4月25日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

市町村制公布記念日。
1888年(明治21年)4月25日、「市制町村制ヲ定ム(明治21年4月25日法律第1号)」により、「市制」と「町村制」が公布されたことを記念し、制定された。「市制」は、従前の 「郡区町村編制法(明治11年7月22日太政官布告第17号)」に替わり、日本の市の基本構造を定めた法律である。「市制町村制ヲ定ム」の前半により規定され、1911(明治44)年4月7日の「市制(明治44年4月7日法律第68号)」により全部改正され、1947(昭和22)年4月17日の「地方自治法(昭和22年4月17日法律第67号)」の施行によって廃止された。制定時の第1条に「此法律ハ(中略)市ト為スノ地ニ施行スルモノトス」とあり、市となる区域で順次、この法律を施行(適用)されたことから転じて、区町村から新たに市を設けることを「市制を施行する」と表現するようになった。「市制」は、「町村制」と共に1888(明治21)年4月25日に「明治21年4月25日法律第1号」として公布された。なお、「市制」と「町村制」は、1つの公布文で公布されているが、それぞれ第1条から始まる別個の法律であり、公布文にも「市制及町村制」と書かれている。「市制」と「町村制」は、市と町村を独立した法人と定め、形式上、国と別個の自治体として認めた。市には市会を置き、土地所有と納税額による選挙権制限と、高額納税者の重みを大きくした三等級選挙制によって市会議員を選出した。市は、条例制定等の権限を持つ。市長は市会が候補者3名を推薦し、内務大臣(内務省[現在の総務省、国家公安委員会、警察庁、国土交通省、厚生労働省等の前身]の長)が天皇に上奏裁可(天皇に意見・事情等を申上げ、天皇が承認して決定する行為)を求めて決めた。市会は、別に助役と名誉職参事会員を選出した。市長、助役、名誉職参事会員で構成される市参事会が、市の行政を統括した。東京・大阪・京都の三大都市は、特例として市制の一部が適用されなかった。「市制中東京市京都市大阪市ニ特例ヲ設クルノ件(明治22年3月23日法律第12号)」により東京市、京都市、大阪市の3市には、市長と助役を置かず、市長の職務は府知事が、助役の職務は書記官が行なう等の特例(市制特例)が定められた。市制の実施準備は、以前の区・町・村の合併を進めつつ、各府県毎に進められ、1889(明治22)年4月1日を最初として、各地で順次市制を施行された。第二次世界大戦前、特に、明治初期は、「市民」は即ち「有産者」(ブルジョワジー[生産力の発展を背景として成長した、私有財産を所有する一定程度豊かな都市住民層]や地主等)という考え方であったため、人口当たりの有産者比率の低い都市部では、三等級選挙制等の投票権格差が付けられたり、有産者比率の極めて低い三都(東京・大阪・京都)には、一般の市制ではなく特別市制が施行されたりした。農村部は、地主や養蚕業者等の有産者比率が高いため、都市部とは異なる「町村制」が施行された。北海道には「市制」が施行されず、1899(明治32)年5月1日になって、「市制」に似て自治権が弱い「北海道区制」が施行された。町村に対しては、北海道で「北海道一級町村制(昭和2年8月27日勅令第269号)」「北海道二級町村制(昭和2年8月27日勅令第270号)」が、沖縄県等では「島嶼町村制(明治40年3月16日勅令第46号)」が施行された。これは、いわゆる内地(本土)と別扱いの半植民地的地位を現わすものである。「町村制」は、「市制」と共に1888(明治21)年4月25日、「明治21年4月25日法律第1号」の後半(前半は市制)として公布され、翌1889(明治22)年4月以降、町村の合併等の状況を踏まえて各地で順次施行された。プロイセン((現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とした国)の地方自治制度が取入れられ、参政権は、地租(土地を対象に賦課され た租税)、若しくは、直接国税を年2円以上納税している者のみに付与するといった、資産家優位の制度であった。