5月1日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

日本赤十字社創立記念日。
1877(明治10)年5月1日、西南戦争(現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県で、元薩摩国/大隅国薩摩藩藩士から陸軍軍人・政治家となり、政府首脳陣と対立して下野した西郷隆盛を盟主として起こった士族による武力反乱)の負傷者を救おうと、元肥前国佐賀藩(鍋島藩)藩士で、明治初期の日本の立法機関である元老院の議官(元老院を組織した議員)であった佐野常民と、元信濃国田野口藩藩主で、同じく元老院議官であった大給恒らが、敵味方の区別なく救護を行なう、国際赤十字の精神を発現する博愛社の設立を請願した。日本赤十字社の前身となった、この博愛社の結成に因み、日本赤十字社は5月1日を創立記念日としている。日本赤十字社(日赤)は、日本における赤十字社(戦争や天災時の傷病者救護活動を中心とした人道支援団体)である。1952(昭和27)年に制定された「日本赤十字社法(昭和27年8月14日法律第305号)」によって設立された認可法人(特別の法律に基づいて数を限定して設立されるもの)であり、社員と呼ばれる個人、及び法人参加者の結合による社団法人(一定の目的で構成員[社員]が結合した団体[社団]の内、法律により法人格が認められ、権利義務の主体となるもの)類似組織である。日本赤十字社の基本精神は、人道・公平・中立・独立・奉仕・単一・世界性である。佐野常民は、1867(慶応3)年のパリ万国博覧会(フランスの首都パリで開催された、日本が初めて参加した国際博覧会)に参加し、その万国博覧会会場で、国際赤十字の組織と活動を見聞した。佐野常民は、その時の知識を元に、共に元老院議官であった大給恒らと、戦争の悲惨な状況が拡大していることに鑑みて、大日本帝国陸軍の軍政機関(軍隊に関する事務を統括する行政組織)である陸軍省に、敵味方の区別なく救護を行なう赤十字の精神を発現する博愛社として、救護班を派遣することを願い出た。しかし、陸軍卿代行(当時の陸軍省の長)の西郷従道(西南戦争の盟主となった西郷隆盛の弟)は、内戦は国家間戦争とは異なり、逆賊(犯罪者)の救護は赤十字の救護とは言えないのではないかとして、その精神に理解を示さず、設立を許可しなかった。そこで、佐野常民らは、元老院議長で鹿児島県逆徒征討総督であった皇族・政治家・陸軍軍人の有栖川宮熾仁親王に直接、設立と救護班の派遣を願い出る。逆徒であるが、天皇の臣民である敵方をも救護するその博愛の精神を、有栖川宮熾仁親王は嘉し、中央に諮ることなく設立を認可した。但し、敵味方共に助けるというその思想が、一般兵士にまでは理解されず、双方から攻撃、若しくは妨害等を受け死者が出たと言われている。博愛社は、国際赤十字の精神を発現する団体として創設され、赤十字として認知されるよう活動していたが、1886(明治19)年、「戦地軍隊における傷病者の状態の改善に関する条約(ジュネーヴ条約、赤十字条約)」に調印した政府の方針により、翌1887(明治20)年に日本赤十字社と改称し、特別社員、及び名誉社員制度を新設した。当時、西ヨーロッパ諸国の王室、皇室は赤十字活動に熱心であり、近代化を目指す日本でも、昭憲皇太后(第122代天皇、明治天皇の皇后)が積極的に活動に参加し、正式紋章「赤十字竹桐鳳凰章」は、昭憲皇太后の宝冠のデザインを模倣して制作され、また、昭憲皇太后の示唆により、後に制定された。これ以後、華族や地方名望家が指導的立場に就いた。全国に赤十字運動への理解と普及を目指していた最中の1888(明治21)年7月、福島県北部にある磐梯山が、巨大な水蒸気爆発により山体崩壊を招き、大災害を引起こした。 