4月22日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4月曜日 旧暦  3月14日、仏滅(丙辰)、月齢 13.4 
グレゴリオ暦で年始から113日目、年末まであと253日。
誕生花 ムシトリナデシコ(虫取り撫子)・アスター。

清掃デー。
1954(昭和29)年4月22日、生活環境整備の重要性の普及徹底を図る趣旨で、「清掃法(昭和29年4月22日法律第72号)」が制定されたことを記念して制定された。1954(昭和29)年7月1日に施行された「清掃法」は、1900(明治33年)に伝染病の蔓延を防ぐために制定された「汚物掃除法(明治33年3月7日法律第31号)」が元となってる。「汚物掃除法」の内容は、私有地については、土地の所有者、及び使用者、又は占有者に、公有地は市に「汚物ヲ掃除シ清潔ヲ保持スルノ義務」を定め、さらに、市は「蒐集シタル汚物ヲ処分スルノ義務」を負うものとされ、町村についても準用された。この時から、ごみとし尿の収集が地方行政の事務として位置付けられることになった。当時は公安管轄の法律であり、規制と罰則を中心とした内容であった。第二次世界大戦後、これを引継ぐ形で1954(昭和29)年に「清掃法」が制定された。対象は、汚物「ごみ、燃えがら、汚でい、ふん尿及び犬、ねこ、ねずみ等の死体」とされた。現在で言う産業廃棄物は、「多量の汚物」や「特殊の汚物」として、個別に「指定する場所に運搬し、若しくは処分すべきことを命ずることができる」とするに留まっていた。第二次世界大戦後の日本経済が飛躍的に成長を遂げた、1954(昭和29)年12月から1973(昭和48)年11月までの約19年間の時期である高度経済成長期に伴なって、大量消費、大量廃棄によるごみ問題が顕在化した。また、ごみ焼却場自体が公害発生源として、問題となってきた。1970(昭和45)年の第64回国会(臨時国会で、公害問題に関する法令の抜本的な整備を行なったことから、公害国会の通称で知られる)において、「清掃法」を全面的に改める形で、「廃棄物の処理及び清掃に関する法律(廃棄物処理法、廃掃法、昭和45年12月25日法律第137号)」が成立した。1976(昭和51)年には改正され、「措置命令規定の創設」「再委託の禁止」「処理記録の保存」「敷地内埋立禁止」等が定められた。その後も数次に亘る改正で、廃棄物処理施設についての規制強化や廃棄物の不法投棄の罰則強化、排出事業者処理責任の徹底、廃棄物の野外焼却(野焼き)の禁止、石綿(アスベストとも呼ばれ、天然に産する繊維状けい酸塩鉱物で、空中に飛散した石綿繊維を長期間大量に吸入すると、肺癌や中皮腫[胸部の肺、或いは心臓、腹部臓器等は、胸膜・心膜・腹膜等という膜に包まれており、これらの膜の表面を覆っているのが「中皮」で、この中皮から発生した腫瘍を中皮腫と称する]の誘因となることが指摘されるようになり「静かな時限爆弾」と呼ばれるようになった)含有廃棄物に係る処理基準の策定等が行なわれている。廃棄物とは、占有者が自ら利用し、又は他人に有償で譲渡することができないために不要となったものをいい、これらに該当するか否かは、その物の性状、排出の状況、通常の取扱い形態、取引価値の有無、及び占有者の意思等を総合的に勘案して判断すべきとされる。日本の廃棄物の9割近くは産業から出ている。廃棄物を埋立てる最終処分場の確保が厳しいことや、不法投棄、食料の廃棄の多さが問題とされることが多い。人が経済活動をしていく上で、ごみ(廃棄物)は必ず発生するものであり、これらを焼却処理した場合でも最終的には焼却灰が発生し、いずれもこれらを埋立する場所(最終処分場)が必要となる。最終処分場へ運び込まれる廃棄物には、重金属やダイオキシン類等の有害物質を含むものもあり、このような有害性の高い廃棄物については特別管理廃棄物に区分され、周辺への安全性の確保から、特別な構造基準により設置がされている。しかし、構造基準制定前の緩い構造基準で造られた処分場や、既設のミニ処分場・自社処分場(設置構造基準がない)から、有害物質が一般環境中に拡散する問題等が各地で発生している。最終処分場が設置されている地域が、水源地に近い山間部に設定されている場合が多く、水資源への汚染を恐れた市民により、新設反対や既設改善運動が度々起きている。最終処分場の確保については、自治体にとっても大きな問題となっている。また、コンクリートや木材等は産業廃棄物処分場に大量に搬入されていたため、2002(平成14)年度より「建設工事に係る資材の再資源化等に関する法律(建設リサイクル法、平成12年5月31日法律第104号)」が施行されて、対策が始まった。4月22日から4月28日までは、「全国環境衛生週間」となっている。なお、1971(昭和46)年9月24日、「廃棄物の処理及び清掃に関する法律(廃棄物処理法、廃掃法、昭和45年12月25日法律第137号)」が施行されたことから、9月24日が「清掃の日」とされている。
