5月9日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

メイクの日。
東京都渋谷区神宮前に本部を置く、メーカーやジャンルの枠を越えた日本初のメイクアップアーティストの集団、Japan Make-up Artist Network(JMAN)が制定。日付は、5月9日の「5」と「9」で、「メイ(May = 5月)ク(9、九)」の語呂合せから。化粧(仮粧)とは、白粉(おしろい)や紅(べに)等を付けて顔を装い、飾ることである。英語では「メイクアップ」や「メーキャップ」、略して「メイク」、フランス語では「マキアージュ」という。なお、「メイクアップ」という言葉は、ポーランド系ユダヤ人の美容師、マックス・ファクターが、常に現状に満足できず、「Make Up(もっと美しい表情を)」と言い、これが後に「化粧する」という意味で使われるようになったものである。1909(明治42)年、ロシアの国際的に有名なバレエ団、ボリショイ・バレエ団のビューティーアドバイザーであったマックス・ファクターは、ハリウッド(アメリカ合衆国西部、カリフォルニア州ロサンゼルス市にある地区で、映画産業の中心地とされ、アメリカ映画のことを指してハリウッドとも呼ばれる)に、化粧品・演劇用品店「マックスファクター」を開店した。ハリウッド映画の黎明期に美容アドバイザーとして活躍し、生み出した数々のメークアップ製品は映画スターに愛用され、広く知られるようになった。マスカラやリップブラシ等、今では馴染み深い化粧品の多くは、マックス・ファクターによって生み出されたものである。1909(明治42)年に化粧品メーカー、マックスファクター社を設立した。マックスファクター社は、1991(平成3)年からはプロクター・アンド・ギャンブル(P&G、アメリカに本拠を置く世界最大の一般消費財メーカー)の化粧品ブランドとなっていたが、現在は、アメリカの香水メーカー、コティ社の化粧品ブランドになっている。古代から、王族等が人前に現れる時には化粧を用いた。祭礼等でも化粧が行なわれる。俳優は、舞台に立つ時は、独特の化粧をする。例えば、目・鼻筋・口等が遠くからでもはっきり判るような化粧をする。これを「舞台化粧」と称する。各国の伝統的演劇の多くが、独特の化粧を用いている。日本では、古代から大正時代に至るまで、お歯黒と呼ばれる歯を黒く塗る化粧が行なわれていた。平安時代には、男性もお歯黒をすることがあったが、江戸時代には、お歯黒は既婚女性の習慣となった。口紅は、紅花(紅色染料や食用油の原料として栽培されるキク科ベニバナ属の植物)を原料にしたものが使われていたが、極めて高価な品とされていた。日本の白粉は、液状の水白粉であり、西洋と同じく、主な成分に水銀や鉛を含んでいた。長期的な使用者には、鉛中毒や水銀中毒による肌の変色(白粉焼け)が多くみられたと言われている。男性も、公家が古代より、白粉等で化粧をする習慣が存在し、幕末まで続いた。武家もやはり、公家に習い公の席では白粉を塗っていたが、江戸時代中期には、化粧をして公の席へ出る習慣は廃れた。但し、公家と応対することが多い高家の人達は、公家と同様に幕末まで化粧をする習慣を保持していた他、一般の上級武士も、主君と対面する際、くすんだ顔色を修整するために、薄化粧をすることがあったという。江戸時代に入り、上流階級だけではなく、庶民も化粧をするようになり、世界で初めて、庶民向けの化粧品店が開かれた。江戸時代の女性の化粧は、肌に塗るのは白粉のみで、これを濃淡を付けて塗ることで、質感の違いや顔の微妙な立体感を生み出した。水白粉や粉白粉を刷毛で肌に伸ばし、丹念に丸い刷毛ではたき込み、さらに余分の白粉は別の刷毛で拭って落とすという、手間の掛かるものであった。口紅は唇の中心に付けるだけで、おちょぼ口に見せた。こうした化粧の伝統は、大正時代に至るまで根強く残った。結納の済んだ女性にはお歯黒、子が生まれた女性には引眉が行なわれる風習があった。