4月25日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4木曜日 旧暦  3月17日、先勝(己未)、月齢 16.4  
グレゴリオ暦で年始から116日目、年末まであと250日。
誕生花 ビジョナデシコ(美女撫子)・バイモ。

二十四節気・雑節等 
霜止み苗出ず。
七十二候の1つ(17候)。 
 
国際連合記念日。
第二次世界大戦の勝利目前となった1945(昭和20)年4月25日から、日本、又はドイツ(但し、ドイツは会議中の5月7日に降伏した)に宣戦している連合国50ヶ国代表による、国際連合憲章を作成・採択するための国際機構に関する連合国会議(サンフランシスコ会議)が開催されたことに因む。1944(昭和19)年8月から10月にかけて、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.の北西部に位置する地区、ジョージタウンにある研究機関、ダンバートン・オークスにおいて、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中華民国の代表が会議を開き、国際連合憲章の原案(「一般的国際機構設立に関する提案」)を作成した(ダンバートン・オークス会議)。ここでは、加盟国全部を含む総会と、大国中心に構成される安全保障理事会の2つを主体とする普遍的国際機構を作ることが合意された。その後、米英ソ中に、イギリスの希望によりフランスを加えた5ヶ国が、拒否権を有する安保理常任理事国となる、という「5大国一致の原則」が合意された。国際機構に関する連合国会議(サンフランシスコ会議)では、ダンバートン・オークス会議で作成された憲章原案に基づいた審議が行なわれ、6月26日、50ヶ国が国際連合憲章に署名して会議は終結した。第二次世界大戦時、ドイツとソビエト連邦からの事前交渉を拒否して両国に侵略され、国土が分割されていたポーランドは、会議に代表を送っていなかったが、その後、国際連合憲章に署名し、原加盟国51ヶ国の1つとなった。なお、国際デーの1つである国際連合デー(United Nations Day)は、1945(昭和20)年10月24日にソビエト連邦の国際連合憲章への批准により、発効に必要な20ヶ国の批准が得られたため、国際連合憲章が発効し、国際連合が発足したことから、10月24日となっている。国際連合は、国際連合憲章の下、1945(昭和20)年に設立された国際組織である。主たる活動目的は、国際平和の維持(安全保障)、経済や社会等に関する国際協力の実現である。なお、英語表記の「United Nations」は、第二次世界大戦中の枢軸国に対していた連合国が、自陣営を指す言葉として使用していたものが、継続して使用されたものであるが、日本語においては、第二次世界大戦時中の連合国と区別して「国際連合」と呼ばれる。現在、国際社会に存在する国際組織の中で、最も広範・一般的な権限と、普遍性を有する組織である。公称では、国際連合の前身は国際連盟である。国際連盟は1919(大正8)年、国際協力を促進し、平和安寧を完成することを目的として設立された。しかし、アメリカが参加せず、ソビエト連邦も1934(昭和9)年まで加盟せず、一方、日本、ドイツ、イタリアが脱退する等、有力国の参加を欠いたこともあって、十分な力を発揮することができず、第二次世界大戦を防ぐことができなかった。その反省を踏まえ、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中華民国等の連合国が中心となって設立した。1945(昭和20)年4月25日から6月26日にかけて、アメリカ合衆国西部、カリフォルニア州サンフランシスコで開かれた「国際機構に関する連合国会議(サンフランシスコ会議)」で国際連合憲章が署名され、1945(昭和20)年10月24日に正式に発足した。国際連合には、総会、安全保障理事会、経済社会理事会、信託統治理事会、国際司法裁判所、事務局という6つの主要機関と、多くの付属機関・補助機関が置かれている。加えて、数多くの専門機関・関連機関が国際連合と連携して活動しており、全体として巨大かつ複雑な国際連合システム(国際連合ファミリー)を形成している。国際連合の本部は、アメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州ニューヨーク市のマンハッタン島にある。国際連盟との間には法的な継続性がないものの、国際司法裁判所や国際労働機関(ILO)等の機関を国際連盟から引継いでいる。1946(昭和21)年から1953(昭和28)年までの間、初代事務総長を務めたのはトリグブ・リー(ノルウェー出身)であった。その任期中にはパレスチナ問題(中東に位置するパレスチナの地を巡るイスラエル人[シオニスト・ユダヤ人ら]とパレスチナ人[パレスチナ在住のアラブ人]との関係から生じた紛争)が顕在化し、1947(昭和22)年11月29日の総会でレスチナ分割決議がなされたが、翌1948(昭和23)年から第一次中東戦争に至った。国際連合休戦監視機構(UNTSO)が派遣され、事実上初の国際連合平和維持活動(PKO)となった。国際連合平和維持活動(PKO)とは、紛争において平和的解決の基盤を築くことにより、紛争当事者に間接的に紛争解決を促す国際連合の活動である。国際連合平和維持活動(PKO)に基づき派遣される各国軍部隊を、国際連合平和維持軍(PKF)という。また、1950(昭和25)年には朝鮮戦争(朝鮮民族の分断国家である大韓民国[韓国]と朝鮮民主主義人民共和国[北朝鮮]の間の、朝鮮半島の主権を巡る国際紛争)が勃発し、安全保障理事会でのソビエト連邦不在の間に、アメリカ合衆国を中心に「国際連合軍」が派遣される事態となった。国際連合の目指した集団安全保障は、東西冷戦の狭間で機能不全に陥った。一方、1948(昭和23)年に世界人権宣言が国際連合総会で採択され、1951(昭和26)年には難民条約が採択されて、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が発足する等、安全保障以外の面での活動も始まっていった。1953(昭和28)年から1961(昭和36)年までの第2代事務総長ダグ・ハマーショルド(スウェーデン出身)の任期中にも、パレスチナ問題は再燃し、1956(昭和31)年の停戦違反を機にスエズ危機(第二次中東戦争)に至った。安全保障理事会は、英仏の拒否権により機能停止に陥ったが、ダグ・ハマーショルド事務総長のリーダーシップにより、総会決議に基づいて第一次国際連合緊急軍(UNEF I)が派遣され、これが初の正式な国際連合平和維持活動(PKO)となった。他方、1953(昭和28)年のアメリカ合衆国第34代大統領ドワイト・D・アイゼンハワーによる国際連合総会での平和のための原子力演説を契機として、1957(昭和32)年に国際原子力機関(IAEA)が発足した。1956(昭和31)年には、日本も国際連合加盟を果たした。ダグ・ハマーショルド事務総長の手腕は、ソビエト連邦圏を除く加盟国から絶大な信頼を得、1958(昭和33)年のレバノン事件(イスラム教徒による、西アジア・中東に位置するレバノンの内乱)、東南アジアに位置するタイとカンボジアの紛争、ラオス問題(東南アジアのインドシナ半島に位置するラオスの内戦)等で緊張緩和に努め、「国際連合のプレゼンス」という言葉が国際外交で常用語となった。1960(昭和35)年のコンゴ動乱(中部アフリカに位置するベルギー領コンゴ[現在のコンゴ民主共和国]が、コンゴ共和国[現在のコンゴ共和国は、フランス領コンゴ]として独立した直後に勃発した反乱から始まる混乱)では、国際連合平和維持活動(PKO)として国際連合コンゴ活動が展開され、ダグ・ハマーショルド事務総長も調停に努めたが、1961(昭和36)年9月、ダグ・ハマーショルド事務総長は任務遂行中に、北ローデシア(アフリカ南部に位置する現在のザンビア)の飛行機事故で死亡した。