4月24日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

植物学の日/マキノの日(続き)。
園内にある記念館には、遺族から寄託されている牧野富太郎の遺品が展示されている。2010(平成22)年8月、記念館と講習棟を改修して再オープンした。常設展示に加え、企画展示室では、幕末から明治期にかけての博物画家、関根雲停や、幕末から明治中期にかけて、関根雲停等と共に活躍した博物画家、服部雪斎の植物図展覧会や、植物標本の展覧会が開催されている。東京都八王子市南大沢に所在する公立大学、東京都立大学には、東京都立大学牧野標本館があり、牧野富太郎没後、遺族から寄贈された約40万点の標本が収蔵され、一部は画像データベース化され、一般公開されている。牧野富太郎が94年の生涯を掛けて採集した、膨大な植物標本の整理には、半世紀の時間を要したという。広島県山県郡北広島町八幡(旧広島県山県郡芸北町内)にある臥龍山麓八幡原公園には、1999(平成11)年、牧野富太郎が詠んだ句碑が建立された。句碑に刻まれた句は、牧野富太郎が1933(昭和8)年に初めて八幡を訪れた際、湿地一面に咲くカキツバタの自生地を見て、感激し詠んだものとされる。植物学は、植物を対象とする生物学の一分野で、自然史学の一部門に由来する。古くは、生物を動物と植物に分けることが一般的であり、生物学が誕生する以前から、動物学と植物学は存在していた。農学や林学、園芸学等との関わりも深い。生命現象を分子を使って説明(理解)することを目的とする学問、分子生物学の発展等に伴なって、古典的な植物学から脱却したというニュアンスを込めて植物科学と呼ぶこともある。最初に発見された細胞がコルク(ブナ科コナラ属の常緑高木、コルクガシの樹皮のコルク組織を剥離して加工した、弾力性に富む素材)であったように、植物細胞は細胞壁(植物細胞の最外側にある丈夫な被膜)を持つため、その組織は観察が容易である。顕微鏡の使用が行なわれるようになり、すぐに細胞が発見されると、組織学的研究が進んだ。あらゆる生物は細胞から成立っているとする学説、細胞説も植物に関してが一歩先んじている。但し、それ以降の進歩は早いとは言えない。1つには、動物のような生体解剖が植物では難しいことがある。動物では、体内に各種器官があり、区別して取出せるが、植物ではそれぞれが細胞単位で機能しており、しかも、互いに密着している。従って、そのレベルでの植物の機能については、単純な機構を想定しての推測になる面が多かった。この分野では、現在も基本的な部分で進行中である。生理学の分野では、植物が餌も採らずに生長することについては、17世紀前半に活躍したフランスの医師・化学者・錬金術師、ヤン・ファン・ヘルモントが、ヤナギの生長とその間の土の損失を測定した実験等、古くから探求が行なわれた。様々な光合成(緑色植物が太陽光のエネルギーを用いて、二酸化炭素と水からデンプン等の炭水化物を合成し、酸素を放出すること)に係わる条件やその影響の出方から、20世紀初頭には、明反応と暗反応の存在が予想されるに至るが、しかし、その機構についての具体的な発展は、呼吸経路の解明以降になる。以前は、光合成の反応には、光を必要とするが二酸化炭素が不要な明反応が起こり、次に光を必要としないが、二酸化炭素を必要とする暗反応が起こると考えられていたが、現在では、明反応と呼ばれた光だけで進行する反応は、その内の一部であることが分かっている。生物の遺伝現象(生殖によって、親から子へと形質が伝わるという現象)を研究する遺伝学は、オーストリアの司祭・遺伝学者、グレゴール・ヨハン・メンデルが、マメ科の一・二年草、エンドウを使って法則を明らかにしたことで発展が始まったが、それ以前から、遺伝学の実験には植物がよく使われた。人間が飼育栽培する生物の中では、植物の方が寿命が短く管理し易いものが多かったため、とされる。しかし、ハエの一種であるショウジョウバエや、山火事の後に出現するオレンジ色の子嚢菌類(菌界)の一種であるアカパンカビ等が、モデル生物として使われるようになってからは、最前線での利用は減少した。日本放送協会(NHK)における朝の時間帯の帯ドラマ「連続テレビ小説」第108作目として、2023(令和5)年4月3日から9月29日まで放送されたテレビドラマ『らんまん』は、牧野富太郎をモデルとし、長田育恵(劇作家・脚本家)作、神木隆之介の主演で、フィクションのドラマオリジナル作品として制作されている。全130話の期間平均は16.6%で、「連続テレビ小説」としては2021(令和5)年度後期放送の『カムカムエヴリバディ』の17.1%以来、3作品振りに16%を超えた。最高視聴率は、9月8日放送の第115話の19.2%で、こちらも3作品振りに19%を超えた。 
寒の戻りの特異日。
寒の戻りが起こる確率の高い日。寒の戻りとは、春になって気温が上がる時期に、突然やって来る寒さのことで、大陸からの寒波、北東気流による冷込み、移動性高気圧(温帯低気圧と交互になって東西方向に並び、偏西風に流されて、時速約40kmから約50km程で東に移動する高気圧)による夜間の冷込み等によって起こる。 
しぶしの日。 
