5月7日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第1火曜日 旧暦  3月29日、先勝(辛未)、月齢 28.4  
グレゴリオ暦で年始から128日目、年末まであと238日。
誕生花 スターチス・モクレン。

博士の日
1888(明治21)年5月7日、植物学者の伊藤圭介、数学者の菊池大麓、物理学者の山川健次郎ら25名に、日本初の博士号が文部省(現在の文部科学省の前身の1つ)によって授与された。但し、論文の提出による博士号ではなく、教育への貢献を評価されたもので、名誉博士的なものであった。論文による本格的な博士が生まれたのは、それから約3年後のこととなる。幕末から明治期に活躍した伊藤圭介は、「雄しべ」「雌しべ」「花粉」という言葉を作ったことでも知られる。日本初の理学博士の学位を受け、初代の東京学士会院(1879[明治12]年、研究者による議論や評論を通じ、学術の発展を図ることを目的に設置された政府機関で、改組後は帝国学士院を経て、現在の日本学士院となっている)会員となった。1901(明治34)年に死去するが、死に臨んで、学者として初の男爵を授けられた。明治期から大正期にかけての数学者、菊池大麓は、ケンブリッジ大学(イギリス南東部に所在する総合大学で、世界屈指の名門大学とされる)を卒業した初めての日本人留学生となり、近代数学を初めて日本にもたらした。数学者・教育者であると共に、政治的手腕もあった菊池大麓は、1901(明治34)年6月には、第1次桂内閣の文部大臣を拝命し、翌1902(明治35)年7月まで国政の枢機に携わった。明治期から昭和初期にかけての物理学者・教育者、山川健次郎は、陸奥国会津藩の出身で、会津戦争では白虎隊(若年の武家の男子によって構成された部隊)の兵士として明治政府と戦ったが、後に国費でアメリカへ留学する。1879(明治12)年、東京大学で、日本人として初の物理学教授となり、1901(明治34)年には、48歳の若さで東京帝国大学総長となった。なお、古代の日本にも博士の称号はあったが、これは官職名の1つで、学位としてのものではなかった。学位とは、大学等、高等教育機関や国家の学術評価機関等において、一定の教育課程の修了者、又は、それと同等の者に対して、学術上の能力、又は、研究業績に基づき授与される栄誉称号を言う。博士の学位は、日本において最上位の学位である。大学院博士後期課程(博士課程)修了者、或いは大学院への論文提出により、同等以上の能力を持つと認められた者に対しては、当該大学から授与される。前者を課程博士、後者を論文博士と呼ぶことがある。博士後期課程(博士課程)を修了するには、大学に学位論文を提出し、審査に合格しなければならない。日本の学位制度について、統一的に規定した勅令(天皇が発した法的効力のある命令)は、1887(明治20)年に制定された「学位令(明治20年5月21日勅令第13号)」が最初のものとなる。この「学位令」に基づいて、日本初の博士号が授与された訳である。また、当時は、博士の上に大博士の学位があったが、該当者は出ず、1898(明治31)年、「学位令」が全部改正されて「学位令(第二次改正、明治31年12月10日勅令第344号)」となったことにより廃止された。さらに、1920(大正9)年7月6日には、「学位令(第二次改正)」が廃止され、新たに「学位令(第三次改正、大正9年7月6日勅令第200号)」が制定された。第二次世界大戦後、1947(昭和22)年に学校教育制度の根幹を定める「学校教育法(昭和22年3月31日法律第26号)」が制定され、「学位令」は廃止された。学位制度は、「学校教育法」とその施行省令(文部省[現在の文部科学省の前身の1つ]令)である「学位規則(昭和28年4月1日文部省令第9号)」に基づくものとされた。「学位規則」により、日本の学位において、それまでの博士の学位に加え、修士の学位が創設され、日本の学位は大きく2種類とされた。