4月24日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

植物学の日/マキノの日。
1862(文久2)年4月24日(旧暦)、近代植物分類学の権威である植物学者、牧野富太郎が、土佐国高岡郡佐川村(現在の高知県高岡郡佐川町)の豪商の家に生まれた。牧野富太郎は、小学校中退でありながら理学博士の学位も得て、94歳でこの世を去るまでの生涯を植物研究に費やし、新種・変種約2,500種を命名する(新種は約1,000種、新変種は約1,500種)等して、「日本の植物学の父」と呼ばれた。牧野富太郎は、植物だけではなく鉱物にも興味をもち、音楽については、自ら指揮を取り演奏会も開き、郷里の音楽教育の振興にも尽力した。植物研究のため、裕福な造り酒屋であった実家の財産を使ったが、東京に出る際に親戚に譲った。後に困窮し、止むなく妻が始めた料亭の収益も研究に注ぎ込んだという。その料亭の件や、当時の大学の権威を無視した出版等が元で、大学を追われたこともある。しかし、学内には牧野富太郎の植物に対する情熱と、その業績を高く評価する者も多く、78歳まで実に47年の間、東京大学植物学教室になくてはならない講師として、日本の植物学に貢献した。牧野富太郎の金銭感覚の欠如や、周囲の人に対する牧野富太郎の振舞いに纏わる逸話は多い。しかし、牧野富太郎を追出した松村任三(それまでの本草学[中国で発達した医薬に関する学問]と近代の植物学の橋渡しをした植物学者で、東京帝国大学[東京大学の前身]理学部植物学教室教授、付属小石川植物園の初代園長を務め、牧野富太郎の恩師でもある)自身、若き日研究に邁進する余り、周囲に対する配慮を欠いていたことを認めている。後年、牧野富太郎は、松村任三が明治初頭の植物学の第一の功労者であり、東大植物学教室の基礎を築いた人であると賞讃した。牧野富太郎は、多くの植物の命名を行ない、「雑草という名の植物は無い」という発言をしている。自身も生物学者である第124代天皇、昭和天皇は、この発言を知っていたようで、「雑草が生い茂っておりまして」との侍従(天皇に側近奉仕する文官)の発言を聞いて、「雑草という草はないんですよ」との言葉を残したとされる。牧野富太郎自らの新種発見は約600種余りとされ、亡き妻の名を冠したスエコザサのエピソードはよく知られているが、牧野富太郎による、こうした学問の場以外の私情を挟んだ献名は例外的であった。マルバマンネングサの学名には、19世紀後半に活躍したロシアの植物学者、カール・ヨハン・マキシモヴィッチ(極東アジア地域を現地調査し、生涯の大半をその植物相研究に費やし、数多くの新種の学名を命名しており、その業績を含め、日本との関わりは大きい)により、牧野富太郎の名が盛込まれている。バルト・ドイツ人(主にバルト海東岸、現在のエストニアとラトビアに居住していた民族)であり、ロシアの最高学術機関とされる国立アカデミー、帝国サンクトペテルブルク科学アカデミー(現在のロシア科学アカデミー)会員で、被子植物の分類を専門とするカール・ヨハン・マキシモヴィッチは、アジア、シベリアへの植物探検等で知られるドイツ系ロシア人の植物学者、アレクサンダー・ゲオルク・ブンゲに師事し、その影響を受け、生涯を東アジアの植物相解明に捧げようと決意する。カール・ヨハン・マキシモヴィッチは、1860(万延元)年から1864(文久4)年2月まで日本に滞在し、精力的に日本の植物相調査を行なった。また、この時には、日本での2度の滞在で自然や生活文化に関わる膨大な資料を収集し、ヨーロッパに日本文化を伝えたドイツの医師・博物学者、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトとも、長崎で会っている。ドイツ出身の医師・博物学者で、ヨーロッパにおいて、日本を初めて体系的に記述した見聞録『日本誌』の原著者として知られるエンゲルベルト・ケンペルや、スウェーデンの植物学者・博物学者・医学者で、長崎の出島商館付医師として、鎖国期の日本に約1年滞在し、日本における植物学や蘭学、西洋における東洋学の発展に寄与したカール・ペーテル・ツンベルク、そして、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと続いた、日本の植物相調査研究の流れを引継ぎ、これを日本人植物学者に引渡す重要な役割を果たした。