このため、当時国際紛争解決に向けた人道組織であった赤十字を、自然災害にも活用すべく政府に願い出た。赤十字として、国際的にも例がない戦時以外の活動であったが、政府は了としたため、すぐさま救護班を現地に派遣、救援活動を行なった。第二次世界大戦対米英戦が勃発すると、赤十字救護班は積極的に戦地に赴き、多くの殉職者を出すこととなった。第二次世界大戦対米英戦終結後は、捕虜と共に民間人として現地に抑留された救護班は、収容された日本人に対する救護を行なった。第二次世界大戦対米英戦敗戦直前の原爆被害者に対して、国際赤十字委員会と日本赤十字社は積極的に救護を行ない、現在でも、日本赤十字社は、広島と長崎に原爆症患者を救護する病院を経営している。また、占領下の日本では、衛生状態が深刻な状態にあり、日本赤十字社では駅等に救護所を設けて、病院内外での救護活動を活発に行なった。第二次世界大戦前の日本赤十字社は、陸軍省、海軍省(大日本帝国海軍の軍政機関[軍隊に関する事務を統括する行政組織])管轄の社団法人で、第二次世界大戦後は厚生省(現在の厚生労働省の前身の1つ)管轄を経て、現在は厚生労働省管轄の認可法人であり、設立の経緯もあって伝統的に皇室の援助が厚く、皇后を名誉総裁とし、皇太子他の皇族を名誉副総裁としている。1995(平成7)年1月17日に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)では、各国赤十字社の救援を受けた。特に、スイスからの災害救助犬(地震や土砂崩れ等の災害で、倒壊家屋や土砂等に埋もれ、助けを必要とする人を、主にその嗅覚によって迅速に発見し、その救助を助けるように訓練された犬)の派遣は前例がなく、受入れにスムーズさを欠いたが、活動開始後は被害者の救出に威力を発揮し、災害救助犬の重要性を認識させた。ヨーロッパでは、古くから牧羊犬(牧場で放牧している家畜[主に羊]の群れの誘導や見張り、人間による盗難やオオカミ等の捕食動物から守るように訓練された作業犬)を使っていたという歴史があり、早くから災害救助犬の育成を行なっている。スイスは、山岳救助に犬を使っていたことから、災害救助犬の始まった国であるとも言われており、陸軍が育成を担当している。2016(平成28)年には、日本赤十字社発祥の地とされる洋館「熊本洋学校教師ジェーンズ邸」が、気象庁マグニチュード(Mj)7.3の規模で、最大では、気象庁震度階級(地震の揺れの大きさを階級制で表わす指標で、日本で使用されている独自の震度階級)では最も大きい震度7(激震)を観測した、4月16日未明の平成28年熊本地震(本震)で全壊した。博愛社の本拠は、現在の東京都千代田区富士見に所在する、東京逓信病院の付近にあった桜井忠興邸であり、この場所に「日本赤十字社発祥地」という木碑が、東京都千代田区によって建てられている。摂津国尼崎藩第7代藩主であった松平忠興は、桜井松平家(江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体、松平氏の庶流[本家より別れた一族]で、三河国碧海郡桜井[現在の愛知県安城市]を領していた)第10代当主で、1868(慶応4)年の戊辰戦争では新政府に恭順し、所領を安堵され、徳川氏との訣別の証として、姓を桜井と改称する。1873(明治6)年に東京へ移住した後、博愛社(後の日本赤十字社)の設立者の内の1人となった。桜井忠興(松平忠興)が、摂津国尼崎藩の最後の藩主であったことから、兵庫県尼崎市南城内に所在する尼崎城址の一角に建立された桜井神社には、博愛社の記念碑がある。なお、尼崎城跡の一部には尼崎城址公園が整備され、石垣、及び土塀が模擬復元されている。公園内には尼崎市立中央図書館があり、2018(平成30)年になって、公園中央付近には、資産家の寄贈による外観復元天守が完成した。