4月23日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4火曜日 旧暦  3月15日、大安(丁巳)、月齢 14.4  
グレゴリオ暦で年始から114日目、年末まであと252日。
誕生花 ローズマリー・カンパニュラ。

慶應義塾大学開校記念日。
慶應義塾大学は、豊前国中津藩藩士の福沢諭吉が藩命により、江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内に、1858(安政5)年冬に開校した蘭学塾を起源に持つ大学である。なお、蘭学塾は、江戸時代に西洋の学問を学ぶために私塾(民間の教育機関)として広まった学問所で、ヨーロッパの学問(蘭学)を、初期は主に西洋医学と天文学、後に化学、物理学、西洋建築学等を学ぶ場所として使われ、その後の日本の近代化に大きな役割を果たした。1868(慶応4)年、江戸幕府幕臣で幕府海軍軍制取締、浜御殿添奉行、本丸目付、長崎海軍伝習所取締、軍艦奉行、勘定奉行等、幕府の要職を歴任し、軍艦『咸臨丸』の総督を務めた木村摂津守芥舟の世話により、芝新銭座(現在の東京都港区浜松町)の有馬家(元々は、肥前国[現在の長崎県]島原半島を根拠とする戦国大名で、幕末期には越前国丸岡藩[現在の福井県北東部に所在]藩主の有馬氏)控屋敷跡に移転。当時の年号を取って「慶應義塾」と塾名を定めた。1871(明治4)年に、三田(現在の東京都港区三田)の肥前国島原藩中屋敷跡地を貸下げられ(翌年払下げを受ける)、現在の本部所在地に移った。1909(明治42)年、「慶應義塾」が芝新銭座(現在の東京都港区浜松町)から三田(現在の東京都港区三田)に移転した日を太陽暦(グレゴリオ暦)に換算して、開校記念日を4月23日と制定した。4月23日は、「慶應義塾大学」の開校記念日として、大学は休校となる。1873(明治6)年に「慶應義塾医学所」を開設。1873(明治6)年に修業年限を定めて正則・変則両科を新設、1875(明治8)年に本科・予備科となる。1879(明治12)年に専門教育課程として夜間法律科(専修学校[旧制]へ改組、後の専修大学)、理学科、支那語科、簿記講習所を設置。1890(明治23)年に大学部(文学・理財・法律の三科)を開設する。1898(明治31)年に政治科を開設。1917(大正6)年、大学部に医学科を開設して付属大学病院を開院する。この時には、「日本の細菌学の父」として知られる医学者・細菌学者の北里柴三郎が開設に尽力している。1920(大正9)年には、「大学令(大正7年12月6日勅令第388号)」による日本最初の私立大学(旧制大学)として新発足し、文学・経済学・法学・医学の4学部から成る総合大学となり、予科・大学院を付設した。この時、学事に関する最高意思決定機関として慶應義塾評議員会が設けられた。1942(昭和17)年に中国大陸、及び南方の農業開発を目指して農学部を増設しようとしたことがあり(獣医畜産専門学校)、1947(昭和22)年には獣医師の免許を得ていた。1944(昭和19)年、日本で最初に設立された私立工業単科大学「藤原工業大学」(現在の神奈川県横浜市港北区日吉に所在)が寄附され工学部を開設。1957(昭和32)年に商学部を開設。1990(平成2)年、神奈川県藤沢市遠藤に所在する湘南藤沢キャンパスに、総合政策学部・環境情報学部を開設。2008(平成20)年4月には、「共立薬科大学」(東京都港区芝公園に存在した薬学系の私立大学)が合併したことにより、新たに薬学部と薬学研究科を設置した。明治以後、官公私立問わず、近代日本の教育制度、大学制度の立上げモデルになり、また、後に私立大学となる学校の中で、最初に授業料を徴収した。日本の私立大学では早稲田大学(東京都新宿区戸塚に本部を置く私立大学で、「早慶」の早)と共に、最も古い段階で「大学令」に基づく大学となった。現在の大学は10学部で、大学院は14研究科となっている。中国での「義塾」本来の語義は、公衆のために義捐(大義、公共の為に資金を投出すこと)で運営される学塾という意味で、学費を納めないのが原則である。慶應義塾は、中国伝統の「義塾」にイギリスの「パブリックスクール」(13歳から18歳までの子供を教育する、イギリスの私立学校の中でもトップの10%を構成するエリート校)の内容を盛ったものとされる。また、「義塾」の「義」は、社会公共のため協力してことを行なうという意味があり、これを念頭に置いている。慶應義塾には、「慶應義塾の目的」という文章が伝わっている。これは、1896(明治29)年11月1日に、東京府東京市芝区(現在の東京都港区)芝公園にある会員制の高級料亭『紅葉館』で開催された懐旧会(慶應義塾出身者との懇親会)において、福沢諭吉が行なった演説を元に、福沢諭吉自身が書直したものである。 また、慶應義塾では、塾訓である「独立自尊」(まずは各人の独立を旨とすもの)を教育の基本に置く。さらに、単なる知識に終わらず、物事の本質や理念や仕組みを理解した上で体得する学問のことを指している「実学の精神」を、福沢諭吉は理念として掲げた。かつて、全学部学科において水泳が必修科目であり、「塾生皆泳」なるスローガンの下、水泳で50m泳法ができないと単位を取得できず、シーズンスポーツで水泳を選択することが義務付けられていた。第二次世界大戦中の様子を窺うことのできる重要な資料として、大日本帝国海軍(旧海軍)との間には深い関わりがあり(当時の塾長は経済学者の小泉信三)、1944(昭和19)年3月に軍令部(日本海軍の中央統括機関で、海軍全体の作戦・指揮を統括していた)第三部が日吉校舎(現在の神奈川県横浜市港北区日吉に所在)に入ると、次いで寄宿舎に連合艦隊司令部が、後に海軍省・航空本部・艦政本部の地下壕が構築され、日吉は実質的な海軍の中枢となった。太平洋戦争(第二次世界大戦対米英戦)における、台湾沖航空戦、レイテ沖海戦、戦艦『大和』の出撃命令等は全て、この日吉台地下壕から発せられたものであった。この経緯としては、1937(昭和12)年に日中戦争が勃発すると、大学内でも配属将校はもちろん、特別高等警察(特高)が来るようになる。授業では、自由主義や共産主義は厳しく弾圧され、国防論等の軍国主義的な講義が増え、教練も次第に厳しくなっていった(慶應義塾は、当時の小泉信三塾長等が、学究的に共産主義に不協和なスタンスを取ったため、特別高等警察[特高]等による監視はそれ程厳しくはなく、塾生は比較的自由に学問に取組むことができた)。海軍省と慶應義塾が大学校舎を貸与する契約を結んだ背景には、横須賀軍港(現在の神奈川県横須賀市に所在する東京湾に面する港湾)から近いことや、空襲避難に優れていたこと、各海域からの無線の受信状態や、陸からの指揮統制システムに優れていたこと等が挙げられる。また、福沢諭吉の弟子として、日本の近代教育の礎を築いた教育者の1人である初代塾長岡本周吉(幕府海軍の軍艦『高雄』の艦長を務めていたこともある)らが海軍兵学校(大日本帝国海軍の将校たる士官の養成を目的とした教育機関)の教官を務めた他、明治期の卒業生は海軍関係者も多く、現在の東京都中央区築地にあった海軍兵学寮(海軍兵学校の前身)や海軍主計学校(大日本帝国海軍で庶務・会計・被服・糧食を受持つ主計科要員育成のために置かれた、軍学校としての養成学校で、後の海軍経理学校の前身)に転じた者も多い。