日、ボクシング世界フライ級タイトルマッチで、挑戦者の白井義男が判定勝ちし、日本人初のチャンピオンになった。その日、東京都文京区後楽にある後楽園球場(1987[昭和62]年に閉鎖)の特設リングに立った白井義男は、チャンピオンのアメリカ人選手ダド・マリノを判定で下し、世界フライ級16代目の王座に就いた。白井義男は以後、4度の防衛を果たし、第二次世界大戦対米英戦敗戦で自信を無くした日本人にとって、白井義男の王者獲得と、その後の防衛での活躍は「希望の光」となった。1954(昭和29)年11月26日、パスカル・ペレス(世界フライ級王座を9度防衛したアルゼンチンの国民的英雄で、全盛期の強さは圧倒的であり、現在においても、フライ級史上最強に推す専門家も多い)に15回判定負けし、白井義男は王座から陥落した。翌1955(昭和30)年5月30日には、世界王座再挑戦で、パスカル・ペレスとのリターンマッチが開催された。5回KOで敗れ、白井義男は現役引退となったが、この試合のテレビ中継は最高視聴率96.1%を記録し、テレビ放送視聴率の中で最高となっている。また、ボクシング記念日制定と同時に、日本プロボクシング協会(JPBA)は、プロ野球での名球会に相当する「プロボクシング世界チャンピオン会」を結成した。毎年この日には、「ファン感謝イベント」が開催される。ボクシングの日の第1回イベントでは、東京都文京区後楽にある多目的ホール『後楽園ホール』に、現役を含めた歴代世界王者38名が集まり、「プロボクシング世界チャンピオン会」発足式、新旧世界王者によるトークショーやキッズボクシング教室、慈善オークションを実施し、新人王予選や半世紀振りに日本で復活したヘビー級公式試合(4回戦)、女子のエキシビションマッチを開催した。2011(平成23)年のボクシングの日には、現役・引退を含めて45名の世界王者が集結し、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)からの復興支援として、会場での募金活動、サイン色紙やグローブ等のオークション、グッズ販売を通しての義援金集めといった慈善イベントを行なった。日本でプロボクシング競技を統轄する機関、一般財団法人日本ボクシングコミッション(JBC)が認定する、最も古い世界ボクシング機構である世界ボクシング協会(WBA)と、最もそのチャンピオンベルトに権威があるとされるプロボクシング世界王座認定団体、世界ボクシング評議会(WBC)の王座獲得者は、2010(平成22)年2月まで66名(男子62名・女子4名)誕生しているが、その内、渡辺二郎(日本ボクシングコミッション[JBC]より無期限ライセンス停止中)を除く65名が参加の資格が得られ、物故者や帰国した外国人等を除いた58名が発足に参加した。ボクシングは、拳にグローブを着用しパンチのみを使い、相手の上半身前面と側面のみを攻撃対象とする格闘スポーツで、拳闘とも称される。ボクシングにおけるタイトル(選手権)とは、強さを示す肩書きである。プロ・アマ関係なく、基本的にボクサーは、これを獲得するために試合に臨む。但し、既に十分な地位や名誉を得たプロボクサーの中には、自身のプライドや金銭的な理由から、保持するタイトルを返上してでも、他の強豪選手との試合を優先させる者もいる。日本のボクシング史の本格的な始まりは、日本初の本格的ボクシングジムを創設し、ピストン堀口、荻野貞行、岡本不二等、幾多の名選手を育てて、日本における「ボクシングの父」と呼ばれるプロボクサー、渡辺勇次郎が「日本拳闘倶楽部」を開設した1921(大正10)年とされている。しかし、この競技が最初に日本に伝わったのは、イギリスでクインズベリー・ルール(ボクシングの競技にグローブ着用等を義務付けた、現在のボクシングの基礎となるルール)が制定される以前の1854(嘉永7)年であった。江戸時代に艦隊を率いて鎖国をしていた日本へ来航し、開国への交渉を要求したことで知られるアメリカ海軍軍人、マシュー・ペリーの2度目の日本来航を記録した1856(安政3)年の『ペリー日本遠征記』に、1854(嘉永7)年に横浜で行なわれた、マシュー・ペリー艦隊の水兵であるアメリカ人ボクサー1名、レスラー2名と、相撲の大関である小柳常吉による、3対1の他流試合の様子が記述されている。これが、日本におけるボクシングに関する最古の記録とされている。小柳常吉は、マシュー・ペリー艦隊一行に相撲を見せることとなり、横浜で土俵入りや稽古相撲を見せた。また、デモンストレーションとして五斗俵を差上げて歩いてみせた。小柳常吉は、力自慢のアメリカの水兵を3名同時に相手にし、1名を差上げ、1名を小脇に抱え、1名を脚下に踏付け、彼等の肝を奪ったという。大正期に流行したアメリカ映画や新聞記事等でボクシングが紹介されており、一般庶民にも、西洋にはボクシングというスポーツがある、という認識が広まっていった。1928(昭和3)年のアムステルダムオリンピック(第9回オリンピック競技大会)には、ウェルター級の臼田金太郎とバンタム級の岡本不二が出場した。1933(昭和8)年頃には、日本のボクシングブームは絶頂期を迎え、当時のスター選手の月収は1,000円以上(教員の初任給が15円、米10キロ1円20銭、ざるそば4銭等の時代)となった。しかし、第二次世界大戦によって、プロデビューしたばかりの白井義男を含む多くの日本人ボクサーが出征。ボクシングの興行も中止されるようになった。第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の生物化学者アルビン・R・カーンのマネジメントや援助を受けて、アメリカ式トレーニングを積んだ白井義男は、後楽園球場で約45,000名の観衆を前にダド・マリノを下し、日本初の世界王者となった。昭和30年代初め、東京での試合は、第二次世界大戦戦前から焼け残った浅草公会堂、下谷公会堂、王子デパート特設リング等で行なわれていた。粗末なリングは軋んで揺れ、場内には煙草の煙が立込めていた。日本は、国際ボクシングビジネスの実績がなく、日本銀行には、他国の世界王者に支払える十分な外貨の蓄積がなかった。それでも1960(昭和35)年には、ローマオリンピック(第17回オリンピック競技大会)のフライ級で田辺清が銅メダルを獲得し、日本ボクシング初のオリンピックメダリストとなった。そして、1960年代前半、日本にはかつてないボクシング・ブームが起こり、週に10本以上のプロボクシング中継があった。1964(昭和39)年、桜井孝雄が東京オリンピック(第18回オリンピック競技大会)のボクシング競技で、日本初となる金メダルをバンタム級で獲得。この頃には、日本は世界有数のボクシング市場となっていた。1976(昭和51)年、具志堅用高がWBA世界ライトフライ級の世界王者となった。具志堅用高はその後、13度の防衛に成功しているが、世界王座防衛13度は、日本人男子世界王者の最多記録である。