4月25日 記念日 その4 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

歩道橋の日。
1963(昭和38)年4月25日、国鉄(日本国有鉄道、現在の西日本旅客鉄道[JR西日本])大阪駅前に日本初の大型横断歩道橋が設置された。なお、日本で最初の歩道橋は、愛知県の西枇杷島歩道橋で、1959(昭和34)年に造られたものとされるが、これは「学童専用陸橋」であった。日本では、昭和30年代にモータリゼーション(自動車が社会と大衆に広く普及し、生活必需品化する現象)が進展したが、その一方で、交通事故が多発して「交通戦争」と呼ばれる状況に陥った。被害者の治療には、1961(昭和36)年の健康保険実施、1965(昭和40)年の脳神経外科学の診療科独立、医師数増加策として医学部の定員増(参照)等の対策がなされたが、被害者を減らすために、歩行者と自動車の各々の交通を分離(歩車分離)できる横断歩道橋も設置されるようになった。横断歩道橋とは、車道、又は鉄道を跨ぐように架けられた歩行者・自転車専用の橋で、「歩道橋」とも呼ばれる。横断歩道橋と地下横断歩道を合わせて「立体横断施設」と言う。日本の歩道橋は、道路から通常470cm以上空けて建造されている。交通量が多く幅の広い道路では、歩行者が道路を横断する横断歩道を多数設定すると、信号機が複数必要になり、結果として渋滞が増加してしまう。信号によらず道路を横断できる横断歩道橋は、渋滞緩和の手段として設置されることが多い。また、周辺に幼稚園や保育園、小学校、病院等があり、交通弱者が多く横断する道路に、交通事故の予防手段として横断歩道橋が設置される場合もある。その他、駅前に大きな交差点や幹線道路が隣接しており、隣接する商業施設等との間に上層階で連絡通路を設定できる場合、横断歩道橋と連絡通路を折衷したタイプのものが設置される場合もある。しかし、横断歩道橋の設置により、橋脚や階段の存在が死角となって、車道側から歩行者が見えづらくなる等、安全を妨げている事例がある。歩行者の利用のみを考慮した階段状のものが主であったが、幅の狭いスロープを付けて自転車も利用可能となっているものや、スロープのみの横断歩道橋もある。現在設置されている横断歩道橋の大部分は、昭和40年代に建設されたもので、当時は通学途中の児童等の安全確保の為に重宝されたが、道路横断のための負担を通行者に多く強いるものであることから、バリアフリー(障壁となるものを取除き、生活し易くすること)の精神、交通弱者優先の精神に反する建造物であるとも言える。このため一部では、エスカレーターやエレベーターの設置も行なわれている。歩行者に負担を強いるため、横断歩道橋を設置した交差点では、道路をそのまま横断してしまう人の数が増えるという事例もある。同様の趣旨で作られたものとして、地下横断歩道(地下道)がある。特に、雪国では、路面のすべり防止や吹雪対策のために、歩道橋に代えて横断地下道の設置が検討されることがある。因みに、大阪駅前の大型横断歩道橋は、大阪でも指折りの交通の難所、大阪駅前東交差点の交通混雑を緩和するため、大阪府交通対策委員会で検討中であった架橋計画が、資金面で行き詰っていることを知った松下幸之助(現在の大手電機メーカー、パナソニック[松下電器産業]を一代で築き上げた経営者で、「経営の神様」とも呼ばれる)が、寄贈を申し出ている。大阪市はこの申し出を高く評価し、松下幸之助の意向に沿って陸橋建設に取掛かった。この陸橋は10月に完成し、10月24日、大阪市長と松下幸之助とのテープカットで、渡初め式が挙行された。また、大阪駅南広場の整備事業は2014(平成26)年9月に着工され、西日本旅客鉄道(JR西日本)と大阪市交通局の2社により事業が進められ、新たな歩道橋と新バスターミナルが設置されることになった。2016(平成28)年10月1日に完成した新歩道橋「スカイウォーク」は、全長70m、幅高さ5mで、これまで南北を繋いでいた大阪駅前の大型横断歩道橋と接続することで、大型のペデストリアンデッキ(広場と横断歩道橋の両機能を併せ持ち、建物と接続して建設された、歩行者の通行専用の高架建築物)が形成され、大丸梅田店(大丸松坂屋百貨店が運営する百貨店)が入るJR大阪駅ビル「大阪駅サウスゲートビル」2階と阪急梅田駅ビル「阪急百貨店うめだ本店」2階が、そして、2022(令和4)年4月6日に建替を終え、全面開店した阪神梅田駅ビル「阪神百貨店本店」2階がそれぞれ直結され、「迷宮」や「ダンジョン(地下牢)」等とも称されていた、複雑な梅田界隈の相互アクセスが大きく改善された。
