5月11日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

長良川の鵜飼い開きの日。
岐阜市内を横切るように、北東から南西にかけて流れる長良川で、鵜飼いが行なわれる初日。長良川の鵜飼いは、毎年5月11日から10月15日まで行なわれる鵜飼いである。中秋の名月と、増水時を除く毎夜行なわれる。中秋の名月に行なわれないのは、篝火で驚かせた鮎を捕らえる鵜飼いでは、月が明る過ぎると、その篝火の効果が薄れるためと言われるが、他の満月の際には催されるので、これは伝統的な公休とも見做せる。約1,300年程前から行なわれており、起源は漁としての鵜飼いであるが、現在は、古典漁法を今に伝える観光としての鵜飼いである。その内、宮内庁の御料場(普段は禁猟区になっており、決められた日に鵜匠しか漁をすることが許されない場所)で行なわれる8回の鵜飼いは「御料鵜飼」と呼ばれ、獲れた鮎は、皇居へ献上されるのみならず、明治神宮(東京都渋谷区代々木に鎮座する、第122代天皇、明治天皇と、その皇后である昭憲皇太后を祀る神社)や伊勢神宮(三重県伊勢市にある、全ての神社の上に位置する、とされる神社で、「伊勢神宮」とは通称で、正式名称は地名の付かない「神宮」である)へも奉納される。長良川における鵜飼いは、日本で唯一皇室御用の鵜飼いであり、長良川の鵜匠は、職名を宮内庁式部職鵜匠といい、長良川の鵜飼用具一式122点は、国の重要有形民俗文化財、長良川鵜飼漁法は、岐阜県指定重要無形民俗文化財である。また、鵜匠家に伝承する鮎鮓製造技術、長良川鵜飼観覧船造船技術、長良川鵜飼観覧船操船技術は、岐阜市指定無形民俗文化財となっている。鵜飼いの歴史は古く、日本に伝存する最古の正史『日本書紀』や日本最古の歴史書『古事記』にも、鵜飼いのことが記述されている。延喜年間(901年 - 923年)には、長良川河畔に7戸の鵜飼があり、国司(地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏)藤原利仁により、鮎が献上された。そして、それを時の天皇が気に入ったという。織田信長や徳川家康も鵜飼を見物したとされ、江戸時代後期には、長良川の鵜飼いは盛んになった。明治維新で一時衰退したが、第122代天皇、明治天皇の代に再興された。鵜飼漁で獲れる魚には傷が付かず、鵜の食道で一瞬にして気絶させるために、鮮度を保つことができる。このため、鵜飼鮎は献上品として殊の他珍重され、安土桃山時代以降は、江戸幕府、及び各地の大名によって、鵜飼いは保護されていった。鵜匠と漁場の確保は、大名達にとっても面子に関わることであった。その一方で、鵜飼いは漁獲効率のよい漁法ではないため、明治維新後に大名等の後援を失った鵜飼は減少していき、現在では、数えるまでにその規模を縮小している。鵜飼漁をする人を、鵜使い、又は鵜匠と呼ぶ。その装束は、風折烏帽子(烏帽子とは、平安時代から近代にかけて和装での礼服着装の際に成人男性が被った帽子で、その頂が風に吹き折られた形のもの)、漁服、胸あて、腰蓑を身に着ける。鵜飼いでは、平底の小船の舳先で焚かれる篝火が、照明の他に鮎を驚かせる役割を担っている。篝火の光に驚き、動きが活発になった鮎は、鱗が篝火の光に反射することで鵜に捕えられる。鵜の喉には紐が巻かれており、ある大きさ以上の鮎は、完全に飲込むことができなくなっており、鵜匠はそれを吐出させて漁獲とする。紐の巻き加減によって漁獲する鮎の大きさを決め、それより小さい鮎は鵜の胃に入る。鵜飼いに使われる鵜はウミウ(ペリカン目ウ科ウ属に分類される鳥類で、中国で用いられるカワウより大きい)であり、和歌山県有田市と島根県益田市を除く全国11ヶ所全ての鵜飼は、茨城県日立市(旧:茨城県多賀郡十王町)の伊師浜海岸で捕獲されたウミウを使用している。山梨県笛吹市石和町を流れる笛吹川における石和鵜飼いや、和歌山県有田市の有田川で行なわれている鵜飼いは、「徒歩鵜(かちう)」と呼ばれるものである。これは、小船等を用いず、鵜匠が1羽から2羽の鵜を連れて、直接浅瀬に入って漁をする鵜飼いである。島根県益田市の高津川で行なわれている鵜飼いは、日本で唯一の「放し鵜飼」と呼ばれるもので、鵜に手綱を付けずに漁を行なう。また、この鵜飼いは、あくまで鵜匠の生計のための漁であり、そのスタンスは、他の観光鵜飼いとは異なる。乱獲防止のため、漁期は、一般の鵜飼いが終わる秋頃から翌初春頃までとなっている。
