5月11日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

大津事件記念日(続き)。
この事件で津田三蔵を取押さえるという功績を挙げた人力車夫(人力車を引いて人を運ぶことを仕事にする人)、向畑治三郎と北賀市市太郎は、事件後の5月18日夜、ロシア軍艦に招待された。この際、ニコライ皇太子の要望により、正装ではなく、敢えて人力車夫の服装のままで来るように要請された。そこで、向畑治三郎と北賀市市太郎は、ロシア軍水兵からの大歓迎を受けた。ニコライ皇太子から直接聖アンナ勲章(帝政ロシア時代の勲章)を授与され、当時の金額で2,500円(現代の貨幣価値換算で約1,000万円前後)の報奨金と1,000円(現代の貨幣価値換算で約400万円前後)の終身年金が与えられた。日本政府からも、勲八等白色桐葉章と年金36円(現代の貨幣価値換算で約15万円前後)が与えられた。当時、低い身分の職と見做されていた人力車夫が勲章を与えられることは極めて異例であり、その後も2人は国内で「帯勲車夫」と呼ばれ、一躍英雄として脚光を浴びることとなった。その後、北賀市市太郎は、堅実に郷里の石川県で田畑を購入し地主となり、勉学を重ねて、郡会議員にまでなった。しかし、1904(明治37)年に勃発した、大日本帝国とロシア帝国との間で、朝鮮半島とロシア主権下の満洲(現在の中国東北部に所在)南部、及び日本海を主戦場として発生した戦争、日露戦争が始まると、露探(「ロシアのスパイ」の意)扱いをされ、特に、戦死者の遺族から糾弾を受けた。北賀市市太郎は家の表門に飾っていた勲章を取外し、無実を証明するとして軍隊に志願した(但し、受理はされなかった)。なお、現在は知名度は高くはないものの、郷里の英雄とされ、北賀市市太郎の郷里には、「北賀市市太郎生誕の地」の碑が立てられている。一方、いきなり手にした大金に、前科のあった向畑治三郎は放蕩者となり、勲章を没収された。さらに、日露戦争中には年金が停止される(ロシアは年金支給を続けたが、仲介する日本が停止した)。後にロシア帝国が消滅し、年金は完全に途絶えて貧窮したものの、向畑治三郎は昭和期まで生きている。1894(明治27)年11月、ロシア帝国皇帝アレクサンドル3世は崩御し、アレクサンドル3世の長男であるニコライ皇太子は、ニコライ2世として、26歳でロシア帝国皇帝に即位することとなった。1896(明治29)年には、ニコライ2世の戴冠式(皇帝が即位の後、公式に帝冠を聖職者等から受け、帝位への就任を宣明する儀式)が行なわれ、日本からは、第122代天皇、明治天皇の名代として、皇族で陸軍軍人の伏見宮貞愛親王(当時陸軍少将)、特命全権大使として、第3代内閣総理大臣も務め、元老(天皇の輔弼[大日本帝国憲法下において、国法上天皇に属するとされた権能である天皇大権]の施行に過誤がないよう意見を進言すること]を行ない、内閣総理大臣の奏薦等、国家の重要事項に関与した重臣)となっていた山縣有朋が出席している。即位後のニコライ2世は、ヨーロッパにおいては友好政策を採ったが、日本に対しては、ドイツとフランスと共に、日清講和条約(下関条約)で日本領有となった遼東半島(中国東北部[満洲]に位置する中国第二の大きさの半島)の中国清朝(清国)への返還を勧告する三国干渉をかけ、日露関係を急速に悪化させた。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何も無く、ニコライ2世は主戦論に同調する。朝鮮半島を巡る対立も相俟って、1904(明治37)年には、日本とロシア帝国とが激突する日露戦争の勃発に至ることとなる。日本海海戦(1905[明治38]年5月27日から翌5月28日にかけて、日露戦争中に行なわれた海戦で、日本海軍の連合艦隊と、ロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊[「バルチック艦隊」]との間で戦われ、日本海軍の連合艦隊はロシア海軍両艦隊を撃滅し、戦力の殆どを失わせたが、日本側の損失は軽微という、海戦史上稀な一方的勝利となった)の結果は、列強諸国を驚愕させ、白人国家による植民地支配に甘んじていた、アジア各地の民衆を熱狂させた。日露戦争において、終始優勢を保っていた日本であるが、日本海海戦戦勝後の1905(明治38)年9月に至り、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、アメリカ合衆国の仲介により、ロシア帝国と講和した。日本は、日露戦争の勝利でロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて、戦後に日露協約が成立したことで、日露関係は急速に改善した。
