5月7日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

コナモンの日。
大阪市浪速区幸町に所在する、コナモン(粉食、粉物)の認知と普及、また、粉物文化の継承と発展を主な目的として設立された任意団体、日本コナモン協会が2003(平成15)年に制定した。日付は、5月7日の「5」と「7」で、「粉(こ[5])な[7])」の語呂合せからで、たこ焼き・お好み焼き・うどん等、粉を使った食品「コナモン」の魅力をPRする日、としている。「コナモン」とは、主に穀粉等の食用粉を調理したものを指し、世界各地に存在する料理でもある。ところが、日本を代表するたこ焼き等のおやつ・間食、いわゆるB級グルメとされることが多い粉物料理については、本格的な文献、資料等が少ないとされる。日本コナモン協会の創立者となる生活文化研究家の熊谷真菜は、友人から「なぜ大阪にたこ焼き博物館がないのでしょうか」とのメールを受取ったことが動機となり、協会設立の準備へと至ったという。2003(平成15)年5月7日に、日本コナモン協会設立総会が東京都豊島区池袋で開催されている。日本コナモン協会は、「食シーンには欠かせない存在としての偉大なるコナモン」というキーワードの下、コナモンの魅力を「面白まじめ」に考えている団体である。また、日本コナモン協会には、粉を挽く「石臼」がモチーフとなっている「ウッスマン」と、小麦粉の原料である、麦を頭に纏った「小麦粉の精」である「コナモ」という、2体のゆるキャラ(ゆるいマスコットキャラクター)がいる。たこ焼きは、日本生まれの粉物料理の一種である。小麦粉の生地の中にタコ(主にマダコ)と薬味を入れて、直径3cmから5cm程の球形に焼上げた、大阪発祥とされる料理である。直径には大小の2種類があり、近年は「ジャンボたこ焼き」と呼ばれる大型のたこ焼きを売る店も増えているが、家庭では焼き易い小型のものが多い。明石焼き・ちょぼ焼き・ラジオ焼き(ラヂオ焼き)をルーツとしており、基本的には、おやつ・間食として食べられるが、ご飯のおかずとする地域もある。また、調理済たこ焼きの冷凍食品もあり、輸出入もされている。たこ焼きの創始者は、大阪市西成区にある「会津屋」の初代、遠藤留吉とされている。1933(昭和8)年、遠藤留吉は子どものおやつの屋台を中心に、明治期から大正期に流行していたスジ肉やコンニャクを具材として、丸く焼いた粉もの料理、ラジオ焼きを改良し、従来のコンニャクの代わりに、醤油味の牛肉を入れて肉焼きとして販売。1935(昭和10)年、タコと鶏卵を入れる明石焼に影響を受け、牛肉ではなくタコ・鶏卵を入れるようになり、たこ焼きと名付けた。遠藤留吉の故郷、会津の郷土料理であるこづゆ(海産物の乾物を素材とした汁物)の味付けを模したダシで、小麦粉を溶いて仕上げていたという。「会津屋」のたこ焼きは、生地に味が付いているため、何も掛けずに食べるが、第二次世界大戦前は、会津屋以外のたこ焼き屋でも、ダシや醤油風味で何もかけずに食べるたこ焼きが大半であった。第二次世界大戦前の大阪では、2個で1銭(現在の貨幣価値に換算すると約60円)程度の価格で売られていた。第二次世界大戦後、1948(昭和23)年にウスターソースを改良したとんかつソースが発明されたことにより、お好み焼き屋やたこ焼きにも用いられるようになったが、大阪では現在でも、古くから営まれているたこ焼き屋で、出汁や醤油風味のソースをかけないたこ焼きが売られている例がある。ソースの普及後、たこ焼きを販売する者が増え、また、週刊誌が大阪らしいものとして紹介したことで普及が加速し、1955(昭和30)年には、大阪市内でたこ焼き店が5,000軒はあるという説が出る程一般化した。その頃は10円で4個から6個という価格であった。お好み焼きは、各種の小麦粉を使用する鉄板焼きの一種であり、日本の庶民的な料理である。