エベレスト日本人初登頂記念日。
登山と登山文化の発展、普及のために活動しているプロ登山家、竹内洋岳が、公益社団法人日本山岳会(日本初の山岳クラブで、個人加入の山岳団体としては国内最大)、植村直己冒険館(兵庫県豊岡市日高町伊府に所在する、国民栄誉賞を受賞した世界的冒険家、植村直己の偉業の顕彰を目的とした博物館)の了解を得て制定。標高8,848mの世界最高峰の山「エベレスト」に、日本人として初めて登頂に成功した冒険家の植村直己と、登山家の松浦輝夫の偉業を後世に伝えることが目的。日付は、両名が初登頂した1970(昭和45)年5月11日から。2020(令和2)年には、エベレスト日本人初登頂から50周年を迎えている。1970(昭和45)年当時、大阪で開催されていた日本万国博覧会(大阪万博)一色であった中で、世界最高峰登頂のニュースに日本中が歓喜し、第二次世界大戦後、日本経済が飛躍的に成長を遂げた、高度経済成長の未来を指し示すかのようなできごととして、多くの人々の記憶に刻まれた。なお、高度経済成長期は、日本万国博覧会(大阪万博)の成功によって最高潮を迎えたが、1973(昭和48)年の第四次中東戦争がもたらしたオイルショック(原油の供給逼迫、及び原油価格高騰と、それによる世界の経済混乱)等から、成長期は終焉を迎えることとなる。ヒマラヤ山脈にある世界最高峰、エベレストは、インド測量局で長官を務めたイギリスの地理学者・探険家、ジョージ・エベレストに因んで命名された。1953(昭和28)年5月29日、イギリス探検隊のメンバーで、ニュージーランド出身の登山家であるエドモンド・ヒラリーと、ネパール出身のシェルパ、テンジン・ノルゲイによって、人類初となる登頂が達成された。この日に由来して、5月29日は「エベレスト登頂記念日」となっている。1975(昭和50)年5月16日には、登山家の田部井淳子が、女性として世界で初めて登頂に成功した。

東京都みどりの日。
5月第2土曜日。1985(昭和60)年に東京都が、「東京都みどりの日の決定について(昭和60年03月27日公告)」により、5月第2土曜日を「東京都みどりの日」と定めた。この日には、緑化キャンペーンが行なわれる。なお、1948(昭和23)年の「国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)」施行以来、第124代天皇、昭和天皇の誕生日である4月29日は、国民の祝日である「天皇誕生日」とされていた。その後、1989(昭和64)年1月7日の第125代天皇、天皇明仁即位により、天皇誕生日は、天皇明仁の誕生日である12月23日に改められることとなったが、ゴールデンウイーク(毎年4月末から5月初めにかけての休日が多い期間で、黄金週間等とも呼ばれるが、元々は映画業界用語であったこと等から、日本放送協会[NHK]や一部の民間放送[民放]、新聞等は、単なる「[春の]大型連休」という表現で統一している)の一角を構成する祝日を廃止することによる、国民生活への影響が懸念されたことから、4月29日を「みどりの日」と改めた上で、祝日として存続させることとなった。さらにその後には、2005(平成17)年の「祝日法」の一部改正(「国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律[平成17年5月20日法律第43号]」)により、2007(平成19)年以降は「みどりの日」を5月4日に移動し、4月29日を「昭和の日」とすることとなった。
世界渡り鳥デー(World Migratory Bird Day)。