ご当地キャラの日。
滋賀県彦根市大薮町に本部を置く一般社団法人、日本ご当地キャラクター協会が2014(平成26)年に制定した。地域の活性化を目指し、街を元気にするご当地キャラクター(ご当地キャラ)同士の連携を深め、それぞれのローカルキャラクターを全国に発信することが目的。日付は、5月11日の「5」と「11」で、「ご(5)当地(とう[10、十]ち[1])」と読む語呂合わせから。ゆるキャラとは、「ゆるいマスコットキャラクター」を略したもので、イベント、各種キャンペーン、地域おこし、名産品の紹介等のような、地域全般の情報PR、企業・団体のコーポレートアイデンティティ(CI、企業文化を構築し、特性や独自性を統一されたイメージやデザイン、また、分かり易いメッセージで発信し、社会と共有することで、存在価値を高めていく企業戦略の1つ)等に使用するマスコットキャラクターのことである。特に、地域のPRを目的としたものは、ご当地キャラクター(ご当地キャラ)とも呼ばれる。「ゆるキャラ」という名称は、漫画家・イラストレーター等、幅広い分野で活動しており、「マイブーム」という造語も編み出した、みうらじゅんが考案したとされる。1980年代の地方博覧会ブームで作られたマスコットキャラクターが、ゆるキャラの原点と言われる。2007(平成19)年頃から、滋賀県彦根市で開催された記念行事『国宝・彦根城築城400年祭』のイメージキャラクター、ひこにゃんが火付け役とされる「ゆるキャラブーム」が起こる。2013(平成25)年1月27日、全国各地のご当地キャラクターが、長崎県佐世保市にあるテーマパーク『ハウステンボス』に集まり、100体以上のキャラクターが5分間以上ダンスするという、『ギネス世界記録』(イギリスの出版社、ギネスワールドレコーズが、地球上のあらゆる世界一を探求し、認定・登録してきた記録集)に挑戦し、「世界最大のマスコットダンス」として認定された。2013(平成25)年12月2日、『2013年・新語・流行語大賞』において、「ご当地キャラ」がトップテン入りを果たした。受賞者は、熊本県のキャラクター、くまモンである。因みに、くまモンは、一般社団法人日本ご当地キャラクター協会の会員キャラクターではない。
ご当地スーパーの日。
東京都中央区銀座に所在し、全国各地にある地域に根差したご当地スーパーと、その土地ならではの食品を製造するご当地食品メーカーを応援し、日本の豊かな食文化を守り伝えていくことを目指す一般社団法人、全国ご当地スーパー協会が制定。地元色豊かなローカルスーパーの「ご当地スーパー」の魅力を、より多くの人に再認識してもらうことが目的。ご当地スーパーバスツアー等、さまざまなイベントを通じて、ご当地スーパーを愛する人を増やしていく。日付は、5月11日の「5」と「11」で、「ご(5)当地(とう[10、十]ち[1])」と読む語呂合わせから。
Nagase Viitaの日。
岡山市北区下石井に本社を置く、2024(令和6)年4月1日付で、株式会社林原から社名を変更した企業、ナガセヴィータ株式会社が制定。「Nagase Viita(ナガセヴィータ)」の「Viita」は、事業のテーマである「生命、暮らし」を表わすラテン語(ギリシャ語と並んで西欧の古典語で、古代ローマ帝国の公用語であり、中世から近代の初めに至るまで、カトリック教会を中心とする全ヨーロッパの知識層の、言わば共通の文語として用いられた)の「vita」に「i」を加えた造語で、並んだ「ii」は、共生と共創を表わしている。社員や地域の人々を始めとした社内外のステークホルダーに、「Nagase Viita」に込めた想いを知ってもらい、親しみを持ってもらうことが目的。日付は、「Viita」がローマ数字の「V(5)ii(11)」が並んでいるように見えること、週間カレンダーで「みどりの日」(5月4日)の真下で支えており、自然と共生する未来を共創する、との想いに通じることから。食品原料・医薬品原料・化学原料製品や試薬を研究・製造・販売するバイオメーカー、ナガセヴィータ株式会社は、1883(明治16)年、麦芽水飴製造業を営む林原商店として創業。1932(昭和7)年には、株式会社林原商店へ改組し、研究開発や経営多角化を推進する。1943(昭和18)年、林原株式会社と社名変更して、第二次世界大戦終戦直後には、水飴生産量が日本一になる。以後、デンプンから各種糖質開発を事業として特許を多数取得し、莫大な収益でさらに新規研究を行なう、研究開発型企業へと成長を遂げた。2012(平成24)年になって、主に化成品・医薬品事業を中心とした在阪の複合商社、長瀬産業の完全子会社となっている。