それ以降、日本の大学院は、修士課程・博士前期課程(標準修業年限2年)、博士後期課程(標準修業年限3年)となり、所定の単位を修得し、学位論文その他の要件を満たす者に対して博士、又は修士の学位が授与されるようになった。1991(平成3)年7月よりも前に授与された博士号では、「博士」の前に専攻分野の名称を冠していたが(例えば、文学博士、医学博士、理学博士)、1991(平成3)年7月以降に授与された博士号では、「博士(文学)、博士(医学)」のように、「博士」に続けて、括弧内に専攻分野を併記するようになった。また、学位の名称の使用に際しては、授与大学名をも併記しなければならない、とされている。
粉の日。
5月7日の「5」と「7」で、「粉(こ[5])な[7])」の語呂合せから。小麦粉等、食料としての粉の有用な利用方法等をアピールする日。粉を食用にするには、粉を水等と均一に混ぜて捏ねたペースト状、又は液状のものにし、これを(場合により成形してから)加熱調理する場合が多い。このような水等との混合物を生地という。パスタ(ペースト、パテと同語源)とは、このような生地から製した食品を指す言葉である。この他、粉に湯を加えてそのまま食し(蕎麦掻き等)、或いは、粉を固めて食用とする(落雁[米等から作った澱粉質の粉に水飴や砂糖を混ぜて着色し、型に押して乾燥させた干菓子]等)場合もある。イカ焼き、又は焼きイカは、日本各地で食べられており、イカ(スルメイカ等)を丸ごと使用し、調理中に甘い醤油の香りが漂う。足だけを使用した料理は「ゲソ」と呼ぶ。元々、「ゲソ」というのは「下足(げそく)」、即ち、人が脱いだ履物を指す言葉であった。その内、人間の足そのものも「下足」、更に略して「ゲソ」と呼ぶようになったとされる。その後、寿司屋の店主がイカを刺身にする際、イカの胴体に対して10本の触手のことを「イカの足」、 つまり「イカのゲソ」と呼んでいたことから、次第にイカの触手を指す語として定着した。イカ焼きは、居酒屋のメニューに載る等、各種料理店で提供されているが、縁日等の屋台やバーベキューで食されることも多い。イカの姿焼きと呼ぶ地域もある。これに対し、大阪のイカ焼きは、小麦粉を主体とするいわゆる「粉もの料理」である。小麦粉の生地にイカの切り身を入れて焼き、甘辛いソースをハケ等で塗る。鉄板で押付けて焼くため、小麦粉に含まれるグルテン(小麦加工品を作る上で弾性や柔軟性を決定し、膨張を助ける重要な要素となっているたんぱく質の一種)の作用によってコシの強い、もちもちした食感がある。当初はせんべい職人の賄いとして、せんべいを焼く際に使用する鉄板を用い、焼いて食されていた物が、次第に店頭で販売されるようになった、とされる。時期は不明であるが、住吉大社(大阪市住吉区住吉にある、全国に約2,300社ある住吉神社の総本社)境内の屋台で販売されていたとも言われている。これが大阪において広く知られるようになったのは、1957(昭和32)年、大阪市北区梅田の阪神百貨店梅田本店に、イカ焼き店が出店したことがきっかけとされている。これを機に人気が出て、扱う店が増え、縁日等の臨時店舗や移動車で販売されることもある。阪神百貨店梅田本店地下1階の阪神食品館スナックパーク内のものは、行列ができる程の有名店で、1日に1万枚以上の売上げがあった。なお、阪神百貨店梅田本店は、2018(平成30)年春頃に百貨店を先行開業させ、2021(令和3)年秋頃の全面開業を目指して、2014(平成26)年から建替え工事に入っており、阪神食品館スナックパークも2015(平成27)年に営業を終了したが、イカ焼き等の一部店舗は食料品売り場内へ移転し、持帰り専門店として営業を継続していた。阪神百貨店梅田本店第一期棟は2018(平成30)年4月27日に竣工し、6月1日には阪神百貨店梅田本店が移転して、阪神食品館スナックパークも再開された。2022(令和4)年4月6日、阪神百貨店梅田本店は全面開店し、グランドオープンとなった。