4月29日 できごと その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1942年 - 指揮者・作曲家、近衛秀麿の新交響楽団(新響)の運営に日本放送協会(NHK)が参画し、日本交響楽団と改称される(日本最初のプロ・オーケストラであるNHK交響楽団の前身)。日本のオーケストラにとってパイオニア的存在であり、「おやかた」という愛称で親しまれていた近衛秀麿は、異母兄に華族(近代日本の貴族階級)・政治家で、第34代・第38代・第39代首相を務めた近衛文麿がいる。近衞家は、皇室内で雅楽を統括する家柄であるが、近衛秀麿は、近衛文麿の影響で、音楽に興味を持つようになったという。1925年には、日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した作曲家・指揮者、山田耕筰と協力し、日本交響楽協会を設立するが、翌1926年には、近衛秀麿以下、中心メンバーが日本交響楽協会を離脱し、新交響楽団(新響)を結成する。そして、近衛秀麿が新交響楽団(新響)の常任指揮者となり、放送が開始されたばかりの日本放送協会(NHK)と契約することになる。近衛秀麿は、新交響楽団(新響)と共に、日本に交響楽を根付かせる運動に奔走し、1930年には、19世紀末から20世紀初頭に、主としてオーストリアの首都ウィーンで活躍した作曲家・指揮者で、交響曲と歌曲の大家として知られる、グスタフ・マーラーの『交響曲第4番』を世界初録音している。また、近衛秀麿の提案により、新交響楽団(新響)は4名の女性楽員を入れたが、これが、学校付属のもの等を除けば、日本のオーケストラに女性が入った嚆矢(ものごとの始まり)となっている。  
1945年 - イタリアの政治家で、国家ファシスト党(かつて存在したイタリア王国の政党)による一党独裁制を確立したベニート・ムッソリーニの銃殺死体が、イタリア共和国北西部にあるミラノのロレート広場で、逆さ吊りにして晒される。 
1945年 - ナチス・ドイツ(国家社会主義ドイツ労働者党支配下のドイツ国)指導者(総統)アドルフ・ヒトラーと、元々はヒトラー専属カメラマンのモデル兼助手であったエヴァ・ブラウンが結婚。2人は翌日に自殺する。 
1945年 - 第二次世界大戦・イタリア戦線: ドイツ国防軍C軍集団の代理、フォン・シュヴァイニッツ中佐とヴェンナー親衛隊少佐が、イタリア南部にあるカゼルタ宮殿で、地中海作戦戦域最高司令官ハロルド・アレキサンダーイギリス陸軍元帥への降伏文書に署名する。
1946年 - 極東国際軍事裁判: A級戦犯(連合国による極東国際軍事裁判[東京裁判]で罪に問われた日本の指導者)28名が起訴される。 
1947年 - 茨城県那珂郡那珂湊町(後の茨城県那珂湊市、現在の茨城県ひたちなか市の南東部)で、焚き火の不始末が原因による大規模な火災が発生する。負傷者6名、焼失家屋1,134戸。 
1949年 - 国際オリンピック委員会(IOC)が、日本とドイツのオリンピック復帰を承認する。
1951年 - 沖縄県にある地域政党、沖縄社会大衆党等が日本復帰促進期成会を結成。 
1952年 - 東京都三鷹市に本部を置く私立大学、国際基督教大学(ICU)が開学。国際基督教大学(ICU)は、開学当初から、特定の学問に偏らず、人文科学、社会科学、自然科学、芸術等を横断的に学ぶ、ベラル・アーツ・カレッジとして、教養学部1学部のみを置く。「平和」「学術基礎」「専門知識」を統合しながら、日英バイリンガリズムによる世界基準の「全人教育」を行なうことを教学方針としている。 
1954年 - 中華人民共和国とインドが「中華人民共和国とインド共和国の中国チベット地方とインド間の通商・交通に関する協定」に調印。前文で、平和五原則(領土・主権の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存)を堤唱する。 
1956年 - 日ソ漁業交渉が開始される。
1966年 - 長身・美形の二枚目俳優として、若手トップスターとなり、数多くの映画に主演した宝田明と、1959年の日本人初のミス・ユニバースの栄冠に輝いたモデルの児島明子が結婚。2人は二男一女をもうけたが、1984年に離婚する。 
