5月1日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

扇の日。
京都市左京区岡崎成勝寺町に所在する事業協同組合、京都扇子団扇商工協同組合が1990(平成2)年に制定。平安時代中期の女性作家で歌人、紫式部が作者と考えられている長編物語で、日本文学史上最高の傑作とされる『源氏物語』では、女性が主人公の光源氏に扇を贈っていることから、「恋(こ[5]い[1]」)」の語呂合わせで記念日とした。古くは扇と呼ぶのが普通であった扇子は、数本から数十本の細長い竹や木でできた骨を束ねて端の一点(要)で固定し、使わない時は折畳み、使用時に展開する。骨には大抵、紙が貼られており、展開すると紙を貼られた部分が雁木(雁[カモ目カモ科の鳥の内、ハクチョウ類を除いた大形のものの総称]の列のような、ぎざぎざの形や模様形)の扇面となる。折畳むことでコンパクトに納めることができる。開閉の方法は、骨を右手親指でずらすように押すことで開く。一般的には右利き用であるが、左利き用も販売されている。また、扇子そのものを振ることで開く方法もある。折畳んだ際の形状が持運びに優れていることから、夏場の外出時での涼みに使えるとして、愛用する人も多い。扇子を開く角度は概ね90度から180度の間であり、円を三等分した中心角120度前後のものが主流である。扇子を開いた形は「扇形」(おうぎがた/せんけい)と称し、幾何学の用語にもなっている。このような扇子の形状は「末広がり」(広がり栄える意)に通ずるので縁起のよいものとされ、めでたい席での引出物としても用いられる。「扇」という漢字は、本来軽い扉のことを意味し、そこから転じて、手で扇いで風を起こす道具の一種であるうちわ(団扇)のことをいうようになった。うちわ(団扇)は文明発祥時から存在するが、木の薄板を重ね、紙を折畳んで製作する扇は日本で発明されたものである。最初に現れた扇は、30cm程の長さに約2cmから約3cm幅の薄い檜の板を重ねて作る檜扇と呼ばれるもので、これは、奈良時代の実例が発掘されている。紙は貼られておらず、その起りは一説には、木簡を束ね一方の端に穴を開け、そこに紐等を通して縛ったものという。また、檜扇のそもそもの用途は開いて扇ぐものではなく、メモ帳として物を書付けるものであった。後に檜扇は、冬の季節の扇とされた。その後、平安時代の中頃までに、5本、又は6本の細い骨に紙を貼った蝙蝠扇(かはほりあふぎ)が夏の扇として現れる。これが、現在一般に見られる扇の原型であるが、この頃の紙貼りの扇は、扇面の裏側に骨が露出する形式であった。平安時代には、扇は、扇ぐという役割だけでなく、儀礼や贈答、コミュニケーションの道具としても用いられた。具体的には、和歌を書いて贈ったり、花を載せて贈ったりしたことが、『源氏物語』等、多くの文学作品や歴史書に記されている。このように扇は、涼を取ったりもてあそび物にされる一方で、時代が下るにつれ、儀礼の道具としても重んじられ、公家や武家、また、一般庶民の別なく、日常や冠婚葬祭での持ち物の1つとされた。 
水俣病啓発の日。
1956(昭和31)年5月1日、熊本県水俣市の保健所に、市内の新日本窒素肥料株式会社(現在のチッソ株式会社の前身)水俣工場付属病院から「原因不明の奇病」の報告があり、これが、水俣病が広く知られるきっかけとなった。50年目の2006(平成18)年に、公害の水俣病を忘れない日にと、記念日が制定された。水俣病は、日本の化学工業会社、新日本窒素肥料株式会社の熊本県水俣市にある水俣工場が、水俣湾(九州本土と天草諸島に囲まれた内海、八代海に面した小さな湾)に流した廃液による、水銀汚染の食物連鎖で起きた公害病である。そして、環境汚染の食物連鎖で起きた人類史上最初の病気である。第二次世界大戦後の日本経済が飛躍的に成長を遂げた、1954(昭和29)年12月から1973(昭和48)年11月までの約19年間の時期である日本の高度経済成長期に発生した四大公害病の1つであり、「公害の原点」とも言われる。また、工業災害における犠牲者の多さでも知られる。なお、水俣湾は、環境庁(現在の環境省の前身)の調査によって安全が確認され、現在では漁が行なわれている。工場から持続的に排出されたメチル水銀化合物(無色揮発性の液体で、強い神経毒性を示す)が水中諸生物間の食物連鎖を経由することにより、魚介類の体内で高度に再濃縮され、その有毒化した魚介類を繰返し大量に摂取して、中毒性の中枢神経系疾患が発症したとされる。高度経済成長期に発生し、「公害の原点」とも言われる水俣病は、工業災害における犠牲者の多さでも知られる。水俣病の症状としては、四肢末梢神経の感覚障害、運動失調、求心性視野狭窄、聴力障害、平衡機能障害、言語障害、手足の震え等がある。患者には、特異な神経症状を呈して意識不明や死亡する重症例から、頭痛や疲労感、耳鳴り等の軽症例まで、多様な形態が見られた。水俣病と認定された患者の数は約2,300名で、その内の約1,800名が死亡した。この水俣病に加え、第二水俣病(水俣病と同様の症状が確認されたためにこの名があり、新潟県阿賀野川下流域で患者が発生したことから、新潟水俣病等とも呼ばれる、化学工業会社、昭和電工株式会社の廃液による水銀汚染の食物連鎖で起きた公害病)、イタイイタイ病(岐阜県の非鉄金属メーカー、三井金属鉱業株式会社神岡事業所[亜鉛・鉛・銀鉱山の神岡鉱山]による鉱山の製錬に伴なう未処理廃水により[この病気の原因であるカドミウムは、化学的挙動が亜鉛と非常に良く似ており、常に亜鉛鉱と一緒に産出する]、神通川下流域の富山県で発生した公害で、患者が「痛い、痛い[いたい、いたい]」と泣き叫んだことが病名の由来となっている)、四日市ぜんそく(現在の三重県四日市市に所在する四日市コンビナート[原料や製品を有機的に結び付けた、石油貯蔵施設や化学工場等の集合、石油化学コンビナートの、日本初の本格的ものとされる]から発生した大気汚染による集団喘息障害)の4つは、四大公害病と呼ばれる。なお、足尾鉱毒事件(足尾銅山鉱毒事件)は、明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた、日本で初めてとなる足尾銅山での公害事件である。100年公害と言われたこの事件の原因企業は、1974(昭和49)年に至って、古河鉱業株式会社(現在の非鉄金属・産業機械の大手メーカー、古河機械金属株式会社の前身)と断定される。銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水等の有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり、国に問題提起するものの、精錬所は1980年代まで稼働し続け、2011(平成23)年に発生し、東日本大震災を引起した東北地方太平洋沖地震の影響で、渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出される等、21世紀となった現在でも影響が残っている。水銀、及び水銀を使用した製品の製造と輸出入を規制する国際条約、「水銀に関する水俣条約(水銀条約、水俣条約、平成29年条約第18号)」は、地球規模の水銀、及び水銀化合物による汚染や、それによって引起こされる健康、及び環境被害を防ぐため、国際的に水銀を管理することを目指すものである。2013(平成25)年から、日本国政府の主導で、発展途上国で水俣病のような、水銀による健康被害や環境汚染が起きていることから、悪化を防ぐために、一定量以上の水銀を使った製品の取引き等を、国際的に規制する目的で採択された。この条約の準備会合は、2013(平成25)年の10月7日から翌10月8日まで、熊本県で行なわれた。