5月5日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

端午の節供(端午の節句、菖蒲の節供)。
この日は邪気を払う為、菖蒲や蓬を軒に挿し、粽や柏餅を食べる。旧暦では、午の月は5月に当たり、この午の月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、後に、5が重なるこの月の5日が、端午の節句の日になったという。「端」は物の「はし」、つまり「始り」という意味で、「午」は「五」に通じることから、元々「端午」は、月の始めの五の日を意味した。その中でも、月と日の数字が重なる5月5日は、特にめでたい日として「端午の節供」と呼ぶようになった。同じように、奇数の月番号と日番号が重なる3月3日、7月7日、9月9日も節句になっている。日本では、男性が戸外に出払い、女性だけが家の中に閉じ籠もって、田植えの前に穢れを祓い、身を清める儀式を行なう五月忌み(さつきいみ)という風習があり、これが中国から伝わった端午と結び付けられた。即ち、端午は元々、女性の節句であった。しかし、「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであることから、鎌倉時代頃から男の子の節句とされ、甲胄・武者人形等を飾り、庭前に鯉のぼりを立てて、男の子の成長を祝う節供となった。因みに、「節句」ではなく、「節供」と書くのが本来であるが、現在では、「節句」の表現も一般的なものとなっている。菖蒲は、池や川等に生える単子葉植物の一種であり、薬草や漢方薬としても用いられている。茎は湿地の泥の中を短く横に這い、多数の葉を伸ばす。葉は左右から扁平になっている。花は目立たない黄緑色で、5月頃に咲く。中国では古来より、菖蒲の形が刀に似ていること、邪気を祓うような爽やかな香りを持つことから、男子にとって縁起の良い植物とされ、家屋の外壁から張出した軒(のき)に吊るしたり、枕の下に置いて寝たりしていた。日本でも、奈良時代の第45代天皇、聖武天皇の頃より、端午の節句に使われ始め、武士が台頭してからは、「しょうぶ」の音に通じるので、「尚武」(武道・武勇を重んじること)という字が当てられるようになる(勝負にも通じる)。また、芳香のある根茎を風呂に入れ、菖蒲湯として用いたりする。蓬は、キク科の多年草で、日本全国至る所に自生し、地下茎はやや横に這い、集団を作る。繁殖力が強い植物で、茎は立上がり、やや木質化する。葉は大きく裂け、裏面には白い毛を密生する。夏から秋にかけ、茎を高く伸ばし、目立たない花を咲かせる。特有の香りがあり、春に摘んだ新芽を茹で、おひたしや汁物の具、草餅(蓬餅)にして食べる。また、天ぷらにして食べることもできる。菖蒲や蓬は、魔除けや厄払いの霊力があると考えられ、菖蒲酒を飲んだり、粽や餅を作って食べたり、風呂に入れたりして、穢れや災厄を祓ったという。粽は、もち米やうるち米(通常の米飯に用いられる米)、米粉等で作った餅、若しくはもち米を、三角形(又は円錐形)に作り、ササ(中国語: 粽葉)等の葉で包み、イグサ等で縛った食品である。葉ごと蒸したり茹でて加熱し、葉を剥いて食べる。元々は中国で作られた料理で、日本へは平安時代頃に伝わった。日本では、米粒の原型を留めないものが多く、中国では、米粒の原型が残り、かつ米以外の具を加えているものが多い。日本では、ササではなくチガヤ(古くから親しまれた草の一種)の葉で巻いて作られたため、「茅巻き(ちまき)」と呼ばれるようになった、との説がある。この粽は、端午の節句のルーツとなるエピソードで、重要な役目を果たしたという。 今から約2,300年前の中国に、屈原(くつげん)という詩人がいた。屈原は、国王の側近として仕え、その正義感と国を思う強さで人々から大変慕われていたが、陰謀によって失脚し、国を追われてしまう。その時の思いを詠った「離騒(りそう)」という長編叙事詩は、中国文学の名作となるが、国の行く末に失望した屈源は、汨羅(べきら)という川に身を投げてしまう。その日が5月5日で、屈原の死を悲しんだ国民達は、川に沈んだ屈源が魚に食べられてしまわないよう、小船の上から太鼓を叩いて魚を脅したり、供物を投入れて弔った。ところが、折角川に捧げた供物も、屈原の元に届く前に悪い龍に盗まれてしまう。