カール・ヨハン・マキシモヴィッチと、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトら3人との大きな違いは、前三者の研究対象が、あくまで日本国内に止まっていたことに対し、カール・ヨハン・マキシモヴィッチのそれが、東アジア全域に亘っていたことであり、カール・ヨハン・マキシモヴィッチにより初めて、朝鮮、中国、満州(現在の中国東北部)の植物相と日本の植物相の比較が可能になり、東アジアにおける日本植物相の地理的な位置付けが明確にされた。カール・ヨハン・マキシモヴィッチの引継いだ、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトからの流れは、明治期の矢田部良吉、松村任三、宮部金吾、伊藤篤太郎等といった植物学者にも当然のように知られており、それ故、日本の植物学において、極めて重要な人物と見做されていた。草創期の日本の植物学者は、未知種や新種と思われる植物を採集すると、真っ先にカール・ヨハン・マキシモヴィッチの元へ標本を送り、その種同定を依頼していた。カール・ヨハン・マキシモヴィッチ自身も、豊かな知識と現地調査の経験を生かし、彼らに適切な助言と指導を行ない、結果として、日本の植物学のレベルは著しく向上することになる。牧野富太郎もまた、頻繁にカール・ヨハン・マキシモヴィッチに標本を送っていた1人で、牧野富太郎の場合は、東京帝国大学に出入りする以前から標本を送付していたという。現在、高知市五台山には、没後1年目の1958(昭和33)年に、牧野富太郎の生前の希望も反映して開園した高知県立牧野植物園がある。敷地は約6haに拡張され、約1,500種、約13,000株の植物が植えられている。開園当初は牧野富太郎の偉業を残し、観光植物園としての色彩が濃かったが、現在は、有用植物に関する多くの研究者を擁し、世界的研究機関としての地位を築きつつある。高知県立牧野植物園では、4月24日を「マキノの日」としており、この日は入園が無料になる他、園内の植物観察ツアー等、特別なツアーが開催される。高知県立牧野植物園内には、付属施設として、土木、建築、都市計画、造園、インダストリアルデザイン等の、都市景観に関連した異なる職域によるデザイン・コラボレーションを提唱した建築家で、東京大学名誉教授でもある内藤廣の建築設計による牧野富太郎記念館がある。内藤廣は、この牧野富太郎記念館で、第13回1999(平成11)年度村野藤吾賞(村野藤吾[大正期から昭和期にかけて、大阪を拠点に創作活動を行なった名建築家]記念会によって、過去3年に遡り、最も優れた建築に対して授与される賞)を受賞している。牧野富太郎記念館は、本館と展示館の2つの建物に分かれる。本館には、遺族から寄贈された蔵書約4万5,000冊、直筆の原稿、写生画等、約5万8,000点が収められた牧野文庫を始め、植物に関する研究室等がある。展示館では、牧野富太郎の生涯に関する展示等がある。高知県高岡郡佐川町の佐川町総合文化センター内には、牧野富太郎資料展示室があり、牧野富太郎の眼鏡や絵の具、所蔵本、手紙や墨書等、遺品を多く収蔵している。東京都練馬区東大泉にある都市公園(植物園)、練馬区立牧野記念庭園は1958(昭和33)年に、牧野富太郎の自宅跡に、氏の業績を記念する庭園、及び記念館として開園した。2009(平成21)年には、「牧野記念庭園(牧野富太郎宅跡)」として、国の登録記念物(遺跡、及び名勝地)に登録されている。園内には300種近い植物があり、牧野富太郎が命名したセンダイヤザクラや、仙台で発見し、亡き妻の名を付けたスエコザサ等が植えられている。この地域に住む、SF漫画作家として知られるが、少女漫画、戦争もの、動物もの等、様々なジャンルの漫画を描いており、アニメ製作にも積極的に関わり、1970年代半ばから1980年代にかけて、松本アニメブームを巻起こした松本零士(練馬区名誉区民でもある)は、「大泉学園に引っ越して来た時、偶然にも私のデビュー作『蜜蜂の冒険』で参考にした牧野博士が住んでいたと聞いて、非常に強い縁(えにし)を感じた」と語っている。