1967年 - 日本女子プロレス旗揚げ。日本女子プロレスは1972年に、旗揚げから5年で崩壊するが、人脈的に辿れば、現在の日本の大半の女子団体が、この日本女子プロレスに行き着くことになる。1954年11月19日、蔵前国技館(両国国技館[2代目]が造られるまで、東京での大相撲の本場所を開催しており、プロレスやボクシング等の興行も行なわれていた、東京都台東区蔵前に所在した国技館)で「世界女子プロレスリング大試合」が開かれ、女子プロレス世界王者のミルドレッド・バークらが参戦する。翌1955年には、女子プロレス団体が相次いで設立され、当時存在した、女子プロレス団体を統括するコミッション組織「日本女子プロレスリング連盟」が設立に至り、9月10日と9月11日、両国メモリアルホール(初代の両国国技館が連合国軍最高司令官総司令部[GHQ]により接収され、改称・改装された施設)で「全日本女子プロレスリング王座決定トーナメント」が開催され、最初の日本女子王者が決定する。大会は大盛況で終えたが、その後はさらなる女子プロレス団体の乱立と興行の連発で衰退が続いている。1967年4月19日、そんな状況を変えようと、乱立する団体を統合して日本女子プロレス協会が設立され、4月29日、東京都台東区今戸に所在する台東区体育館(特に、プロレス会場として名が高く、ジャイアント馬場・アントニオ猪木デビュー戦を始め、国際プロレス旗揚げ戦、日本女子プロレス旗揚げ戦、昭和の名勝負が数多く生まれたが、老朽化のため改修工事に入り、台東リバーサイドスポーツセンター体育館として生まれ変わっている)で旗揚げ戦を開催して「日本選手権シリーズ」を開始する。それまでのお色気的見世物であった女子プロレスはやがて、スポーツライクなものに仕上げられる。
1967年 - 世界ヘビー級チャンピオンであったアメリカのプロボクサー、モハメド・アリが、徴兵拒否を理由にタイトルを剥奪される。 
1968年 - アフリカ系アメリカ人を中心とする貧困層の経済的不公正の是正と地位向上を求めた運動「貧者の行進」のデモが、アメリカ各地からアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.へ向けて出発。 
1968年 - アメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州ニューヨーク市にあるブロードウェイ(ニューヨーク市の中心街、マンハッタンを南北に走る目抜き通り)のビルトモア劇場で、ミュージカル『ヘアー』が開演。『ヘアー』は、ミュージカルの代名詞ともなっているブロードウェイに、ロックを持込んだ最初のミュージカルであることから、「ロック・ミュージカルの元祖」等と呼ばれる。
1973年 - 玩具メーカーのツクダ(現在の玩具開発・販売会社メガハウスの事業部の1つ、パルボックス)が、2人用のボードゲーム『オセロ』を発売。『オセロ』とは、交互に盤面へ石を打ち、相手の石を挟むと自分の石の色に変わるゲームである。最終的に石の多い側が勝者となる。単純なルールながら、ゲームとしての複雑さは、人間がゲームの木(プレイヤーがある順序に従って、他のプレイヤーの行動を見ながら行動するゲーム[交互進行ゲーム]において、プレイヤーの行動する順序を含めた形で整理する方法)の全展開を把握可能な程度を越えており、2014年9月現在、まだ、コンピュータによる全解析は達成されていない。『オセロ』を商標として登録し、用品等を商品として販売していたツクダは、「A minute to learn, a lifetime to master(覚えるのに1分、極めるのに一生)」がこのゲームキャッチフレーズであるとしていた程である。一般名としては、特に英語圏では『リバーシ(Reversi)』としても知られている。 
1975年 - ベトナム戦争: フリークエント・ウィンド作戦が始まる。フリクエント・ウィンド作戦は、ベトナム戦争末期に南ベトナム(ベトナム共和国)の首都サイゴン(ベトナム南部に位置する現在のホーチミン市)からの航空機により行なわれた脱出作戦である。約24時間の間に、在留アメリカ市民1,373名、南ベトナム市民、及びその他の国籍者5,595名が、アメリカ軍とエア・アメリカ(中央情報局[CIA]が東南アジアで秘密作戦を行なうために設立した航空会社)のヘリコプターにより、沖合いのアメリカ海軍艦船に脱出する。 
1975年 - 女優菊容子殺害事件。東京都新宿区の自宅で、女優の菊容子が、将来の結婚を前提に交際していた無名俳優に殺害される。 
1977年 - 柔道家の山下泰裕が、全日本柔道選手権大会で史上最年少の19歳で優勝。 
1978年 - 登山家・冒険家の植村直己が、単身犬ぞりで北極点に到達する(世界初の単独行)。