和服はうなじが広く出るので、襟元に白粉を塗ることも重視された。1870(明治3)年、政府は皇族・華族に対し、お歯黒・引眉禁止令を出した。当初はなかなか徹底されず、3年後皇后が率先して模範を示すことで、ようやく華族の女性達もお歯黒・引眉を止めることになった。これが庶民にも徐々に波及し、引眉の風習は明治初期には廃れた。しかし、お歯黒の習慣は、大正時代まで根強く残った。高齢の女性の中には、昭和に至るまでお歯黒を守り続けた人もいた。一方、男性の化粧は富国強兵のスローガンの下で「化粧をする男性は軟弱だ」と言われ、廃れていった。明治時代には、鉛白粉の害が論じられ、1900(明治33)年には国産の無鉛白粉が発売された。しかし、鉛白粉は伸びや付きに優れたものであったので、害があることが知られていたにも係わらず、昭和初期まで使われ続けた。大正時代には、和風の化粧をベースに、西洋の頬紅を使ったり、耳元に紅を入れる等の和洋折衷の化粧が流行った。白だけであった白粉も、ベージュや赤みを帯びたものも使われるようになった。本格的に西洋風の化粧が行なわれたのは、1923(大正12)年の大正関東地震(関東大震災)後のことであった。「モダンガール(モガ)」と言われた一部の女性達の間に、アイシャドウや唇全体に塗った口紅といった化粧が行なわれ、断髪や足の出るスカート等のいで立ちと共に、保守的な人々の非難の的となった。1950年代には、明るく血色が良く見える肌色が重視され、ピンク系のファンデーション、真っ赤な口紅等が流行した。アイシャドーやマスカラ等のアイメイクが導入されたのもこの頃である。1960年代から1970年代には、健康的で溌剌としたイメージを演出するため、オレンジ・イエロー系のファンデーション、ピンクベージュ系の口紅が好んで使われた。また、細く眉尻の上がった眉が流行し、明るい色のチーク、マスカラやアイシャドウで目元を強調する化粧も流行した。1970年代後半から1980年代には、「ナチュラルメイク」が市民権を得、個人の個性を生かして自然な顔に見せる化粧が広まっていく。天候やTPO(時、所、場合)に応じた化粧の使分けが定着したのもこの頃である。日本人らしい顔立ちが見直され、アイメイクは控えられるようになり、太い眉毛(太眉)が流行した。バブル期(1986[昭和61]年12月から1991[平成3]年2月までの51ヶ月間に、日本で起こった資産価格の上昇と好景気)には、紫外線の害が広く知られるようになったことから、美白化粧品が売出された。濃くはっきりした色の口紅を塗り、白系のファンデーションをしっかり施す化粧が流行した。1990年代中盤に入ると「癒し系」メイクが流行し、きちんと化粧を施しつつも、素肌の質感を残すナチュラルメイクが主流になった。従来の真っ赤な口紅は廃れ、ベージュ系の口紅が好まれるようになった。1970年代ブームから、細い釣り眉やマスカラが復活した。1990年代後半から2000年代には、ファッションの多様化が進んだ。美白指向の定着により、ナチュラルな白肌メイクが多数派になっているが、濃い色のチークやファンデーションも好んで使われ、一時は「ガングロ」と言われる黒い肌の女性も現れた。また、茶髪が一般人に広まり、マニキュア・ネイルアート・ピアスも多様なデザインのものが現れている。 
チャリティーメイクの日。 
ハンディキャップを抱えた人や高齢者の人、自分を美しくすることに時間や余裕が持てない人に、プロフェッショナルのメイクアップアーティストが、チャリティーやボランティアを行なう日として、NGO団体(民間の非利益団体)の日本スマイルメイク協会が制定。菅原麗子代表(株式会社ビジュファクトリー[東京都港区港南に所在する化粧品メーカー]代表)は、「自分の美しさを再発見して頂く日に」と話している。日付は、5月9日の「5」と「9」で、「メイ(May = 5月)ク(9、九)」と読む語呂合わせから。この日には、病院や福祉施設を訪問して、高齢者や入院患者等にボランティアでメイクを行なっている。