西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第2土曜日 旧暦 4月 4日、先勝(乙亥)、月齢 3.0
グレゴリオ暦で年始から132日目、年末まであと234日。
誕生花 ナスタチウム・リンゴ(林檎)。
大津事件記念日。
1891(明治24)年5月11日、滋賀県滋賀郡大津町(現在の滋賀県大津市)で、日本を訪問中であったロシア帝国のニコライ皇太子(後のロマノフ朝ロシア帝国第14代皇帝ニコライ2世)が、沿道警備中の滋賀県警察部巡査、津田三蔵に切付けられる「大津事件」が発生した。ニコライ皇太子は負傷し、京都で療養したが、第122代天皇、明治天皇が京都に緊急行幸して見舞い、ニコライ皇太子を、ロシア帝国海軍の艦隊が入港していた神戸港(現在の兵庫県神戸市に所在)まで見送った。明治天皇が謝罪したものの、ロシア本国からの指示もあって、ニコライ皇太子は東京訪問を中止し、艦隊を率いて、神戸港からロシア帝国の極東部に位置するウラジオストクへと帰還の途に付いた。小国であった日本が、大国ロシアの皇太子を負傷させたとして、「事件の報復にロシアが日本に攻めてくる」と日本国中に大激震が走り、さながら「恐露病」の様相を呈した。学校は謹慎の意を表わして休校となり、神社や寺院や教会では、皇太子平癒の祈祷が行なわれた。当時の日本は、何とか欧米の植民地にならずに済んでいたものの、まだロシアに軍事的に対抗する力を持っていなかったため、賠償金や領土の割譲まで要求してくるのではないか、と危惧された。また、事前に、青木周蔵外相がロシア公使ディミトリー・シェービッチに対し、皇太子に危害が加えられた場合は「皇室罪」(国王や皇帝等、君主や、王族や皇族等、君主の一族と宗教、聖地に対し、その名誉や尊厳を害する等、不敬とされた行為の実行により成立する犯罪、「不敬罪」に相当し、1880[明治13]年に公布された「刑法[旧法、明治13年7月17日太政官布告第36号]」において明文化されている)を適用すると密約していたことも、混迷の原因となった。そこで日本政府は、事件を所轄する裁判官に対し、「大逆罪」(天皇、皇后、皇太子等に危害を加えることをその内容とした犯罪類型)によって、死刑を類推適用するよう働き掛けた。初代首相であったが、1888(明治21)年の枢密院(枢密顧問[顧問官]により組織される天皇の諮問機関で、憲法問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれた)開設の際、初代枢密院議長となるために首相を辞任していた伊藤博文は、死刑に反対する意見がある場合、戒厳令(非常事態措置の発令)を発してでも断行すべき、と主張した。また、松方正義首相、西郷従道内相(内務省[現在の総務省、国家公安委員会、警察庁、国土交通省、厚生労働省等の前身]を指揮監督した国務大臣で、内相[内務大臣]は、中央警察官庁の最高長官であり、全国配置された中央集権型の警察機構を率いていた)、山田顕義法相らが、死刑適用に奔走した。青木周蔵外相や、初代外相であった井上馨等は、消極的反対であった。ロシア公使ディミトリー・シェービッチは、以前から日本に対して恫喝的な態度を度々取っており、この事件に関しても、事件の対処に当たった青木周蔵外相、西郷従道内相らに、死刑を強硬に要求した。事件後の6月4日には、青木周蔵外相との密約を公表して抗議し、青木周蔵外相の責任問題となった(公書問題)。これに対して、青木周蔵外相が「自分は伊藤博文と井上馨に言われて約束しただけである」と述べたが、伊藤博文は、「ロシア側の真意を確かめよ」と指示しただけと反論し、もし、自分が政府に迷惑を掛けているなら枢密院議長を辞職するとした。重鎮である伊藤博文との対決は、5月6日に就任したばかりの松方正義首相や、その前任の首相である山縣有朋も望んでおらず、責任は青木周蔵外相が取ることとなった。青木周蔵外相は、「自分の手記が公表されれば伊藤博文と井上馨の首が飛ぶ」と発言し、激怒した井上馨によって、ドイツ公使へと左遷された。青木周蔵は、この後伊藤博文から嫌悪され、政治家としての栄達を絶たれる原因となる。とは言え、その後も、条約改正交渉に長く深く関わっていた青木周蔵は、1898(明治31)年に組閣された第2次山縣内閣で、再度外務大臣となった他、枢密顧問官再任や駐米大使になる等、活躍は続けた。