5月12日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

海上保安の日(続き)。
活動範囲は、領海(基線[領海等の幅を測定するための起算点]から最大12海里[約22.2km]までの範囲で、国家が設定した帯状の水域で、沿岸国の主権が及ぶ水域)、接続水域(領海の外縁にあり、基線から24海里[約44.4km]の範囲で沿岸国が設定する水域)、排他的経済水域(EEZ、沿岸から200海里[約370km]までの範囲で、沿岸国に鉱物資源や水産資源の開発といった経済的な権利が及ぶ海域)、日米SAR協定(「海上における捜索及び救助に関する国際条約[SAR条約]」の勧告に基づき、関係締結国や隣接国と結ぶ捜索救助に関する協定)に基づく捜索救助区域(本土より南東1,200海里[約2,220km]程度)である。この内、領海と接続水域、排他的経済水域(EEZ)を合わせた面積だけでも約447万平方kmあり、領土(約38万平方km)の約11.8倍に相当する。これに日米SAR協定分担域を合わせると、国土面積の約36倍という広大な水域を担当していることになる。海上保安庁は、2016(平成28)年1月1日現在では、巡視船(海上保安庁が所有する大型船舶)127隻、巡視艇(海上保安庁が所有する、基地周辺海域における任務に従事する小型のもの)238隻、特殊警備救難艇63隻、測量船13隻、灯台見回り船10隻、教育業務用船3隻、合計454隻の船艇、固定翼機26機、回転翼機48機、合計74機の航空機を保有している。2012(平成24)年、それまで私有地であった東シナ海の南西部にある島嶼群、尖閣諸島の内の3島(魚釣島、北小島、南小島)が、日本政府に20億5,000万円で購入され国有化された「尖閣諸島国有化」を受け、9月14日には過去最多となる中国の公船6隻が、同時に尖閣諸島の領海を侵犯する。さらに、日中のメディアにより、9月16日以降に中国の漁業監視船「漁政」が、漁船1,000隻を引連れて尖閣海域で漁をすると報じられたことから、海上保安庁は、創設以来最大規模となる巡視船(海上保安庁が所有する大型船舶)50隻体制で尖閣諸島を警備した。捜索救難任務で、海上保安庁の巡視船や航空機だけでは対処困難な場合は、各管区海上保安本部から、海上自衛隊や航空自衛隊に災害派遣の要請が出される。災害派遣の要請を受けた海上自衛隊では、護衛艦、哨戒機、救難飛行隊等を派出して、海上保安庁の活動に協力する態勢が敷かれる。同様に航空自衛隊の場合は、主に航空救難団の救難隊が1958(昭和33)年より、数多くの捜索救難等の活動で海上保安庁に協力している。1999(平成11)年に能登半島沖不審船事件(石川県能登半島沖で、漁船に偽装した北朝鮮[朝鮮民主主義人民共和国]船と推定される不審船2隻が発見された事件)が発生し、事態が海上保安庁の能力を超えているとして、海上自衛隊に初の海上警備行動(防衛大臣が、海上における人命、若しくは財産の保護、又は治安の維持のため、特別の必要があると判断した場合に命ぜられる、自衛隊の部隊による海上における必要な行動)が発動された。この時の反省を受けて、事件後に海上保安庁と海上自衛隊との間で、不審船対策についての「共同対処マニュアル」が策定され、第二次世界大戦中の旧海軍内での立場等から、長らく続いてきた両者間の疎遠な関係を改善する切っ掛けとなり、情報連絡体制の強化や、両機関合同の訓練が行なわれるようになった。第二次世界大戦前、日本周辺海域における法秩序の維持については、旧日本海軍が実働部隊となってきた。しかし、1945(昭和20)年8月14日、日本が連合国に対し、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13ヶ条から成るポツダム宣言(正式には「日本への降伏要求の最終宣言」で、宣言を発した各国の名から、「米英支三国共同宣言」とも称される)の受諾を決定し、日本が降伏したことに伴なって、日本は非軍事化され、旧日本海軍も掃海部隊を除いて解体された。これによって洋上治安維持能力は大きく損なわれ、海賊すら出現する状況に至っていた。これに対し、政府は日本側の手による洋上治安維持組織の創設を模索したが、ポツダム宣言を執行するために、日本で占領政策を実施した連合国軍機関、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は当初、日本の海運・造船・水産活動を厳しく制限する占領政策を採用し、日本海軍の復活への警戒感が根強かったこともあり、日本政府の出した案は、いずれも進展しなかった。