4月29日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

木造住宅の日。 
地域の文化、気候、風土に最も適した住宅である木造住宅の良さを広くPRしようと、石川県金沢市松島に所在する業界団体、社団法人石川県木造住宅協会(現在は、一般社団法人となっている)が制定した日。地場産業として、地域経済の重要な役割を担ってきたこともアピールしていく。なお、住宅の「住」を読替えると数字の「十」に、漢字の「木」を分解すると数字の「十」と「八」になることから、東京都港区六本木に所在する業界団体、社団法人日本木造住宅産業協会(現在は、一般社団法人となっている)が1998(平成10)年に、10月18日を「木造住宅の日」としている。「日本の木造住宅の寿命は30年」とも言われるが、構造体(骨組み・軸組・基礎)に使われる木材の耐久年数から算出した寿命は約80年ともされる。適切に乾燥が保たれて、構造体に使われている木材に腐食の被害がなければ、木造住宅は80年以上経っても住むことができるという。建造されてから時を経たものをいう古民家に使われている木材は、現在のハウスメーカーに代表される安易な方法とは異なり、いわゆる適材適所が採用され、腐り易い部分には欅、栗、檜等が使用され、梁には強度の高い松、内装には杉等の目に優しく木目の美しい木材や、調湿効果に優れた素材が使い分けられる。このため、メンテナンスさえ怠らなければ、概ね200年から300年は持つように作られている。囲炉裏の煙でじっくり燻された木材は、時を経る毎に味のある色に変化していく。また、部屋の奥に入るに従って、外光が減衰していく。明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き、終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た作家の谷崎潤一郎は、この光の演出こそが、日本人の美学に馴染むものである、としている。木材は、比強度(単位重量当たりの強度)が高い。即ち、軽い割には高強度である。このことは、基礎が比較的簡素なもので済むことを意味する。また、木構造は、構造耐力上、主要な部分に可燃材料を使っているため、他構造に比べ火災に弱い性質をもつ。大都市圏で古い木造住宅が密集し、大規模地震時等に、火災や倒壊で深刻な被害が予想される地域を、地方自治体は「木造住宅密集(木密)地域」と呼んでいる。東京都や都内特別区が、南関東直下地震(首都直下地震等とも呼ばれる、関東地方の南部[神奈川県・東京都・千葉県・埼玉県・茨城県南部]で歴史的に繰返し発生する、マグニチュード[M]7級の巨大な直下型地震[内陸部にある活断層で発生する、震源の浅い地震])に備えて「不燃化特区」で建て替えを促す等、各自治体と国が解消を目指した対策を進めている。木造3階建て住宅は、階数が3ある木造住宅のことをいう。3階建ては、同じ広さの用地でも、2階建てより広い床面積の家が建てられる。日当たりが良い、眺望もある等、多くの利点も兼ね備えている。明治時代から、木造3階建て以上の建物は決して珍しいものではないが、現在の日本の都市部(準防火地域)における木造3階建ての住宅は、法規上、木造2階建てとは異なる特別の扱いを受けており、設計や建築工事に高い専門技術が必要とされる。  
畳の日。
イ草の美しい緑色から、長年「みどりの日」として親しまれていた4月29日と、環境衛生週間(9月24日から10月1日まで)の始まりの日であり、「清掃の日」である9月24日を「畳の日」としたのは、京都市南区上鳥羽尻切町に本部を置く、全国い製品卸商業団体連合会、全国い生産団体連合会、全国畳材商社会、全国畳材卸商組合連合会、全日本畳事業協同組合の、5つの業界団体からなる振興会、全国畳産業振興会。畳の持つ住宅材としての素晴らしさや、敷物としての優れた点をアピールしていく日。なお、「みどりの日」が5月4日に移動した後も、畳の日は変更されなかった。