4月24日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4水曜日 旧暦  3月16日、赤口(戊午)、月齢 15.4
グレゴリオ暦で年始から115日目、年末まであと251日。
誕生花 コデマリ(小手鞠)・ゼラニウム。

二十四節気・雑節等
満月。
望。月と太陽の黄経差が180°となる日。天文学的満月。旧暦の十五夜とは一致しないことが多い。なお、旧暦八月の十五夜は、「中秋の名月」と呼ばれる。「中秋」という表現は、「秋の中日(ある期間の真ん中に当たる日)」であることから、旧暦8月全体を指す「仲秋」とは区別される。満月 (望) の月齢は、13.9日~15.6日と大きく変化する。旧暦15日は月齢14.0を含む日で、月の満ち欠け周期の半分は約14.8日となるため、平均的には満月 (望) が後になり易いと言える。

日本ダービー記念日。
1932(昭和7)年4月24日、目黒競馬場(1907[明治40]年に開設された、東京府荏原郡目黒村[現在の東京都目黒区]に所在した1周1マイル[約1.61km]の競馬場で、近隣の宅地化進展による地価高騰と手狭さ等からこの翌年に廃止され、その役割は、東京都府中市にある東京競馬場[府中競馬場]に移される)で、4歳(現3歳)牡馬・牝馬による日本初の「ダービー(東京優駿大競走)」が開催されたことを記念したもの。第1回「ダービー(東京優駿大競走)」では、函館孫作騎手が騎乗する栗毛(黄褐色[栗色]の毛をもつ馬)のサラブレッド系種(18世紀初頭にイギリスで、競走用に品種改良された軽種馬の系統の1つ)の牡馬 「ワカタカ」が優勝した。出走馬は19頭立てであったが、その中でも前走10馬身差で圧勝していた「ワカタカ」は、1.95倍の断然の1番人気に推されていた。レースは、「ワカタカ」が人気に答え、4馬身差で逃切り勝ちを収めた。「ワカタカ」は、それ以降も活躍して大競走に優勝している。現役最後のトーナメントレースでは、71kg - 73kgの斤量(競走馬が負担しなければならない重量)を背負い、3日間で2勝2着1回の貫禄を見せた。因みに、現在の中央競馬における斤量は、3歳(10ヶ月 - 12ヶ月)で牡馬が57kg、牝馬が56kgとなっている。「ダービーステークス」は元々、イギリスの貴族・政治家の第12代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーらが始めた4歳馬ナンバーワンを決めるレースで、現在は、「ダービー」と名の付くレースが世界各地で開催されている。一般的には、副称の「日本ダービー」が知られている「東京優駿」は、日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。後に創設された皐月賞・菊花賞と共に「牡馬三冠競走」を構成する。日本ダービー(東京優駿)を優勝することは、日本の競馬に関わる全ての関係者(ホースマン)が憧れる最高の栄誉とされている。日本の競馬における日本ダービー(東京優駿)の位置付けは特別で、創設期には国内に比肩のない大競走であり、その後、競走体系の整備が進むにつれて「二大競走」「五大競走」「八大競走」等と称されてきたが、常にその中核をなし、国内での最高賞金競走となっていた。後に創設されたジャパンカップや有馬記念に国内最高賞金は譲ったが、現在も国内で3番目の高額賞金競走である。創設時の名称は「東京優駿大競走」であったが、1950(昭和25)年に名称が「東京優駿」と変更され、以降は競走名の後に「(日本ダービー)」が付くようになった。東京日日新聞(現在の毎日新聞の前身)や読売新聞では、1932(昭和7)年の第1回から「日本ダービー」の名称が使われている。1932(昭和7)年4月25日の東京日日新聞3面では、記事見出しで『日本ダービー 晴れの駿馬十九頭』と書き、読売新聞では、1932(昭和7)年以降の記事見出しで、「日本ダービー」の呼称は多く使っている。これに対して朝日新聞では、1949(昭和24)年までは、記事見出しには「日本ダービー」の呼称は使っていない。一般紙では、知名度の高い副称を前面に出し、「日本ダービー(東京優駿)」とも表記される。皐月賞は「最も速い馬が勝つ」、菊花賞は「最も強い馬が勝つ」と言われるのに対し、日本ダービー(東京優駿)は「最も幸運に恵まれた馬が勝つ」と言われる。