そこで、龍が苦手にしている楝樹(れんじゅ)の葉で餅米を包み、邪気を払う五色の糸で縛ってから川へ流すようにしたところ、無事に屈原の元へ届くようになったという。こうして粽が誕生し、5月5日に粽を作って災いを除ける風習が端午の節句となった。また、粽に結んだ赤・青・黄・白・黒の五色の糸は、子どもが無事に育つように、との魔除けの意味を込め、鯉のぼりの吹流しの色に反映されている。柏餅は、平たく丸めた上新粉の餅を2つに折り、間に餡を挟んでカシワ等で包んだ和菓子である。柏餅を食べる風習は日本独自のもので、端午の節句の供物として用いられるが、カシワの葉は新芽が育つまでは古い葉が落ちないことから、「子孫繁栄(家系が途切れない)」という縁起を担いだものとされる。また、カシワは、昔から神聖な木とされ、カシワ(柏)の木に神が宿っていることから「拍手を打つ」と言う言葉が生まれた。端午の節句に柏餅を食べるという文化は、元々は江戸で育まれたものである。柏餅が登場したのは、江戸幕府第9代将軍徳川家重から江戸幕府第10代将軍徳川家治の頃で、参勤交代で日本全国に行き渡ったとされている。なお、カシワが手に入り難い西日本の地方では、丸い形をしたサルトリイバラというの葉が使われることが多い。
鯉のぼり。
鯉のぼり(鯉幟)とは元来、日本の風習で、江戸時代に武家で始まった、端午の節句である旧暦の5月5日までの、梅雨の時期の雨の日に、男児の出世と健康を願って、家庭の庭先で飾られた紙・布・不織布等に鯉の絵柄を描き、風をはらませてなびかせる、吹流しを鯉の形に模して作ったのぼりで、皐幟(さつきのぼり)、鯉の吹流し等とも言う。現在は、一般的には、グレゴリオ暦(新暦)5月5日に向けて飾られ、夏の季語として用いられる。飾られる季節も変わり、イメージは「晩春の晴天の日の青空にたなびくもの」となった。 但し地方により、端午の節句を祝う時期が違うので、旧暦の端午や、1ヶ月遅れのグレゴリオ暦(新暦)6月5日とする地方もある。本来は真鯉(黒い鯉)のみで、明治時代から真鯉(まごい)と緋鯉(ひごい)の対で揚げるようになったが、昭和時代からは家族を表わすものとして、子鯉(青い鯉)を添えたものが主流となった。但し、過渡的に、黒と青だけという組合わせもみられた。また、真鯉に、赤い裸の男の子がしがみ付いている柄のものがあるが、これは金太郎とみられ、金太郎が自分より大きい鯉を捕まえた伝説を元にしているとみられる。最近では、緑やオレンジといった、より華やかな色の子鯉も普及してきており、所によっては、女の子も含め、家族全員の分の鯉を上げる家もある。暖色の子鯉の増加は、そういった需要に応えてのことのようである。竿の先に、回転球やかご玉、その下に矢車を付け、五色、若しくは鯉等を描いた吹流しを一番上に、以下、真鯉、緋鯉、等を、大きさの順に並べて揚げるのが一般的である。なお、都市周辺では、1980年代以降の住宅事情(庭付き一戸建て住宅の減少と、マンション等、集合住宅の増加)や少子化等のため、童謡に歌われるような、民家の庭に高々とこいのぼりが揚がる姿を見ることは少なくなっている。「江戸っ子は皐月の鯉の吹流し」と言われるように、鯉のぼりは、「幟(のぼり)」とは名付けられているものの、形状は、魚を模した吹流し形である。そもそも、鯉のぼりは門松や雛人形と同じく、江戸時代中期の裕福な庶民の家庭で始まった習慣であった。端午の節句には、厄払いに菖蒲を用いることから、別名「菖蒲の節句」と呼ばれ、武家では、菖蒲と「尚武」とを結び付けて、男児の立身出世・武運長久を祈る年中行事となった。この日、武士の家庭では、虫干しを兼ねて、先祖伝来の鎧や兜を奥座敷に、玄関には旗指物(のぼり)を飾り、家長が子ども達に訓示を垂れた。一方、黄表紙(絵入り娯楽本の1つ)の挿絵等を見ると、大きな経済力を身に付けながらも、社会的には低くみられていた商人の家庭では、武士に対抗して、豪華な武具の模造品を作らせ、幟(のぼり)の代わりに、五色の吹流しを美々しく飾るようになっている。さらに、吹流しを飾るだけでは芸がないと考えたのか、一部の家庭で、「竜門」の故事に因んで、吹流しに鯉の絵を描くようになった。現在の魚型の鯉のぼりは、さらにそこから派生したものである。但し、これは主に、江戸を含む関東地方の風習で、当時の関西(上方)には無い風習であった。