畳は、日本で利用されている伝統的な床材である。芯材になる板状の畳床(たたみどこ)の表面を、イグサ(湿地や浅い水中に生える植物)の茎を編込んでできた敷物状の畳表(たたみおもて)でくるんで作る。縁には、畳表を止める為と装飾を兼ねて、畳縁(たたみべり)と呼ばれる帯状の布を縫い付けるが、一部には縁の無い畳もある。畳には、縦横比が2:1になっている長方形の一畳サイズと、これを横半分にした正方形の半畳サイズの2種類がある。畳は、世界に類がない日本固有の文化である。畳の原点は大昔から存在する。その当時は藁を重ねただけであった。現代の畳に近付くのは平安時代に入ってからであり、厚みが加わると共に、大きさの規格化が進められている。平安時代までは板床に敷くクッションの一種の様な感覚で使われていたが、室町時代に入ると、書院造(書院を建物の中心にした武家住宅の形式)の登場によって、部屋全体に畳が敷かれる様式が表われ、茶道の拡大に伴ない、正座と共に普及していった。江戸時代に入ると、畳そのものが重要な建築物の要素として見做されるようになり、城や屋敷の改修工事を司る役職として畳奉行が任命される例も見られた。最近では、生活の洋風化に伴なって、畳を敷詰めるのではなく、平安時代のように、クッションとして1枚から数枚程度板間に置く、という形が復活しつつある。  
豊後高田昭和の町の日。
大分県豊後高田市が制定。大分県北部の国東半島の北西部に位置し、周防灘に面する豊後高田市が、2001(平成13)年から商業と観光の振興のために、商工会議所、商店街と共に進めてきた昭和30年代をテーマとした「豊後高田昭和の町」を、さらに多くの人に知ってもらうことが目的。日付は、国民の祝日の「昭和の日」から。この日には、「昭和の日イベント」として、ストレス解消にもなる「昭和の町」ちゃぶ台返し選手権や、大道芸祭等のイベントが開催されている。「豊後高田昭和の町」は、その懐かしい街並みや商品、人々の温かい対応等で、全国から多くの観光客を集めている。1958(昭和33)年の東京の下町を舞台とし、夕日町三丁目に暮らす人々の暖かな交流を描いた、東宝(日本映画界や興行界に不動の地歩を占め続ける、映画・演劇の製作配給・興行等の会社)配給の長編映画『ALWAYS 三丁目の夕日』が大ヒットしたこと等から、昭和30年代ブームが起こり、懐古的な景観施設や体験が経済効果を上げる現状から、各地に施設が建設されている。豊後高田市中心部の商店街は、昭和40年代までは大分県の北東部に位置する国東半島で最も栄えた商店街であったが、その後、大型店の郊外への出店や過疎化のために衰退し、近年では、「犬と猫しか通らない」と言われる程の寂れた状態となっていた。「豊後高田昭和の町」は、この商店街に賑わいを取戻すために、2001(平成13)年に始められた町おこしで、衰退のために建替えが進まず、昭和30年代以前の古い建物が約7割も残っていることを逆手に取って、中心商店街に昭和30年代の町並みを再現したものである。地方都市再生の成功例として全国から注目されており、2009(平成21)年には、昭和の町に待望の昔懐かしいボンネットバスが導入された。「豊後高田昭和の町」は、昭和の時代を再現した店舗が並ぶ商店街と、展示施設である昭和ロマン蔵とを中心としている。昭和ロマン蔵は、豊後高田を中心とする資産家の野村財閥(1895[明治28]年に勃発した、主に朝鮮半島を巡る日本と清国(中国清朝)の戦争、日清戦争後の物価暴騰で財をなし、共同野村銀行[現在の大分銀行の源流の1つ]等を設立した野村礼治郎・野村力蔵・野村市夫の三代に亘る資産家で、野村證券を中心とした企業グループ、野村グループの前身となる金融中心の財閥[一族の独占的出資による資本を中心に結合した経営形態]、野村財閥との直接の関係はない)が、1935(昭和10)年頃に米蔵として建てた旧高田農業倉庫を改装した展示施設である。昭和の情景を再現した展示施設(昭和の夢町三丁目館)や、駄菓子屋の夢博物館、昭和の絵本美術館の他レストランを併設している。