4月25日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

国際連合記念日(続き)。
1961(昭和36)年から1971(昭和46)年まで、第3代事務総長を務めたのはウ・タント(ビルマ出身)である。これに先立つ1960(昭和35)年の植民地独立付与宣言(国際連合総会決議)に象徴されるように、1960年代には多くの植民地が独立を果たし、次々と国際連合に加盟した。1961(昭和36)年、第1回非同盟諸国会議が開かれ、米ソいずれの陣営にも属しない非同盟諸国が国際連合の多数派として出現し、1965(昭和40)年には加盟国の約7割に達した。1964(昭和39)年、第1回国際連合貿易開発会議(UNCTAD)が開かれ、そこで途上国による77ヶ国グループ(G77)が結成された。77ヶ国グループ(G77)は、その後も構成国を増やし、国際連合での投票等で一致した行動を取ることによって、先進国に対抗する大きな力を有するに至っている。ウ・タント事務総長も、非同盟主義に共鳴する立場から、冷戦下において東側と西側が持つイデオロギー性を批判し、ベトナム戦争を巡ってアメリカ合衆国第36代大統領リンドン・ジョンソンと距離を置くと共に、途上国の開発の問題を訴えた。なお、ベトナム戦争と中ソ対立の最中で、常任理事国である中華民国が追放され、同国と対立する中華人民共和国が代わりに加盟する(アルバニア決議の採択)。ウ・タント事務総長の任期中には、1963(昭和38)年に初の核軍縮条約である部分的核実験禁止条約(PTBT)が署名され(同年発効)、1968(昭和43)年に核不拡散条約(NPT)が総会で採択される(1970[昭和45]年発効)等、核軍縮への取組みも始まった。また、ウ・タント事務総長は、宇宙船地球号を掲げて地球環境問題にも取組み、アースデー(地球環境について考える日として提案された記念日)の制定と、後の国際連合人間環境会議の開催決定や国際連合環境計画(UNEP)設立決定に関わる等、国際連合は新しい任務を負うこととなった。1972(昭和47)年から1981(昭和56)年までの第4代事務総長クルト・ヴァルトハイム(オーストリア出身)の任期中には、1973(昭和48)年の第四次中東戦争とそれに対する第二次国際連合緊急軍(UNEF II)の派遣、キプロス問題(トルコの南の東地中海上に位置するキプロスで、1964[昭和39]年から継続している紛争)の再燃等があった。また、社会経済開発分野では、南北問題(先進資本国と発展途上国の経済格差とその是正を巡る問題で、豊かな国が世界地図上の北側に、貧しい国が南側に偏っていることから、こう呼ばれる)も深刻化し、石油輸出国機構(OPEC)による石油禁輸(オイルショック)、1974(昭和49)年の国際連合資源特別総会の開催に見られるように、資源ナショナリズム(自国に存在する資源を、自国で管理・開発しようという動き)が高揚した。1981(昭和56)年のカンクン(北アメリカ南部に位置するメキシコ合衆国の南東部、カリブ海沿岸にある都市)での南北サミットでは、クルト・ヴァルトハイム事務総長の努力にも係わらず、南北関係が好転しなかった。1982(昭和57)年から1991(平成3)年までの第5代事務総長ハビエル・デクエヤル(ペルー出身)の任期中には、イラン・イラク戦争(西アジア・中東に位置する、イランとイラクとの戦争)、アフガニスタン紛争(中東・中央アジアに位置するアフガニスタンの内戦に、ソビエト連邦が軍事介入を行なったもの)、ナミビア内戦(アフリカ南西部に位置するナミビアで勃発した内戦)、アンゴラ内戦(アフリカ南西部に位置するアンゴラで勃発した内戦)等があり、国際連合の斡旋・仲介による停戦等、一定の成果が上がった。