2006(平成18)年1月1日に、鹿児島県の東部、大隅半島の付け根の部分にあり、曽於郡に属する松山町、志布志町、有明町の合併により誕生した志布志市が制定。この「しぶし」という地名は、第38代天皇、天智天皇が、人々の志が篤いことを喜ばれて命名したと言われる。市では「志あふれるまちづくり」を推進することを掲げ、4月24日の「4」と「24」で、「し(4)ぶ(2)し(4)」と読む語呂合わせから、この日を記念日とした。志布志市は、鹿児島県東部の人口約3万の市で、市の南部は志布志湾に面し、国の中核国際港湾(コンテナだけを扱う埠頭の配置・整備計画を、法定の港湾計画に記載することのできる資格を有する港湾で、北アメリカ・ヨーロッパ等と結ぶ長距離基幹航路の航路実現性を有する港湾として重点整備されている)である志布志港が整備されている。志布志港からは、国内外へ複数の航路が設けられており、南九州地域での重要な役割を担っている。志布志市は、いわゆる珍地名スポットとしても有名で、市役所の志布志支所は、「志布志市志布志町志布志にある志布志市役所志布志支所」となってしまう。10個もの「志」がある上に、発音すると「シ」が15回も出るため、「志」が溢れていてよいが、かなりややこしいのも事実ではある。志布志市の最寄り空港は鹿児島空港で、車で(東九州道曽於弥五郎ICより)約1時間強。宮崎空港へは、約2時間の距離にある。志布志市の中心駅は志布志駅であるが、1987(昭和62)年に、接続していた志布志線(宮崎県都城市の西都城駅から、鹿児島県曽於郡志布志町[現在の志布志市]の志布志駅までを結んでいた)と、大隅線(志布志駅から鹿児島県国分市[現在の霧島市]の国分駅までを結んでいた)が廃線となった後、ホーム1面のみの無人駅となった。日南線は志布志駅から宮崎市方面(南宮崎駅)に至る、宮崎県南部を縦断する路線である。そのため、鉄道で鹿児島県内の他市町村へ行く場合は、必ず宮崎県を通らなければならない。志布志城は、日向国諸県郡救仁院志布志(現在の鹿児島県志布志市志布志町で、志布志一帯は、明治以前は日向国に属していたが、1883[明治16]年に宮崎県が鹿児島県より分離した時に、鹿児島県に留まっており、志布志城を大隅国と表記するのは誤りとなる)にあった中世山城で、国の史跡となっている。築城年代は不明であるが、南北朝時代から、この地が戦乱に巻込まれたことに伴ない、次第に拡充されていったと考えられる。守護大名の島津氏久(島津氏6代当主)が本拠としたこともある。1577(天正5)年、志布志は島津氏の直轄地となり、初代の地頭として鎌田政近が任命された。その後も外城として、重要な役割を果たしたものの、一国一城令で廃城となった。しかし、建物が無くなっただけで、破壊はされなかったらしい。志布志市街地を囲む、全ての山が志布志城と言っても過言ではなく、志布志小学校の裏山の「内城」、その西側の山にある「松尾城」、志布志中学校前の「高城」と「新城」という、4つの城を総称して志布志城と呼ばれていた。「内城」は、南北約600m、東西約300mで、6つの廓からなり、その間は空堀で遮る構造となっている。ただ、本丸等一部を除き、未整備で立入りが困難である。   国際盲導犬の日(International Guide Dog Day)。
4月最終水曜日。1989(平成元)年4月26日に国際盲導犬学校連盟(現:国際盲導犬連盟)が発足した(その年の4月最終水曜日であった)ことを記念して、1992(平成4)年より国際盲導犬学校連盟が制定した日。目の不自由な人にとって大切な盲導犬の普及と、一般の人々の理解を目指した記念日。日本盲導犬協会等の各協会がチャリティーウォーク等、イベントを行なう。盲導犬は、視覚障害者を安全に快適に誘導する犬で、身体障害者補助犬(一般に、人を助ける犬とされるもの)の中で、最も広く知られた存在である。日本語名の由来は「盲人誘導犬」の略である。日本人が目にした最初の盲導犬は、1938(昭和13)年にアメリカ人が盲導犬と共に観光旅行の途中、日本に立寄ったものとされる。その翌年に、盲導犬としての科目を訓練した犬がドイツから輸入され、陸軍に献納された。ドイツ語の命令語を日本語に教え直した後、戦盲軍人が使用したという。第二次世界大戦中や敗戦後の混乱期には、盲導犬は全く忘れられていたが、1957(昭和32)年になってようやく、国産の盲導犬が誕生した。日本国内では「道路交通法(昭和35年6月25日法律第105号)」により、視覚障害者は公道を通行する際には、政令で定める杖(白杖)か、盲導犬を携帯しなければならない。また、「身体障害者補助犬法(平成14年5月29日法律第49号)」により、仕事中の盲導犬は胴輪式のハーネスを着用し、そのハーネスのハンドルにそれが盲導犬であることを明示し、その利用者は、その盲導犬を使用するための使用者証や、身体障害者補助犬健康手帳を携帯しなければならない。また、訓練団体や利用者は盲導犬を清潔に保つ義務を持つ。これらを満たした盲導犬に対し、公に開かれた施設では正当な理由無く盲導犬の立入りを制限してはならない。東京都練馬区関町北に所在する、現在の公益財団法人アイメイト協会が、1972(昭和47)年に、盲人と盲導犬への理解を深めてもらおうと、目の愛護デーに合わせて、また、1971(昭和46)年10月10日に、公益財団法人アイメイト協会の前身である東京盲導犬協会が東京都から、財団法人として認められたことを記念して、10月10日を「アイメイト・デー/盲導犬の日」としている。なお、アイメイトとは、公益財団法人アイメイト協会が使っている盲導犬の呼称である。