しかし、1946(昭和21)年初夏頃から、朝鮮半島からの輸入感染症として、コレラ(急性の激しい下痢を伴なう腸管感染症)が九州に上陸し、猛威を振るい始めた。その流入ルートとして、不法入国や密貿易等が疑われたことから、同1946(昭和21)年6月12日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は日本政府に対し。不法入国取締まりの権限を付与する旨の覚書を通達した。これを受け、7月1日、運輸省(現在の国土交通省の前身の1つ)海運総局に不法入国船舶監視本部、その実働機関として、九州海運局に不法入国船舶監視部が設置された。しかし、この時点で、不法入国船舶監視部の保有船舶はタグボート3隻と港務艇13隻のみで、武装は一切なく、要員も運輸省職員で、取締業務の経験者は1人もいなかった。この時期、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)側も日本の沿岸・港湾警備に課題があることを認識し、アメリカ沿岸警備隊(USCG)よりフランク・E・ミールス大佐を招聘して、課題の洗い出しと対策の策定を求めていた。フランク・E・ミールス大佐は、アメリカ沿岸警備隊(USCG)をモデルとした、海上治安の一元的な管理機関の設置を提言した。これを受けて、関係各省の間の所轄争いを経て、1948(昭和23)年、連合国軍占領下の日本において、洋上警備・救難、及び、交通の維持を担当する文民組織として、当時の運輸省外局として海上保安庁が設立されることとなった。5月1日、運輸省の外局として、海上保安庁が設置され、全国9ヶ所に管区海上保安本部(本部の名称には設置場所の地名を冠称し、各管区の担当区域は、概ね、当該都道府県の区域[陸地]、沿岸水域、及び、その沖合い水域を担当する)が置かれる。5月12日には、東京都千代田区霞が関に所在した、旧海軍省庁舎で業務を開始しており、この5月12日が、海上保安庁の開庁記念日となる。1952(昭和27)年には、第3次吉田内閣の下、より軍事組織に近い海上警備隊(沿岸警備隊)が海上保安庁附属機関として組織されたが、これは間もなく警備隊として分離され、後の海上自衛隊となった。保安庁(後の防衛庁、2007[平成19]年以降は防衛省)創設に際して、治安組織の一元化の見地から、海上保安庁も海上公安局に改組されて、保安庁の下に置かれることになっていた(「保安庁法[昭和27年7月31日法律第265号]」、及び「海上公安局法[昭和27年7月31日法律第267号]」)。ところが、海上保安庁側の猛反発により、結局は「保安庁法」の海上公安局に関する規定、及び「海上公安局法」は施行されないまま廃止され、それに代わる「防衛庁設置法(昭和29年6月9日法律第164号)」や「自衛隊法(昭和29年6月9日法律第165号)」が制定された。そのため、海上保安庁は改組による消滅を免れ、現在に至るまで、その状況が存続している。新設された海上保安庁への旧日本海軍幹部の入庁は、海軍幹部が公職から追放されていたため、航路啓開(掃海)部門等を除いて基本的になかった。代わって、警察機構を有していた旧内務省(現在の総務省、国家公安委員会、警察庁、国土交通省、厚生労働省等の前身)出身者、警察官や海事の専門家として、東京・神戸の高等商船学校(船舶運用等海事分野を専攻とする官立[国立]の実業高等教育機関)出身者が多く入庁した。特に、保安官については、トップの三田一也(元海軍中佐で、海上護衛戦の作戦を立案する立場にあった)警備救難監(海上保安官の最高位)以下、高等商船学校出身者が幹部を占めた。高等商船学校出身者は、海軍予備員として第二次世界大戦中応召し、士官として海軍に属していたが、海軍兵学校(海軍の兵科将校を養成する機関)出身の現役将校等に比べて、激戦地において過酷な輸送任務を強いられたため、多大な戦死者を出していた。そのため、高等商船学校出身の海軍予備士官と、海軍兵学校出身の兵科現役士官の派閥は、極めて険悪な状態が長らく続いていたとされる。なお、海軍出身の者は、その殆どが海上警備隊(後の海上自衛隊)の創設と共に、海上警備隊に移っている。