5月10日 記念日 その4 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

街区表示板の日。
1962(昭和37)年5月10日、「住居表示に関する法律(住居表示法、昭和37年5月10日法律第119号)」が公布、施行されたことを記念したもの。明治以来の日本では、町名・字名と地番によって、住所を表示するのが慣習となっている。しかし、町の区域の境界が複雑で不明確である、同一市町村内に同一・類似の町名がある、土地の並ぶ順序と地番の順序とが一致しない、同一地番の土地の上に多数の家屋がある、等の問題から、住所を頼りに、訪問先を探し当てたり、郵便物を配達したりすることが困難で、町名・地番の混乱が、住民の日常生活・経済活動や行政事務の障害となっている地域が全国の市街地に見られた。「住居表示法」は、このような状況を解消するために制定されたものであり、この制度が実施される区域内の住所は、町名・字名と地番ではなく、町名・字名と街区符号と住居番号、又は道路の名称と住居番号で表わされる。街区表示板とは、日本の市区町村において住居表示を実施している区域で、街区(所在地)を表示している細長いプレートのことをいう。街区符号板、又は町名板とも呼ばれている。「住居表示に関する法律」により、住居表示を実施した市町村(特別区を含む)に、設置が義務付けられている。住居表示を実施していない区域でも、街区符号のない町名・地番(△△一丁目○○番地)を記した表示板が設置されることがあり、町名(大字名)表示板(又は、地番表示板)等と呼ばれる。街区表示板とは異なり設置義務はなく、地方自治体が設置する他、ライオンズクラブ等の慈善団体が地方自治体に寄贈する、或いは、企業が広告を兼ねて設置する例もみられる。現在、京都市内等に見られる1910(明治43)年に設置された、医薬品メーカーの森下仁丹株式会社が設置した町名表示板が、日本で最初と言われる。街区表示板は多くの場合、縦に細長い形状を有する金属、或いは、プラスチック製の板(プレート)であり、濃い色の地に白、又は黒で記載事項が書かれており、主に、建物の壁面や家屋の塀、電信柱等に付いている。
五島の日。 
長崎県南松浦郡新上五島町より、地元の民間団体から、5月10日は「五島の日」として発信される。日付は、5月10日「5」と「10」で、「五島(ご[5]とう[10、十])」の語呂合わせから。また、五島列島の中の北部に位置する新上五島町(通称:上五島)と、南部に位置する長崎県五島市(通称:下五島)が連携をして、五島列島の知名度の向上を図り、その魅力を大いにPRするきっかけの日にするため、共同でも「五島の日」として制定されている。五島列島は、九州の最西端、長崎港から西に約100kmに位置し、北東側から南西側に約80km(男女群島まで含めると約150km)に亘って、大小合わせて140余りの島々が連なる列島である。全島が長崎県に属し、人口は約7万名となっている。自然海浜や海蝕崖、火山景観等、複雑で変化に富んだ地形で、ほぼ全域が西海国立公園に指定される等、豊かな自然景観を有している。島々には、多くのカトリック教会が点在し、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」(長崎県と熊本県にある教会、キリスト教に関わる史跡、文化財の総称)の国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)登録を目指す取組みが進められ、2018(平成30)年に登録されて、五島観光の目玉の1つとして注目されている。昭和時代には、東シナ海で操業する漁船団の先端基地として栄えた。近年漁獲高は減少しているものの、今も漁業が重要な産業であり、海産物が名物である。「五島列島」とは学問的な呼び名であり、会話の中では余り使われない。地元や九州地方では、単に「五島」と呼ぶことが多い。五島列島は、北東から南西に長く伸びているため、全体を大きく2つに分けて、五島最大の福江島を中心とする南西の島々を「下五島(しもごとう)」、2番目に大きな中通島を中心とする北東部を「上五島(かみごとう)」と呼ぶこともある。現在の行政区域では、下五島が長崎県五島市、上五島が長崎県南松浦郡新上五島町に属する。近世から肥前国福江藩(五島藩)の中心であった福江島には「下五島」の呼び名はあまり使われないが、「上五島」は「中通島」以上によく使われる呼び名である。五島列島に人が住み着いたのは早く、一部には、旧石器時代(ヒトによる石器[打製石器]の使用が始まった時代で、約3万年前頃から約1万6,500年前頃とされる)に、既に人が住み付いていたという。