カーペンターズの日。 
『スーパースター』『トップ・オブ・ザ・ワールド』『イエスタディ・ワンス・モア』等、数々のヒット曲を持ち、世界的な人気を誇る『カーペンターズ』。2009(平成21)年に、その記念日を制定したのは、東京都港区赤坂に本社を置く、所属先のユニバーサルミュージック合同会社(日本に拠点を置く外資系レコード会社の中では最大手)。日付は、『カーペンターズ』がアメリカのレコード会社A&Mレコード(現在はユニバーサルミュージック傘下)とメジャー契約を交わし、正式に『カーペンターズ』のグループ名で活動を開始した、1969(昭和44)年4月22日から。アメリカの兄妹ポップス・デュオである『カーペンターズ』は、楽器を兄のリチャード・カーペンターが受持ち、ヴォーカルを妹カレン・カーペンターが担当。ロック全盛の1970年代において独自の音楽スタイルを貫き、大きな成功を収めた。日本においても、時代を越えて愛され続けているグループであるが、1983(昭和58)年のカレン・カーペンターの死により活動を終えた。『カーペンターズ』の音楽を特徴的なものにした要素の1つは、カレン・カーペンターの用いた低い音域の声である。ジャズやカントリー・ミュージックの分野には見られたが、当時のポピュラー音楽の世界に、アルト歌手は殆ど存在しなかった。しかし、カレン・カーペンターはおよそ3オクターヴに亘る広い声域を持っていた。リチャード・カーペンターの声も、カレン・カーペンターの歌声と非常に相補的なものと評価されていた。カレン・カーペンターは高い音域の声も出すことはできたが、低音程特質のあるものではなかった。カレン・カーペンターの「魔法」が低音域にあったため、リチャード・カーペンターはカヴァー曲はもちろん、自作曲もカレン・カーペンターにふさわしいキーで編曲し直した。『カーペンターズ』の音楽は、そのアレンジの見事さによって高く評価されている。アレンジは大抵リチャード・カーペンターが担当し、その手腕は広く賞賛された。アレンジの大半はクラシックのスタイルで、多くの弦楽器や、時には金管楽器や木管楽器も用いた。『カーペンターズ』として行なった日本公演は、1972(昭和47)年、1974(昭和49)年、1976(昭和51)年の3回である。1974(昭和49)年の日本公演では、東京ではひばり児童合唱団と、京都では地元の合唱団と『シング』を日本語で歌った。
ミス日本の日。
東京都新宿区西新宿に事務局を置き、日本らしい美しさで社会をより良くすることを目的とする一般社団法人ミス日本協会が、2017(平成29)年に制定。身体のプロポーションや美貌等の外見、理性や知性等の内面、社会を良くするための行動力、という、3つの美を兼ね備えた「真の美しさ」をもつ女性を選出する「ミス日本コンテスト」の意義を、より多くの人に知ってもらうことが目的。日付は、1950(昭和25)年4月22日に、初の「ミス日本コンテスト」が読売新聞社主催で開かれたことから。初代の「ミス日本」には、後に女優として活躍する山本富士子が選ばれている。因みに、「ミス日本」は「ミスニッポン」と読む。現在では、美容研究団体の和田研究所を主催団体として、「ミス日本コンテスト」が毎年開催されている。日本国内に完結するコンテストであり、世界を代表するミス・コンテストであるアメリカの「ミス・ユニバース」やイギリスの「ミス・ワールド」等、世界大会を目指すコンテストとは異なる。応募資格は、日本国籍を持つ17歳から26歳までの出産経験のない未婚の女性で、身長155cm以上となっている。表彰項目には、ミス日本グランプリ、ミス日本「水の天使」、ミス日本「みどりの女神」、ミス日本「海の日」、ミス日本「ミス着物」、準ミス日本がある。ミス日本は、将来に自分の夢を叶えるために、社会と向合い努力を重ねる、心身共に美しい女性達である。彼女達の明るくひたむきな姿勢と笑顔は、テレビや新聞、雑誌、イベント等で見ることができる。ミス日本の出演実績としては、飲料会社のCMキャラクター、航空会社による海外での国際線就航記念式典ゲスト、化粧品会社による美がテーマの講演会ゲスト、ヨーロッパジュエリーメーカーの新作発表会モデル等がある。