競走の格付も、1984(昭和59)年のグレード制導入当初から最高の「GI」に格付けされたが、専ら外国の馬に対する出走制限を理由に、国際統一規格に基づく格付から外れ、格付表記も国内ローカル扱いの「JpnI」と改められた。その後、2010(平成22)年から外国調教馬も出走可能な国際競走となったことで正式に国際格付が認められ、格付表記も「GI」に戻された。近年は、日本ダービー(東京優駿)を頂点とする従来の国内の競走体系から様々な距離体系等、カテゴリー毎にチャンピオンを選別する体系に遷移しており、必ずしも全ての競走馬が日本ダービー(東京優駿)を目指す、という状況は薄まりつつある。しかし、1年間の競馬を象徴する時にもしばしば、日本ダービー(東京優駿)の優勝馬が挙げられるように、日本競馬界の象徴であり最大級の目標であるという点については、創設以来の価値を保っている。1905(明治38)年に勃発した、大日本帝国とロシア帝国との間で、朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部(現在の中国東北部に所在)、及び日本海を主戦場として発生した戦争、日露戦争において、内外の軍馬の性能差を痛感した政府により、国内では産馬育成が奨励されたが、1906(明治39)年に馬券発売が黙許され、賭博を公然と行なえるようになったこと等から多くの問題が生じてしまい、1908(明治41)年に至って馬券の発売が禁止されると、馬産地は空前の大不況に見舞われた。大正時代中期より、産馬業者から、陸軍軍人(陸軍騎兵大尉)・政治家で、東京競馬倶楽部(競馬を施行していた団体)会長の安田伊左衛門に対して「イギリスのクラシック競走であるダービーステークスのような高額賞金の大競走を設けて馬産の奨励をしてほしい」という意見があり、予てからの自身の構想と合致すると考えた安田伊左衛門は、馬産の衰退を食止める手段として、イギリスの首都ロンドン郊外にあるエプソム競馬場のダービーステークスを範し、4歳 (現3歳)牡馬・牝馬の最高の能力試験であること、競走距離が2,400m、又は2,400mに限り無く近いこと、(開催国で催される競馬の)最高の賞金額を設定すること、2歳 (現1歳)秋から4回の出走登録を出走資格の条件とすること、負担重量は馬齢重量とすること、施行時期は原則的に春季とすること、そして、以上の条件を満たす競走は国内において、本競走のみとすること、という7つの原則の下、4歳 (現3歳)牡馬・牝馬限定の「東京優駿大競走」を創設することを、1930(昭和5)年4月24日に発表した。初回登録は同年10月に行なわれ、牡92頭、牝76頭の計168頭が登録される。第1回は1932(昭和7)年4月24日に目黒競馬場の芝2,400mで施行された。第1回の競走の模様は、発走前の下見所の様子から本馬場入場、表彰式に至るまで全国へラジオ中継された。優勝馬の賞金は10,000円(現在の貨幣価値に換算すると約2,500万円)、副賞として1,500円相当の金杯の他、付加賞13,530円が与えられ、合計で25,000円程(現在の貨幣価値に換算すると約6,250万円)となった。従来の国内最高の賞金が優勝内国産馬連合競走(3,200m[約2マイル]で行なわれていたことから「連合二哩」とも呼ばれた、春秋1回ずつ3200m[当時]で行なわれる「日本一の名馬決定戦」という点で、後の天皇賞の前身とされる)の6,000円(現在の貨幣価値に換算すると約1,500万円)であったことから、賞金の額も飛抜けて破格であり、折からの好景気も相まって、幼駒の取引価格が跳ね上がった。また、それまで日本国内では、競走馬の年齢を出走資格に定めた競走の開催は限定的であり、2歳 (現1歳)からの定期的な登録を要件とする「東京優駿大競走」の創設によって、国内における競走馬の生産、育成、競走と種馬 (牡、牝とも)選抜のサイクルに、初めて明確な指針が与えられた。なお、「日本競馬の父」「日本ダービーの生みの親」と呼ばれる安田伊左衛門は、日本競馬のレベルアップを図るべく、さまざまな改革を行なっている。イギリスを範としてレースの体系を整備し、日本ダービー(東京優駿)を始めとするクラシックレース(古くから施行されていた伝統的な競馬の競走)五大競走の原形を作った。1951(昭和26)年には、安田伊左衛門の業績を称え、日本競馬史上初の古馬マイル重賞「安田賞」が誕生。1958(昭和33)年に安田伊左衛門が死去した後、「安田賞」は「安田記念」と改称され、現在は春季の芝マイル部門チャンピオンホース決定戦として開催されている。