水に溶いた小麦粉を生地として、野菜、肉、魚介類等を具材とし、鉄板の上で焼上げ、ソース・マヨネーズ・青のり等の調味料を付けて食するものであるが、焼き方や具材は地域によって差が見られる。「関西風お好み焼き」・「広島風お好み焼き」等、多くの地域に様々な様式のお好み焼きが存在している。お好み焼きの起源は、安土桃山時代に茶人として名声と権威を誇り、政事にも大きく関わっていた千利休が作らせていた「麩の焼き(ふのやき)」であると言われている。その後、「麩の焼き」を起源として江戸末期から明治時代にかけ、味噌の代わりに餡を巻いて作る「助惣焼(すけそうやき)」が生まれる、明治時代には、材料を鉄板で調理して食べる「もんじゃ焼き」や、路上での飲食に適した形態の「どんどん焼き」が生まれた。1923(大正12)年の大正関東地震(関東大震災)の際には主食的位置を占め、大正時代から昭和時代にかけて、ウスターソースを使用する「もんじゃ焼き」や「一銭洋食」(水に溶いた小麦粉を鉄板で焼き、ネギ等を乗せて焼いた鉄板焼き料理)が、食料不足を補う方法としてもてはやされるようになる。コンニャクや豆といった具を入れ、醤油で味付けして食べる「ベタ焼」「チョボ焼」が誕生し、それが各種鉄板料理へと派生した。関西では、「混ぜ焼き」を特徴としており、これは「関西風お好み焼き」とも呼ばれる。大正末期には、兵庫県神戸市で「にくてん」が食べられていた。「にくてん」は、生地の上に様々な具を載せて焼上げたものであり、現在のお好み焼きはこの延長線上にある。また、広島では、第二次世界大戦終戦後「一銭洋食」を元に、ネギをキャベツに置換えたり、「もやし」や「そば」等の具材追加で、乗せ焼きが特徴の広島風お好み焼きが誕生した。関西では「お好み」と略して呼ばれることもある。大阪を中心とする関西地方のお好み焼きには、様々な調理方法があるが、小麦粉の生地に、刻んだキャベツや魚介類等の具材を混ぜ合わせて焼くことが多い。食感を軽くするために、生地の中に山芋を混ぜ込むことも多い。それ以外にも、鉄板に生地を薄く敷き詰め、その上に具材や多量のネギを載せて焼く「一銭洋食」のようなスタイルや、同様に鉄板に薄く延ばした生地に多量のキャベツと具材を載せて、更に上から生地を少量かけながら焼上げる「重ね焼き」が主流の地域もある。キャベツや鶏卵がいつ頃から定番の食材になったかについては、はっきりしたことは分かっていない。キャベツそのものは冬性の季節性野菜であったが、1904(明治37)年頃から普及しており、決して高価な食材ではなかった。高級レストランでは生食されていたが、一般的ではなく、家庭では油炒めにしたり、汁物の具材等に利用されていた。1955(昭和30)年頃には、ソース焼きそばの具材として既に定番であって、お好み焼きにもこの頃には定番化されていたと見られる。鶏卵(玉子)については、大規模養鶏が導入されたのは昭和30年代であり、第二次世界大戦後暫くまでは高級食材であった。現在もデフォルト(標準のもので、何もしないこと)の仕様が玉子なしの店は少なからず存在し、玉子を追加する場合は、「豚玉」「いか玉」のように、メインとなる具材の後に「玉」を付けて注文する。関西地方においても、第二次世界大戦前は、生地を薄く引いた上に具材を重ねて焼上げる、いわゆる「洋食焼き」が主流であった。昭和期の初めに東京で、生地と具材を混ぜて焼く「お好み焼き」が誕生し、それが遅れて大阪にも伝わった。1937(昭和12)年には、老舗として知られた「以登屋」が北新地(現在の大阪市北区に所在する、東京の銀座と並ぶ高級飲食店街)近くに開店しているが、東京式に客が自分で焼くスタイルであったという。戦後になり、混ぜ焼きのお好み焼きは、それまでの洋食焼きに代わって関西一円に広まった。終戦直後は「代用食」としての位置付けでもあったため、子どものおやつや嗜好品であった戦前に比べ、サイズやボリュームも必然的に大きくなった。