5月14日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第2火曜日 旧暦  4月 7日、仏滅(戊寅)、月齢  6.0 
グレゴリオ暦で年始から135日目、年末まであと231日。
誕生花 シャクヤク(芍薬)・オダマキ(紫)。

種痘の日/種痘記念日。
1796(寛政8)年5月14日、イギリスの外科医で、後に医学者となったエドワード・ジェンナーが、8才の少年ジェームス・フィップスの腕に、乳しぼりの女性サラ・ネルメスの手にできた牛痘病変から採った材料を接種した。これが、種痘(ワクチン接種による天然痘の予防)の最初である。10日後にジェームス・フィップスは発症したが、すぐに治癒し、その後、天然痘を接種しても感染はせず、実験の成功を裏付けた。この実験は、1798(寛政10)年に論文として発表されたが、反論者が多く、学会では認められなかった。しかし、エドワード・ジェンナーは、貧しい人達に無料で種痘の接種を行ない、次第に認められるようになった。天然痘は、天然痘ウイルスを病原体とする感染症の1つである。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残すことから、世界中で不治の病、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症であるが、世界で初めて撲滅に成功した感染症でもある。その大きな感染力、高い致死率(諸説あるが40%前後とみられる)のため、時に国や民族が滅ぶ遠因となったことすらある。日本でも、何度も大流行を重ねて江戸時代には定着し、誰もが罹る病気となった。天皇さえも例外ではなく、第113代天皇、東山天皇は、天然痘によって崩御している他、第121代天皇、孝明天皇の死因も天然痘との記録が残る。第122代天皇である明治天皇も、幼少時に天然痘に罹っている。天然痘が強い免疫性を持つことは、近代医学の成立以前から経験的に知られていた。いつ始まったのかは分からないが、西アジア・インド・中国等では、天然痘患者の膿を健康人に接種し、軽度の発症を起こさせて、免疫を得る方法が行なわれていた。この人痘法は、18世紀前半にイギリス、次いでアメリカにももたらされ、天然痘の予防に大いに役立った。しかし、軽度とはいえ、実際に天然痘に感染させるため、時には治らずに命を落とす例もあった。統計では、予防接種を受けた者の内、2%程が死亡しており、安全性に問題があった。18世紀半ば以降、ウシの病気である牛痘(人間も罹患するが、瘢痕も残らず軽度で済む)に罹った者は天然痘に罹患しないことが分かってきた。その事実に注目し、研究したエドワード・ジェンナーが天然痘ワクチンを開発し、それ以降は急速に流行が消失していった。なお、エドワード・ジェンナーが「我が子に接種」して効果を実証したとする逸話があるが、実際には、エドワード・ジェンナーの使用人の子、ジェームス・フィップスに接種している。日本の医学会では有名な話として、日本人医師による種痘成功の記録がある。現在の福岡県にあった筑前国福岡藩(筑前藩、黒田藩)の支藩、筑前国秋月藩の藩医である緒方春朔が、エドワード・ジェンナーの牛痘法成功に遡ること6年前の1792(寛政4)年に、秋月(現在の朝倉市秋月野鳥)の大庄屋である天野甚左衛門の子ども達に対して人痘種痘法を施し、成功させている。これは、天然痘の瘡蓋(かさぶた)の粉末を接種する方法を、緒方春朔自身によって改良を加えたものであった。福岡県の甘木朝倉医師会病院には、その功績を讃え、緒方春朔と天野甚左衛門、そして子ども達が描かれた種痘シーンの石碑が置かれている。1849(嘉永2)年には、肥前国佐賀藩の医師・楢林宗健と長崎のオランダ人医師オットー・モーニッケが種痘を実施し、日本全国に種痘が普及し始める。そして、1909(明治42)年の「種痘法(明治42年4月14日法律35号)」によって国民に定着した。「種痘法」の規定内容は、定期種痘、及び臨時種痘の実施、市町村の定期種痘の実施義務、種痘を受けるべき者の保護者の義務、医師の種痘証、痘瘡経過証、違反者に対する罰則である。日本国内における発生は、1955(昭和30)年の患者を最後に確認されていない。天然痘の撲滅が確認された1976(昭和51)年以降、日本では基本的に接種は行なわれていない。そして現在、自然界において天然痘ウイルス自体が存在しないとされていて、世界保健機関(WHO)は、1980(昭和55)年5月8日に根絶宣言を行なった。天然痘は、今のところ、人類が根絶した、人間に感染する感染症の唯一の例である。種痘は、天然痘の撲滅に貢献した。しかし、種痘後に、脳実質(脳そのもののこと)の炎症、脳炎を起こす事例が頻発し、「種痘後脳炎」と呼ばれるようになった。1940年代後半には、医師の間では広く知られるようになっており、その被害規模は無視できない数にのぼり、1947(昭和22)年と1948(昭和23)年の強力痘苗だけに限定しても、犠牲者はおよそ600名と推計されており、天然痘のこの2年間の患者数、405名を超えてしまい、医療行為が原因で生ずる疾患、医原病となった。さらに、犠牲者の殆どは乳幼児であり、子どもを失ったり、脳の正常な機能は失われてしまい、障害者となってしまった子どもを抱えた被害者は、接種を強制した日本の行政から、何ら援助も保障も提供されなかった。この、「種痘禍」は、報道機関でも取上げられる等して、その実態が国民に広く知られるようになった。1972(昭和47)年の夏頃に、種痘接種は全国的に中止され、同時に個別接種方式の導入と接種年齢見直しが図られた。天然痘が撲滅されたことから、現在では、種痘接種は一般には行なわれていないが、生物兵器(細菌やウイルス、或いは、それらが作り出す毒素等を使用し、人や動物に対して使われる兵器)の対策として、現在も軍隊で、主に海外派遣される隊員に対しては、集団接種が行なわれることがある。自衛隊の場合は、アメリカを始めとする有志連合軍が、中東・西アジアに位置するイラクへ武力行使をすることで始まった戦争、イラク戦争時の2003(平成15)年から2005(平成17)年にかけて、イラクへ派遣される自衛隊員に対して、集団接種が行なわれた。天然痘が根絶されたため、根絶後に予防接種を受けた人はおらず、また、予防接種を受けた人でも、免疫の持続期間が一般的に5年から10年程度と言われ、現在では、免疫を持っている人は殆どいない。そのため、生物兵器として使用された場合に、大きな被害を出す危険が指摘されており、感染力の強さからも、短時間での感染の拡大が懸念されている。天然痘撲滅宣言後にも、ソビエト連邦は天然痘ウイルスを生物兵器として極秘に量産、備蓄しており、ソビエト連邦崩壊後にウイルス株や生物兵器技術が流出した可能性が指摘されている。2015(平成27)年、世界保健機関(WHO)専門家会議は、天然痘ウイルスの人工合成が技術的に可能になったと結論し、天然痘が再び発生するリスクがなくなることはないと報告している。2018(平成30)年には、アメリカ合衆国保健福祉省(HHS)配下の政府機関で、連邦食品・医薬品・化粧品法を根拠とし、医療品規制、食の安全を責務とするアメリカ食品医薬品局(FDA)が、初の天然痘治療薬を認可した。アメリカ食品医薬品局(FDA)は、動物実験で有効性が証明され、健康な人に服用してもらう試験で安全性が確認されため、テロから国民を守るために認可したと説明している。