1990年代に入ると、冷戦の終結に伴なって、安全保障理事会の平和維持機能が復活し、1991(平成3)年の湾岸戦争(中東・西アジアに位置するクウェートを、イラクが侵攻したことにより勃発した戦争)では、安全保障理事会の武力行使容認決議に基づき、多国籍軍(国際合意に基づき、各国が各々の裁量・責任において各種活動のために派遣した軍)が派遣された。1992(平成4)年から1996(平成8)年までの第6代事務総長ブトロス・ガリ(エジプト出身)の任期中には、東南アジアのインドシナ半島南部に位置するカンボジアや、東アフリカに位置するソマリア、中部アフリカに位置するルワンダ、東ヨーロッパのバルカン半島北西部に位置するボスニア(旧ユーゴスラビア)、アフリカ大陸南東部に位置するモザンビーク等に、次々国際連合平和維持活動(PKO)が派遣され、ブトロス・ガリ事務総長が1992(平成4)年の『平和への課題』と題する報告書で訴えた通り、国際連合平和維持活動(PKO)に平和執行部隊としての機能も期待された。しかし、一定の成果を上げたカンボジアやモザンビークと異なり、ソマリア、ルワンダ、ボスニアでは、国際連合平和維持活動(PKO)は十分な役割を果たすことができなかった。社会経済開発の分野では、1992(平成4)年、ブラジル南東部に位置する都市、リオデジャネイロで環境と開発に関する国際連合会議(地球サミット)が開かれ、「持続可能な開発」の理念が普及した。1994(平成6)年、国際連合開発計画(UNDP)が年次報告書で「人間の安全保障」という理念を提唱した。1997(平成9)年から2006(平成18)年まで第7代事務総長を務めたコフィー・アナン(ガーナ出身)は、国際連合の行政改革に取組み、縦割りを是正するため、執行委員会の設置等を行なった。コフィー・アナン事務総長の任期中には、1998(平成10)年に国際刑事裁判所(ICC)設立のための国際条約「国際刑事裁判所ローマ規程(ローマ規程)」が採択されたり(2003[平成15]年発足)、2000(平成12)年のミレニアム記念総会では、途上国の開発目標等を定める国際連合ミレニアム宣言が採択されたりした。2001(平成13)年、国際連合はコフィー・アナン事務総長と共にノーベル平和賞を受賞した。尤も、イラク民衆救済のための石油食料交換プログラム(1995[平成7]年-2003[平成15]年)に関し、国際連合事務局幹部の不祥事が後に発覚し、コフィー・アナン事務総長の息子が勤めていた会社と、国際連合との不透明な関係も指摘される等、事務総長自身の廉潔性も問われることとなった。安全保障理事会の承認がない対外的な軍事力の行使は常に批判されるが、安全保障理事会の常任理事国であるアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国の五大国の軍事力の行使は、国際社会や国際連合はそれを抑止する力がないので、簡単には抑止できない状態である。2007(平成19)年には、第8代事務総長潘基文(韓国出身)が就任し、2016(平成28)年まで務めた。2017(平成29)年、第9代事務総長アントニオ・グテーレス(ポルトガル出身)が就任した。1995(平成7)年から2002(平成14)年まで、ポルトガル共和国首相(第114代)を務めたアントニオ・グテーレスは、ポルトガルの政治から退いた後の2005(平成17)年5月、国際連合難民高等弁務官(第10代)に選任された。国際連合難民高等弁務官を10年務め、2011(平成23)年にシリア内戦が発生すると、それによって生じた難民に対する国際的な支援を確保するために尽力した他、ニューヨークの国際連合本部に次いで2番目に大きい事務所、国際連合ジュネーブ事務局の職員数を約3分の2に削減し、その分現場に、より多くの人員を投入したりする等の功績から、次期国際連合事務総長に推挙された。首相経験者が国際連合事務総長に選ばれたのは、アントニオ・グテーレスが初めてで、また、アントニオ・グテーレスは、国際連合設立後に生まれた、最初の国際連合事務総長となった。