また、内務大臣や府県知事の監督権が強く、自治権は弱かった。「北海道区制(明治30年5月29日勅令第158号)」とは、市制に関連した大日本帝国憲法下における地方自治に関する勅令(天皇が発した法的効力のある命令)である。1888(明治21)年に「市制」と「町村制」が定められたが、北海道(当時は、内務省直轄の行政区画北海道を管轄する地方行政官庁、北海道庁が管轄)では適用されなかった。1894(明治27)年、井上馨内務大臣は、他府県と同一の制度を適用するのは時期尚早として、自治財政を負担できる町村とできない町村に分けるべき、と主張した。1899(明治32)年10月1日、「北海道一級町村制」「北海道二級町村制」と共に施行された「北海道区制」は、「市制」に準ずる内容であったものの、市会に認められた予算外の支出や、決算報告の認定権、参事会の設置は認められなかった。「島嶼町村制」とは、かつて、本土における町村制と別に、島嶼部で施行されていた制度の一般名称、及び同名の勅令である。現在の、東京都の伊豆諸島(青ヶ島・八丈小島を除く)、島根県の隠岐諸島、長崎県対馬市、鹿児島県鹿児島郡三島村(薩摩半島南端から南南西約40kmの位置にある、口之三島[上三島]と呼ばれる島嶼群)、鹿児島県鹿児島郡十島村(屋久島と奄美大島に挟まれて並ぶ、南北約160kmの島嶼群、トカラ列島)、及び奄美群島、沖縄県で施行された。これらの各島嶼部は、1888(明治21)年の「市制」、及び「町村制」施行から除外され、島庁が設置されたりした。また、一部は旧国名を存続使用していた。このことは、本土町村とは異なり府県庁による直接統治であり、現在に当て嵌めればアメリカ等の非法人地域(市町村に相当する最小区分の地方自治体[基礎自治体]に属さない地域)に近い。東京都伊豆諸島、及び小笠原諸島では、人口が少ないことや、小笠原諸島には欧米系住民の居住等もあり、東京府(現在の東京都の前身)による直接の行政運営がなされ、町村の設置は大幅に遅れた。特に、小笠原諸島の本土並の行政組織設置は、1968(昭和43)年の本土復帰後である。明治の時代になっても、沖縄県では法整備が遅れ、1429(永享元)年から1879(明治12)年までの450年間、琉球諸島を中心に存在した王国、琉球王国以来の体制が継続した(旧慣温存政策)。そして、現在の町村に当たるものとして、間切制(琉球王国時代の行政区分の1つで、概念としては、琉球王国全土を現在の日本全国と見立てた場合における都道府県に当たるが、区割りは現在の市町村に相当する)を採用していた。しかし、本土に比べ住民に負担の多い制度が多々存続したため、沖縄県各地で旧制度廃止・改善を要求する運動が起こり、政府は漸次本土並の制度を施行していった。第二尚氏王統第19代琉球国国王の尚泰が、明治政府により「琉球藩王」とされると共に、大日本帝国の華族の身分を与えられ、これにより琉球藩が設置されていたが、1879(明治12)年、琉球藩を廃止して沖縄県を設置した。1896(明治29)年の「沖縄県ノ郡編制ニ関スル件(明治29年3月7日勅令第13号)」により、島尻郡、中頭郡、国頭郡、宮古郡、八重山郡の五郡を設置し、宮古と八重山に島庁(島司)を置いた。また、「那覇市」の前身「那覇区」と、首里市の前身「首里区」が設置された。1908(明治41)年4月1日には、「島嶼町村制」が施行され、間切が廃止されている。都道府県の最初の市制施行が、都道府県庁所在地ではない県は、青森県、福島県、埼玉県、山口県の4県である。青森県は、弘前市が最初で、県庁所在地の青森市は、弘前市に次いで2番目となっており、福島県は、会津若松市が最初で、県庁所在地の福島市は、会津若松市に次いで2番目、埼玉県は、川越市が最初で、県庁所在地であった浦和市(2001[平成13]年、大宮市、与野市と合併してさいたま市となり、浦和市は廃止されている)は川越市、熊谷市、川口市に次いで4番目、山口県は、下関市が最初で、県庁所在地の山口市は下関市、宇部市に次いで3番目となっている。