拾得物の日。
1980(昭和55)年4月25日、東京都中央区銀座3丁目の道路脇で、トラック運転手が現金1億円入りの風呂敷包みを発見し、拾得物として警察に届出た。結局落とし主は現れず、1億円は全額、発見者のトラック運転手が所有権を取得した。マスコミは大騒ぎとなり、発見者は一躍時の人となったが、発見者への中傷や脅迫も相次いだ。拾得物(遺失物)は、占有者の意思によらずにその所持を離れた物である。遺失物の扱いについては、「民法(明治29年4月27日法律第89号)」、及び「遺失物法(新法、平成18年6月15日法律第73号)」による。なお、「遺失物法(新法)」は、「遺失物法(旧法、明治32年3月24日法律第87号)」が、現状の遺失物の取扱いにそぐわないことと、表記を現代用語化することを理由に、2006(平成18)年に全部改正されたものである。「遺失物法(新法)」では、遺失物の保管期間が3ヶ月に短縮された他、警察では、提出を受けた遺失物に関する情報を、インターネット等により公開すること、傘、衣類、自転車等は2週間以内に遺失者が判明しない場合、売却できること等が規定された。
小児がんゴールドリボンの日。 
その治癒率は年々向上はしているものの、依然として子どもの病死原因として最も多い小児がん。日々、その病と闘っている子ども達のことをもっと知ってもらい、支援の輪を広げ、子ども達に笑顔を取戻して欲しいと、東京都豊島区西池袋に本部を置き、小児がんの子ども達を支える活動のためのシンボルマーク、ゴールドリボン運動により、小児がんの克服を目指す、特定非営利活動法人(NPO法人)ゴールドリボン・ネットワークが制定。日付は、4月25日の「4」と「25」を、「小児(しょう[4]に[2])」「ゴ(5)ールドリボン」と読む語呂合わせから。小児がんは、小児が罹患するさまざまながんの総称である。 主な小児がんは、白血病、脳腫瘍、神経芽腫、リンパ腫、腎腫瘍(腎芽腫、ウィルムス腫瘍)等で、血液のがんである白血病やリンパ腫を除き、大人では稀なものばかりとなっている。胃がんや肺がん等は、子どもにはみられない。 
ギロチンの日。
1792(寛政4)年4月25日、フランス議会で正式に、2本の柱の間に吊るした刃を落とし、柱の間に寝かせた人の首を切断する斬首刑の執行装置であるギロチンが、処刑道具として認められた。当時は、フランス革命後の恐怖政治の時代で、多数の人が処刑されていたが、これは、従来の処刑器よりも苦痛を与えないとされた。フランスの内科医で政治家、ジョゼフ・ギヨタンの提案が採用されたため、その名を取って「ギロチン」と呼ばれるようになった。このような断頭装置は、少なくとも13世紀には既に存在したので、ジョゼフ・ギヨタンはギロチンの発明者ではない。ジョゼフ・ギヨタン自身もギロチンの露と消えた、というのは広く知られた都市伝説で、間違いである。ジョゼフ・ギヨタンは、帝政期まで医療福祉の分野で活躍し、その実際の死因は左の肩の癰(よう、細菌感染症の一種)であった。ジョゼフ・ギヨタンは、この斬首刑の執行装置の人間性と平等性を大いに喧伝(盛んに言いはやして世間に広く知らせること)したことから、ジョゼフ・ギヨタンから名前をとった「ギヨチーヌ」という呼び名が定着した。ギロチンは、その英語読みである「ギロティーン」が訛ったものである。ジョゼフ・ギヨタンは、この不名誉な名称に強く抗議したが、以後も改められることはなかったため、家族は姓を変えた。フランスでは、1981(昭和56)年9月に死刑制度が廃止され、それと共にギロチンの使用もなくなった。なお、ギロチン設計の依頼を受けたのは、フランスの外科医で生理学者、アントワーヌ・ルイであった。アントワーヌ・ルイは、刃を三日月形にし、死刑囚の首を板で固定する等の改良を加えた断頭台を設計した。このため当初は、アントワーヌ・ルイの名前をとって「ルイゾン(Louison)」や「ルイゼット(Louisette)」の名称で呼ばれていた。