5月第2土曜日と10月第2土曜日。国際連合総会の補助機関、国際連合環境計画(UNEP)が制定した国際デーの1つ。渡り鳥が直面する脅威、それらの生態学的重要性、それらを保護するための国際協力の必要性について、世界的な認識を高めることを目的としている。この日には、渡り鳥とその生息地の保全の必要性について強調し、意識向上のためのキャンペーンとして、世界各地でバードフェスティバル・教育プログラム・展示会・バードウォッチング等のイベントが開催される。渡り鳥を観察できる時期は国や地域により異なるが、世界的な記念日である「世界渡り鳥デー」は、5月と10月の第2土曜日となっている。渡り鳥は、食糧・環境・繁殖等の事情に応じて、定期的に長い距離を移動(渡り)する鳥のことである。一方、一年を通じて、同一の地域やその周辺で繁殖も含めた生活を行なう鳥を、留鳥という。渡り鳥は、昼は太陽の位置、夜は星座の位置から、現在の位置と向かう方角が分かるという。また、地磁気や風向き、地形の情報等も参考にして、正しい方角に飛ぶことができると考えられている。日本で観察できる渡り鳥は、繁殖のために日本より南方から渡ってきて、夏を日本で過ごし、越冬のために再び南に渡る「夏鳥」、越冬のために日本より北方から渡ってきて、冬を日本で過ごし、冬が終わると繁殖のために再び北に渡る「冬鳥」、渡りの移動の途中に、日本を通過して行く「旅鳥」に分けられる。「夏鳥」として、ツバメ、アマサギ、オオルリ、キビタキ、クロツグミ、ハチクマ、サシバ等、「冬鳥」として、ツグミ、ジョウビタキ、ユリカモメ、マガモ、オオハクチョウ、マナヅル、オオワシ等、「旅鳥」として、シギ、チドリの仲間が挙げられる。
朔太郎忌。
詩人、萩原朔太郎の1942(昭和17)年の忌日。大正時代から昭和前期にかけて独自の詩風を確立し、詩壇に新たな息吹を吹込んだ萩原朔太郎は、現代でも多くのファンを持つ日本の代表的な詩人の1人である。近代詩の新しい地平を拓き、「日本近代詩の父」とも称される。1917(大正6)年2月刊行の処女詩集『月に吠える』で全国に名を知られるようになり、続いて1923(大正12)年1月に、詩集『青猫』を刊行。これは、『月に吠える』と並ぶ萩原朔太郎の代表作とされている。この他の詩集として、『蝶を夢む』や『萩原朔太郎詩集』、それらを集成した『定本青猫』がある。これらの作品は、口語体によって書かれ、日本を代表する彫刻家であり、画家でもあったが、今日にあっては『道程』や『智恵子抄』等の詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されており、日本文学史上、近現代を代表する詩人の1人として位置付けられる彫刻家・画家・詩人、高村光太郎と共に、「口語自由詩の確立者」とされる。 
梶葉忌。
作家、梶山季之の1975(昭和50)年の忌日。梶山季之は、週刊誌創刊ブーム期にトップ屋(フリーライター)として活躍する。その後は、長編小説『黒の試走車』『赤いダイヤ』等の産業スパイ小説、経済小説でベストセラー作家となり、推理小説、時代小説、風俗小説等を量産するが、45歳で死去する。ルポライターとして梶季彦、少年向け冒険小説として梶謙介のペンネームがある。ジャーナリストの世界において、記事執筆のためのデータ収集を専門とする「データマン」、そして、データマンの集めた情報を元に記事を執筆する「アンカーマン」、という分業体制を確立したのは、日本では梶山季之が最初と言われている。なお、梶葉忌という名は、天台宗僧侶で、作家・評論家の今東光が命名した戒名「文麗院梶葉浄心大居士」に由来する。 
たかし忌、牡丹忌。
俳人、松本たかしの1956(昭和31)年の忌日。松本たかしは、能楽師の家に生まれ、能を志したが、病のために断念。明治・昭和期の俳人・作家、高浜虚子に師事し、俳句に専心した。能で培った、美意識に支えられた典雅で格調の高い句作が特徴である。大正時代から昭和前期(特に、第二次世界大戦前)に大きく勢力を伸ばした俳誌『ホトトギス』に拠るホトトギス派では、川端茅舎、中村草田男らの俳人と並び称された。松本たかしは生前、牡丹を愛し、死去の時期も牡丹の花盛りであったことから、忌日は牡丹忌とも称されている。