青木周蔵外相が責任を取って引責辞任した後、旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、いわゆる「蝦夷共和国」の総裁となったこともあり、後に領土交渉使節として、駐露特命全権公使を務めた榎本武揚が、後任の外相となる。ロシア公使ディミトリー・シェービッチは、事件から16日後の5月27日、一般人に対する謀殺未遂罪(「刑法[旧法、明治13年7月17日太政官布告第36号]」第292条)を適用して、津田三蔵が無期徒刑(無期懲役)の判決が下されたことを知ると、「いかなる事態になるか判らない」旨の発言をしている。ロシア帝国皇帝アレクサンドル3世も、暗に死刑を求めていた。榎本武揚は、和解に向けて奔走し、ロシア帝国の抗議を撤回させたことで、ロシア帝国による賠償要求も武力報復も行なわれなかった。ニコライ皇太子の負傷に関しては、ロシア帝国皇帝アレクサンドル3世もニコライ皇太子も、日本の迅速な処置や謝罪に対して寛容な態度を示しており、日本がこの問題を無事解決できた理由の1つに、ロシア帝国の友好的な姿勢があることは疑いない。日記の文面からも、コライ皇太子がこの事件で、日本に対して嫌悪感を抱いたことは無いと窺える。時の大審院院長(現在の最高裁判所長官)児島惟謙は「刑法に外国皇族に関する規定はない」とし、無期徒刑(無期懲役)の判決を下した。当時の列強の1つであるロシア帝国の艦隊が神戸港にいる中で事件が発生し、まだ発展途上であった日本が武力報復されかねない緊迫した状況下で、行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされる。この事件判決で司法の独立を達成したことにより、まだ曖昧であった大日本帝国憲法の三権分立の意識が広まった。しかし、大津地方裁判所で扱われるべき事件を、正常な手続きなしで大審院に移している。これは、「大逆罪」の類推適用を考慮していた為、皇室罪に関する裁判は、全て大審院における一審で判決が下されることから、適用可否判断を含め、地方裁判所ではなく、大審院に持込まれることになった。判事7名は大津に出張した。また、裁判に直接関わっていなかった児島惟謙が干渉を重ねたことも、裁判官の独立等の問題として残った。大津事件は、権力の所在や運用が未熟・未分化であった時代を象徴した事件で、この事件をきっかけに、これらの問題、つまり、三権分立や司法のあり方等は活発に議論されるようになった。また、海外でも大きく報じられ、国際的に日本の司法権に対する信頼を高めた。このことは、日本が近代法を運用する主権国家として、当時進行中であった不平等条約改正への弾みとなった。但し、この事件で青木周蔵外相が辞任したため、成立寸前の領事裁判権(不平等条約によって定められた治外法権の1つで、在留外国人が起こした事件を、本国の領事が本国法に則り裁判する権利)を撤廃した条約が纏まらず、短期的には停滞した。なお、司法権の独立の維持に貢献した児島惟謙は「護法の神様」と日本の世論から高く評価され、当時の欧米列強からも、日本の近代化の進展振りを示すものという評価を受けている。しかし、司法権の独立とは、単に政治部門(立法、行政)は裁判所の判断に干渉できない、という司法権の外部からの独立のみを指すのではなく、裁判官1人1人が、同僚や上長からの干渉を受けることなく、独立して判断できる、という裁判官の判断の独立も含まれている。この観点から、児島惟謙は司法権の外部からの独立は守ったが、反面、裁判官の判断の独立を、自ら侵害したとする見方もある。因みに、大津事件から約1年後の1892(明治25)年6月、向島(現在の東京都墨田区向島にある花街[芸妓屋や遊女屋が集まっている区域])の待合(主に芸妓との遊興や飲食を目的として利用された貸席業)で花札賭博に興じていたとして、児島惟謙を含む大審院判事6名が告発され、時の検事総長松岡康毅から懲戒裁判に掛けられた。翌7月に証拠不十分により免訴になったが、児島惟謙は1894(明治27)年4月、責任を取らされる形で大審院を辞職した(司法官弄花事件)。ウラジオストクへ帰還したニコライ皇太子は、予定行事だけこなすと、早々にウラジオストクを離れ、ロシア帝国の首都として長く定着していた「文明の天国」、サンクトペテルブルクへ戻った。その途中、シベリアを横断したが、このことをきっかけに、ニコライ皇太子はシベリアには深い関心を寄せるようになった。シベリアはロシア帝国領であるが、シベリアを訪れたロシア帝国の皇太子は、ニコライが初めてであった。