島では旧石器時代以降、縄文時代(約1万5,000年前頃から約2,300年前頃とされる)や弥生時代(紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までに当たる時代の名称)の遺跡が非常に多く発見されている。肥前国福江藩(五島藩)藩主を務めた外様大名(1600[慶長5]年に行なわれた合戦で、豊臣政権が統一政権の地位を失った一方、勝者である徳川家康が強大な権力を手に入れ、幕藩体制確立への道筋を開くこととなった、関ヶ原の戦い前後に、新しく徳川氏の支配体系に組込まれた大名)の五島氏の領地は、明治維新に至るまで続き、異国船の往来が増えた幕末に、石田城(現在は、五島列島の南西部に位置し、福江島東部にあった福江市と、周辺5町が合併して誕生した、五島市の中心街に位置しているが、築城当時は三方を海に囲まれた海城であった)が築城されて、今日も福江の中心部には、美しい石垣が残っている。昭和の時代においては、海産物の水揚げや新しい加工技術の導入、さらに、養殖の増加に加え、戦禍を殆ど受けなかったことや、サンゴ等の特産物がブームになる等の幸運もあり、五島の人口は増加していき、最盛期には15万を数えた。この間、1962(昭和37)年には、五島の中心地、福江市の中心市街地が全焼する福江大火による大規模な被害を受けたが、第二次世界大戦後、日本経済が飛躍的に成長を遂げた高度経済成長の時代の勢いもあって、見事に復興し、むしろ市街地の近代化に成功して、五島藩の城下町とはいえ「離島の小集落」という印象が強かった、それまでの福江市街地を生まれ変わらせている。近年では、五島全域で人口が減少に転じ、住民の高齢化も進んでいる。2005(平成17)年から2006(平成18)年にかけてピークを迎えた、全国の市町村が約3,300から約1,700に半減した平成の大合併によって、五島の行政区画は、大きく長崎県五島市と長崎県南松浦郡新上五島町に集約されたものの、過疎・高齢化が著しく進んでいる。若年層が島外へ出て就職するケースが多いため、若者の就労機会を増やすための取組みがなされている。
金鳥「コンバット」の日。
大阪市西区土佐堀に本社を置く、KINCHOブランドで知られる家庭用殺虫剤や防虫剤等を製造販売する日用品メーカー、大日本除虫菊株式会社が制定。5月上旬から活発化するゴキブリを、大日本除虫菊株式会社のゴキブリ駆除用ベイト剤、金鳥「コンバット」で対策をしてもらうことが目的。日付は、5月10日の「5」と「10」で、「コン(5)バット(10、十)」と読む語呂合わせと、商品のキャッチフレーズである「巣ごと(510[五十])丸ごと(510[五十])ゴキブリ退治」の語呂合わせから。金鳥「コンバット」は、置くだけ簡単、巣ごと丸ごとゴキブリ退治ができる。金鳥「コンバット」の餌を食べたゴキブリだけでなく、巣にいるゴキブリも駆除する、「2度効く」効果がある。ゴキブリは、家の中で集団生活をしていて、仲間のいる巣に戻る習性があり、金鳥「コンバット」は、その習性を利用している。大日本除虫菊株式会社は、「金鳥」「KINCHO」の商標名で知られ、正式な社名より商標が浸透している状態であるが、1885(明治18)年、大日本除虫菊株式会社の創業者、上山英一郎が、アメリカで植物輸入会社を営むH・E・アモアより、除虫菊の種苗を手渡され、これを元に線香を製造して、蚊等の虫に効くことを知ったことで、除虫線香(蚊取線香)「金鳥香」の製造を開始したという、創業のきっかけを忘れないため、「大日本除虫菊」という社名は堅持している。
五十音図・あいうえおの日。
石川県加賀市山代温泉北部に事務局を置く、山代温泉観光協会が制定。山代温泉にある「薬王院温泉寺」の中興の祖、明覚上人が、平安時代後期の1093(寛治7)年に「反音作法」を著し、言葉の音による五十音の研究について記述した。この時の配列が、現在の五十音図に近いものであることから、山代温泉では、五十音図の発祥の地として、「今年のにほんご」の募集等、「にほんご」や「あいうえお」等に関わる文化的な取組みを行なっている。これらの活動を広く知ってもらい、大切にしたい「ことば」に思いを馳せる機会にしてほしい、との願いが込められている。日付は、5月10日の「5」と「10」を、「五十音図」の「五十」に当嵌めたもの。また、10日は、明覚上人の月命日でもある。五十音、又は五十音図とは、日本語の仮名文字を母音に基づき縦に五字、子音に基づき横に十字ずつ並べたもので、日本語の清音を母音と子音とで分類し、それに従い、仮名文字を縦横の表に並べている。